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代替医療のトリック
著:サイモン シン、エツァート エルンスト
訳:青木 薫
新潮社
第1章 いかにして真実を突き止めるか
第2章 鍼の真実
第3章 ホメオパシーの真実
第4章 カイロプラクティックの真実
第5章 ハーブ療法の真実
第6章 真実は重要か?
付録 代替医療便覧
アーユルヴェーダ
アレクサンダー法
アロマセラピー
イヤーキャンドル(耳燭療法)
オステオパシー(整骨療法)
キレーションセラピー
クラニオサクラル・セラピー(頭蓋オステオパシー)
クリスタルセラピー
結腸洗浄
催眠療法
サプリメント
酸素療法
指圧
神経療法
人智学医療
吸い玉療法(カッピング)
スピリチュアル・ヒーリング(霊的療法)
セルラーセラピー
デトックス
伝統中国医学
ナチュロパシー(自然療法)
バッチフラワー・レメディ
ヒル療法
風水
フェルデンクライス法
分子矯正医学(オーソモレキュラー)
マグネットセラピー(磁気療法)
マッサージ療法
瞑想(メディテーション)
リフレクソロジー(反射療法)
リラクセーション
レイキ(霊気)
より詳しく知りたい読者のために
※とても大切なポイント
たぶん議論のポイントはここにしかないので、最初に指摘しておきます。
EBM(根拠に基づいた医療)で検証されるのは、「ある治療法の理論や効くメカニズム」ではなく、シンプルに「その治療法に効果はあるか、副作用はないか」です。
ある代替医療がどんなに科学的に検証できない・否定されるような理論を前提にしていても、EBMではそこにはあえて注目しません。
EBMで検証されるのは、「科学的に説明できなくても、実際に効くんだ」という代替医療の主張の、まさに「実際に効く」かどうか、そちらの側面です。
ですから、「理論はおかしい(または不明だ)が、効果は確認できた」という療法があった場合、EBMでは「有効性が実証された」という評価になります。
逆に、ある代替医療がEBMによって否定されたという事実があった場合、それは「効くメカニズムが非科学的だ」という否定ではなく、「効かないからお金のムダ」ということが実証されてしまった、ということなのです。
代替医療側の人の反論がほぼすべて「科学で解明できないこともある、でも現実に効く人がいるんだ」になっていますが、EBMで否定されるということは「理論やメカニズムは知らないけど、とにかく実際にやっても効かないことが実証されちゃったよ」ということですから、それでは反論にならないわけですね。
EBMに対して反論したいならば、統制実験や疫学的研究といった、EBMの「効くかどうかの検証方法」を論破しなければならないのです。
さて、ここから本文です。
代替医療というのは、「通常(主流派)医療」と対の概念を成すもので、主流派の医療界が行なわないような医療的介入を行なうものを総称して呼ばれるものです。
この中には、自閉症の療育でもよく話題に上がるような、ホメオパシー、キレーション、サプリメント療法、オーソモレキュラーなども含まれます。
それ以外には、はり治療やカイロプラクティック、ハーブ療法、指圧や整骨、デトックスなどもよく話題にのぼりますね。
本書は、こういった主流派医療の枠組みの外にある「代替医療」を、批判的に検証していくものです。
とはいえ、この本は「代替医療はけしからん」と頭ごなしに否定するものではありません。
また、その代替医療が主張する超科学的な理論が怪しいからといって、そこで検証をやめてしまうものでもありません。
実は、本書の最大のテーマは代替医療批判にはなく、むしろ、
EBM(evidence-based medicine=根拠に基づいた医療)とは何か、EBMの意義とは何か
というところにあるんじゃないか、と感じています。
EBMとは、端的には「その医療が効果があるかないか」を、検証結果に影響を与えるノイズを徹底的に排除して検証し、効果が認められたものだけを採用するという医療的アプローチです。
別の言い方をすれば、「その医療がもっている理論」が正しいか間違っているかではなく、「その医療が、結果として効果があるかないか」をしっかり検証しよう、という考えかたになるわけです。
例えば、本書で最初にとりあげられている「はり治療」を例にとれば、経路とか気といった「理論」の妥当性はまずは横に置いて、「はり治療は実際に人体に対して効くのか効かないのか」「副作用などの危険性はどの程度あるのか」について、実証的に検証していくわけです。そして、実際に効果があり、その効果がコストや危険性に対して十分高いものであるならば、「その治療法は有効である」という評価が下されるわけです。
本書の構成をみると、いきなり個別の代替医療の検証に入るのではなく、まずは冒頭の第1章で、「EBMとは何か」「EBMの方法論とはどのようなものか」「EBMは医療の歴史のなかでどういった役割を果たしてきたか」「EBMの意義はどこにあるのか」といったことが、初めてEBMに触れる人にとっても分かりやすく理論立てて説明されており、主流派医療自体がEBMのアプローチにより繰り返し自己改革を行なってきたことが明示されます。
この最初の1章だけでも、もう少し肉付けをして「EBMとは何か」といったタイトルで新書として出してもいいんじゃないだろうか、と思えるほど充実しています。
そして、第2章から第5章までは、この第1章を受ける形で、既に本格的なEBM的検証が済んでおり、「効果があるかないか」についての結論がほぼ出ている代替医療として、「はり治療」「ホメオパシー」「ハーブ療法(セントジョーンズワートがうつに効く、といったアレ)」が集中的に取り上げられていきます。
そこでは、いきなり結論を出してしまうのではなく、それぞれの療法がどのような歴史をたどってきたか、「主流派医療」との間でどのようなやりとりがあったのか、これまでの学術論文での検証結果はどうなっているのか、「信頼性に疑問がある」とされる論文・研究については、そこにどのような問題があり、その問題によって検証結果がどのように歪んでしまった恐れがあるのか、といったことが詳細に語られ、最後に、EBMに基づくそれら代替医療の有効性についての結論が記されています。
引用される研究結果は新しく、実は「はり治療」について盲検法に基づく厳密な検証が行なえるようになったのは21世紀に入ってからのことである、といったことも分かります。(そして当然、この本ではその最新の検証に基づいた「はり治療」へのEBM的評価が書かれています)
この「結論」にいたる各章のプロセスは、それ自体が推理小説のようにスリリングなもので、ここでその結論を書いてしまうことは「ネタバレ」になってしまいますので、あえて書きません。
ただ、どの代替医療についても、相当に「厳しい」結論が出ていることは間違いがなく、少なくともそれら代替医療を宣伝している人たちが主張するような「副作用もなく劇的な効果」というものはどこにも存在しないことだけは書いておきたいと思います。
代替医療は、年間総売上数百億ポンドものグローバル産業になっているが、全般に、言われているような医療上の効果はない。つまり、何百万人という患者があてにならない治療法に頼って、金を無駄に費やし、健康を危険にさらしているということになる。しかも、本書はこれまで、代替医療のなかでも、比較的きちんとした分野だけに絞って見てきたことを思い出そう。もっと途方もない主張をして、患者からさらに多額の金を巻き上げている怪しげな代替医療が何十となくあることを思うと、暗澹とした気持ちにさせられる。(初版280ページ)
代替療法のセラピストたちは(中略)、人間の身体がもっている治癒力を、自分の治療が効いたからと思ってもらうには理想的な立場にある。彼らは症状がたえず変化する慢性病の患者を治療することが多いため、偶然の一致で具合が良くなるタイミングはいくらでもある。(中略)一番具合の悪いときにハーブやホメオパシーの丸薬を呑んだり、どのみち改善に向かう時期に鍼を打ってもらったりした患者は、治療のおかげで良くなったと思うだろう。
たまたま患者の症状が悪化する時期に治療を始めたとしても、すでに第IV章で取り上げたように、「好転反応」だと言えばすむ。(中略)セラピストは時間かせぎをすることができる。結局、理由はどうであれ患者が回復しはじめれば、代替医療のセラピストは治療が効いたと言うことができるのだから。(初版300~301ページ)
ところで、この第2章から第5章までのテーマの取り上げ方も、本書が単なる代替医療批判ではなく、EBMとはどんなものであるかを示すことを主眼においていることをよく示していますね。
もし代替医療批判がメインなら、各章をもっとコンパクトなものにしたうえで、より多くの代替医療を取り上げるという書き方になっていたでしょう。
そうではなく、数少ない療法を深く掘り下げていき、そのストーリーのなかで、「プラセボ効果」や「確証バイアス」などの効果測定に影響を与える因子や、「ランダム化比較」や「二重盲検法」といったEBMの実験デザインなど、EBMをより深く理解するために欠かせないさまざまな概念が、こういったジャンルになじみのない一般の読者にとってもよく分かるよう、専門用語を使わずにていねいに説明されていきます。
当ブログでよく取り上げる「エピソード主義」についても、以下のような記述がありました。
要するに、医療の主流派は、ホメオパシーについてもその他どんな治療法についても、逸話は(人間の患者に関するものであれ、動物の患者に対するものであれ)、治療法を支持する根拠としては不十分だとして認めない。逸話をどれほどたくさん集めても、しっかりした科学的根拠にはならない。科学者がよく言うように、「逸話の複数形はデータではない」のだ。(初版168~169ページ)
ちなみに本書では、2章から5章に含まれない、30あまりの「その他の代替医療」への評価が巻末に付録として掲載されています(目次参照)が、そのボリュームはそれぞれ見開き2ページ程度と、大したものではありません。
それでも、さまざまな検証研究の結果が多数掲載されており、これら代替医療がEBMの見地からどのように評価できるかは一望できます。
続く第6章では、第5章までの検証結果を踏まえて、これほど効果が薄く、リスクをはらみ、無駄なお金を払うことになる代替医療がなぜこれほど広く普及し、多くの人を巻き込んでしまっているのかについて、代替療法を広めてしまう「社会的構造」、別の言い方をするなら「誰のせいでこんなに代替医療がはびこっているのか」について、厳しい問題提起を行なっています。
一番に槍玉にあがっているのが、イギリスのチャールズ皇太子(代替医療が大好きらしいです)だったりしますから、この章は全体としてそれなりに勇気ある告発の章になっていると思われます。それ以外にも、代替療法シンパのセレブリティや、大学、マスコミなどが具体名を示して批判されています。
日本でも、民主党政権は代替療法に肯定的なようですから、ぜひ政府の検討チームは本書を読んでEBM的リテラシーを高めていただきたいものです。
本書を読むと、代替医療の本質というのは、基本的には「正統派医療の厳密で徹底した検証に耐えられずにはじき出されたものが、マーケティングの力と『善意の(ただし根拠のない)信念』だけで広まってしまったもの」のようである、ということがよく分かります。
それまでの正統派医療の常識と異なる主張であっても、適切な研究によって科学的に実証できれば、それは既存の考えを覆し、新たな「主流派医療」として位置づけられる、ということは、最近の「ピロリ菌胃炎原因説」という事例でも確認できます(この事例も本書に掲載されています)。
代替医療が「主流派」から相手にされないのは、「陰謀により排除されている」のではなく、自らが効果を実証できないからに過ぎないのです。
そんなわけで、本書は「代替医療」をとっかかりに、EBMについて学ぶことができる、他に代えがたい優れた本になっています。
大手出版社の出す単行本にしては値段が高めだな、と感じられる方がいらっしゃるかもしれませんが、実際手にとってみると、450ページ以上の大著(しかも訳書)で、最新の医学情報を存分に盛り込んだ「書くのに手間のかかる」内容にもなっており、納得の価格でしょう。実際、本書を読破したときの読後感は、値段以上に濃密で充実したものになると思います。
EBMの素養、EBM的リテラシーは、自閉症の療育にかかわっていく親御さんや支援者にとって、欠かすことのできないものです。
言うまでもありませんが、自閉症療育の世界にも、「怪しげな」代替療法が多数存在しています。
原因がはっきり分からず、状態がたえず良くなったり悪くなったりし、しかも全体としては「発達」して伸びていく、という自閉症の特徴は、上記で2番目に引用した「代替療法が信じられやすくなる状況」そのものだと言えますから、こういった状況もある意味「必然」です。
さらに、代替「医療」であれば、それでもまだ通常医療との間である程度は比較検証ができますが、療育の世界にはEBM的な確たる「通常」療育といったものが存在せず、「代替療法」的なものが「主流派」に極めて近い場所を占めている実態があります。
EBMの立場に明確に立つABAは例外的な存在ですが、一方で、ABAに熱中する親御さんがキレーションやGFCFダイエット、抱っこ法などの代替療法にも入れ込むことがしばしばである(たとえばコチラやコチラ)ように、ABAが支持されている理由は、必ずしもそれがEBM的であるからではないようです。(この辺りの考察については、上記の2つのリンクや、コチラのエントリ、コチラのコメント欄などもご覧ください。)
でも、そんな心もとない「療育環境」のなかにあっても、私たちには(そしてお子さんにも)効果がはっきりしなかったり危険性が高かったりする怪しげな代替療法に費やすことができる余計な時間も、お金も、エネルギーもありません。
それら大切なリソースをムダに費消してしまわないための「保険」として、ちょっとボリュームがあって読むのに時間がかかるかもしれませんが、本書をしっかり読んで、絶えず手元において、EBMの知識で「理論武装」することは、とても意味のあることでしょう。本書を読むために必要な金銭的・時間的コストと、読むことで回避できる将来の「無駄な療育」へのコストを比較すれば、ほとんどの人にとって、後者のほうが大きくなるはずですから。
療育に真剣に打ち込んでいく人にとって(あるいは、真剣に打ち込む人にこそ、その熱意を悪用されないために)必読の書だと言えます。
療育リテラシーを高めるための本として、「クリティカル進化論」に続き、当ブログ殿堂入りです!
参考:
自閉症療育に対するEBM的レビューとしては、井上雅彦先生とつみきの会が翻訳した「オーストラリア自閉症早期療育エビデンス・レビュー(2006)」が優れた資料です。
このレビューによると、ABAには有効性のエビデンスがあり、TEACCHは「やや弱いが一定のエビデンスがある」、PECSは「肯定的な研究はあるが統制が不十分である」、そして感覚統合療法は「有効性を支持する研究はない」という低い評価が、それぞれなされています。
※その他のブックレビューはこちら。
また、代替療法の害悪も現実です。
一方で、自閉症ってEBM的方法論との親和度がほとんど最低ランクなんじゃないかな、とも思います。
理由は様々ありますが、下の記事との関わりで言えば「そもそも自閉症を特定できてないじゃないか」ってこと一つです。
例えば、癌をただ一括りに「癌」と雑に捉えていたとしたら、その先エビデンスもなにもありませんよね。
脾臓癌にのみ有効な抗がん剤なんて珍しくないわけで、エピソード主義を否定し切れません(もしも脾臓癌だったら劇的に治る)。
また、十分な「検証された方法」が供給されていないという問題もあります。
現状、行動療法だけですよね(日本にモドキでない、検証されたTEACCHを受けられる環境があるでしょうか?)
特に「劇的な改善を強く望む」という人たちにとってEBM=絶望ということあればEBM自体を拒絶されて当然です。
コメントありがとうございます。
「脾臓癌にのみ有効な抗がん剤」は、EBMで有効性が確認できるはずですね。実際に「効く」わけですから。
また、EBMと自閉症が相性がよくない面があるのはそのとおりなのですが、「だから」代替療法なんだ、という流れは、代替療法の人たちの大好きな「論理のすりかえ」だと言えますね。
「科学的な天気予報が当たりにくい」ことは「下駄の表裏で天気を予測することが有効だ」ということを結論しないわけで、EBMで有効だとされる療育がなかなかないことは、「代替療法が効く」かどうかとはまったく無関係なわけです。
このあたりについて頭をクリアにしておくことが、「療育リテラシー」の第一歩なんじゃないかな、と思っています。
WHOは誤ったということなのでしょうか。
コメントありがとうございます。
Seesaa長期ダウンのため反映が遅くなりました。
鍼についてのWHO調査については、詳しく言及されています。
以下「ネタバレ」になりますので、本で読みたい、という方は読まないでください。
以
下
ネ
タ
バ
レ
鍼は、「鍼をさす」という行為が患者にも見えるので盲検法が行ないにくく、WHO報告は「鍼をさした患者」と「ささない患者」を比較していたためにプラセボ効果を除去できていなかったことと、「発表バイアス(うまくいった研究だけ発表する)」が強く働いている可能性がある中国産の論文を大量に考慮に入れた点に問題があったとのことです。
21世紀に入り、「深くささったように見えるけど実際は針が引っ込んだだけでほとんどささっておらず、しかも手を離しても患部に立っている」という偽鍼が開発され、それを使い、かつ「ツボ」を外すという「プラセボ鍼治療」を行なった患者と、本当に鍼治療を行なった場合を比較することによる盲検法(「二重」はさすがにムリ。施行している側は本物かニセモノか分かってしまうので)で検証しなおした結果、鍼の効果にはプラセボ以上のものはなさそうだということが徐々に分かってきたそうです。
プラセボ効果は「効く」と信じること=効きそうな雰囲気があることで効果が最大化されますので、鍼のもつ東洋的・神秘的な雰囲気、長い鍼をさすという「儀式」の効果などにより、特に高いプラセボ効果を発揮してきたのだろう、と推測されています。
つまり「プラセボ鍼」もよく効いた、ということですね。ここも実はポイントです。
鍼灸業界からは「真の治療者がやらないと効果が出ないのは当たり前」みたいな反論が出ているようですが、そうではなくて、「プラセボ鍼でも効果があった」という結果が出ているのですね。そこから、「『ちゃんとした』鍼治療」マイナス「プラセボ鍼治療」イコールゼロ、という結論につながっているわけです。
鍼の件でも明らかなようにEBM的結論と言われるモノが100%でない以上、それを受け入れる受け入れないは結局個人の主観によるわけで、様々な「事情」にも左右されます。
リテラシーによって代替療法を否定した後、「ではどうしたらいいか」というものがセットで与えられないと、リテラシーの普及も代替療法駆逐にどれほど効果を発揮するか疑わしい気がします。
「障害を受容する哲学」のようなものがその役割を果たし得るのではないか、と個人的に思います。
鍼についてEBM的結論が100%でない、というのはどういう意味かちょっと分からないのですが、おっしゃっているような「EBM的結論を受け入れない人もいる」という問題は、EBMの責に帰すべき問題ではないだろうとは思います。
また、「リテラシー」というのは単に理屈を理解するということではなくて、ちゃんと優先順位や重み付けまで含めて評価できるということだと考えていますから、「リテラシーが普及」すれば、効果のない代替療法は消えるほかないと思います。
ただ、このプラセボ鍼はその現場を見ていないので何とも言えませんが、反証足り得ないのではないか、と思います。
鍼がプサッと刺さっているのが鍼治療の本質であり、その他は効果が絶対にない、という定義に基づくのならこれは意味があるのですが、せんねん灸に見られるように、ツボを刺激するところに本質がある以上、プラセボ鍼でも刺激を与えちゃっているのであれば、効果は出る可能性を否定できません(先っぽが軽くでもあたるわけですよね?)。
イ・ヨンエファンだから言うわけではありませんが(笑)、息子が西洋医学でなかなか治らなかった中耳炎が小児鍼を始めたらあっという間に治った経験があり、本人は中耳炎とは何ぞやもわからず、ゆえにプラセボ効果が期待できない中で結果を出しており、一概に否定できないなと思っています。
まあ、これも西洋医学も継続しており遅れ馳せながらそちらの薬効が発揮した結果だといわれれば反論はできませんけど。
この話題については、私のコメントだけに反論されるのはあまり生産的ではないので、それほどに思い入れをお持ちなのであれば、やはり実際に本書を読まれたほうがいいように思います。
幸い、Amazonも取次ぎ在庫は復活したようで、数日で発送できるくらいの状態になっていますので。
(ちなみに、本書で鍼に「強いプラセボ効果がありそうだ」と言っているのは、鎮痛などの限られた効能についてで、はじめさんのおっしゃるような、中耳炎といったより内科的な症状に対しては、本書はもっと手厳しい評価になっています。)
しかし、親の立場としては・・・という情の側面が出て来ます。エピソード主義が出てくる由来です。私も、発達障害児の療育に関わっていますが、「実は、漢方薬を処方してもらってから、子どもの症状が良くなった気がします。」という方が、何人もおられます。さすがに、キレ-ションについては、よく検討してからと話をしていますが、難しいところです。
私も、本書を購入しようかと思いましたが、即読みたかったので、AmazonからDLして、PC for Kindleで読んでいます。鍼の効果がプラセボ効果だったとは驚きです。腰痛がひどい時は、よく鍼が効いていたのですが。ネタバレになりますが、鍼治療の起源が中国ではないかも知れないという事実にも驚きました(私の勉強不足だけかも知れません)。 最近、大人の発達障害関係の書籍が増えているようですね。対象を児童から成人に移行する出版社の戦略でしょうか?
次は、どんな本を紹介して頂けるのか、楽しみにしています。
コメントありがとうございます。
まず最初の点ですが、私としては、当ブログとしては十分盛り上がっているように感じています。
アクセス記録をみてもこの記事へのアクセスは非常に多いですし、そもそもこの本は「自閉症・療育の本」ではないので、逆にこれだけ「盛り上がっている」のはすごくいいことだな、と思っています。
(また今回は、自閉症療育を飛び越えて、「代替療法一般」の話題としてこのエントリを取り上げていただいているケースも多いです。)
EBMについては、特に「自分にとっては確かに効いた」という体験をもっている場合、そのエピソードとEBMによる否定的な評価との間には「認知的不協和」が生じますから、理屈で分かっているということと、「情」の部分まで含めて納得するということが別になってしまっても仕方がないところもあると思います。
でも、それを乗り越えていくことが、EBM的な観点での「療育リテラシー」なのでしょうね。
鍼については、「よく効くプラセボ」というのが本書のおおよその結論です。でも、この本を読んでしまった後では、ウルトラマンの父さんにはもう鍼は「よく」効くことはないかもしれません(^^;)。
「大人の発達障害」の本、確かによく見かける気がします。ただ、この領域については、私はまだ狭義の当事者ではないので、レビューを書くことはなかなか難しいな、と感じているところです。
余談ですが、「自閉症と漢方薬」については、Twitterでもつぶやいていますけど、もしかすると今後ちょっと興味深い展開が待っているかもしれません。
http://twitter.com/sora_papa/status/9730875727
私は、既に子育てはほぼ終了し、ホントに幸いなことですが、子供達3人は皆元気に育ちました。が、私自身が去年の晩秋に肺癌に罹っていることがわかり、手術しました。人生、何があるか分からないものですね。不幸中の幸いで完全切除は出来たんですが、まだまだ経過を見なきゃならないし、予後は、もう安心とはとてもいえない現状で、ネット上に氾濫する色んな情報に一喜一憂する毎日です。
水曜日から術後補助化学療法のため短期入院の予定なので、もし間に合えば、ユックリとベッドの上で読んでみたいと思います。素晴らしいレビュー、ありがとうございいます。
鍼に関して結論がブレたのではありませんか?
「手続きに瑕疵があったためでEBM自体は悪くない」と言われても「じゃ今度の結論は本当に100%なの?」となりますよね。
かといって「自分で論文読んで批判しろ」は療育者に求めうるリテラシーの域を超えます。
最終結論を決めてくれる権威があればいいのですが。。
個人的に国連機関はどうも政治に歪められる印象がぬぐえません。
国で言えば英米系は信頼度が高いような・・・
そらパパさんはどのような基準で判断されていますか?
実は私は普段、妊婦さんから寄せられる、生まれてくる子どもに関する心配に対する医学的情報提供を中心に相談対応している医療関係者です。既に子どもがいて、そのお子さんに何らかの疾患や障害があって次の子に遺伝しないだろうかという相談にも応じているので、自閉症の相談も時々ありますし、療育の話になることもあり、「科学的」な情報提供を心がけている私としては、そらパパさんの見解から学ぶことが多いので、このページは愛読させていただいておりましたが、今回は、EBM的考え方が大切だという点、本当にそう!と思ってコメントせずにはおれなくなりました。(本もさっそく注文しました。)
EBM的考え方は、代替療法や療育だけでなく、疾患の原因を考える上でもとても重要です。しかし、私が仕事で相談に応じている中で、人々に心から納得していただくのに苦労する大きな難関だと感じています。せっかく妊娠したのに流産、死産となってしまったり、生まれた子どもが何らかの疾患や障害を持っていたりしたときに、「なぜこうなったのだろう」と思うのは自然なことですが、「妊娠中のストレスのせいだ」「不妊治療で出来た子どもだからだ」「私たちの親戚にはそういう人はいないから遺伝ではない」など思いをめぐらせても、いずれもそらパパさんのおっしゃる「エピソード主義」か単なる「憶測」であり、医学的に因果関係の有無を決めることはできません。たとえば、コーヒーなどカフェインを摂ったら流産しやすいと信じている人は多いけれど、カフェインを摂取した人々の集団と摂取していない人々の集団とで流産率に大差ないのであれば、カフェインは流産とは関係ありません。不妊治療で生まれた子どもとそうでない子どもで、子どもが自閉症を有している率に差がなければ、不妊治療と自閉症は関係ありません。しかし、流産、死産や子どもの病気に直面すると、実に様々なことと結び付けて語られる方が少なくなく、また、そうした方々のブログを読んで半分信じてしまう方もたくさんいらっしゃいます。私の仕事は、そうした疑問にこたえながら、因果関係を示唆する検証データがないものについては、「そのこととこの病気の因果関係があるというデータはありません」「だから、少なくとも現在までの科学では関係あるとは言えません」と伝える役割なのですが、これがとても大変。私も含め人は一般的に「原因不明」という状態を気持ち悪く感じやすく、何かに原因を求めたくなるので、「これが原因でないなら、何が原因なのか」という気持ちが残ってしまう。しかもそれは、単純になぜ?という気持ちだけでなく、「なぜ、よりによって我が家にこのようなことが起こってしまったのか」というやりどころのない気持ちの表れでもありますから、なおさら複雑です。
私としては、そうした人々の人間らしい心理も否定せずに受け止めたいと思いますし、人々の信念まで変えようとは思いませんが、あまりにも科学的でない考えにとらわれて子どもの病気は自分のせいだと罪悪感を増大させていらっしゃる親御さんや、次の子どもではそうしたことがないようにと次の妊娠生活で過剰な(そして科学的には意味がない)努力を自らに課して苦しんでいらっしゃる方々を見ると、う~むと考え込んでしまうのです。
また、そらパパさんがまとめていらした点で、まさに重要だと思うのは、こうした因果関係の検証には、メカニズムからの推測は無意味だということです。カフェインは血管を収縮させたり拡げたりする作用があるのだから胎児の発育に影響するのではないか、不妊治療では大量のホルモンを注射してシャーレの中で受精卵を培養して自然な妊娠では行わないような人の手を加えているのだから何らかの害があるのではないか、と、科学的知見からも「大丈夫」とは言い切れないことはたくさんあります。しかし、結果として生まれてくる子どもにおける疾患の発生率がそのことを行った集団と行っていない集団の両者で変わらなければ、メカニズムや理屈からはどんなに疑わしいとしても、こうしたことが原因だとは言えないのです。それでも、自分や近しい人の子どもに何かあると、「やっぱりあれが関係あるかも」と思ってしまう。そう思ってしまう人々のほとんどは、知的レベルが低いわけでもないし、精神的に問題があるわけでもない、ごく普通の人たちであり、こうした思考回路はおそらく自然な心理なのだと思います。だからこそ難しいです。EBM的考え方は自分としては大事な軸にしたいけれど、だからといって「科学的ではない原因を信じがちな人々」を「わかっていない人たち」と上から目線で見下ろしたくはないので。それでも、さすがにかなりあやしげな民間療法を信じている人々を見ると引いてしまうこともありますが。
さらに申せば、私の仕事のような情報提供や心理支援こそ、それが有用だという検証データは全然存在しないので、EBM的にはまったく無意味かもしれません。情報提供は、良さそうに見えますが、知らなかったことを知らされてかえって不安になることもあるので、心理的安定につながるというデータが必ずしも得られるとは限りませんから。心理支援だって、医療者が心理支援を行っても行わなくても、人々は時間の経過や周囲のサポートでだんだん気持ちを整理していくことが多いので、その方がしばらくして元気になったとしても、それが医療者の心理支援のおかげと証明することはできません。というわけで、EBM的考え方では、最終的に自己否定につながってしまいます。(爆笑)
なにはともあれ、これからも、そらパパさんの記事を楽しみにしています。長文、お読みいただいてありがとうございました。
ほねおりさん、
私も、大人になってから喘息とか肺炎(こじらせて死にかけました。1か月近く入院してました)とか、いろいろな病気をしています。そろそろ癌になる確率も上がってくる年齢です。
癌のような大きな病気や障害などの「当事者」になると、初めて、こういった代替医療・代替療法がいかに広く蔓延しているかということに気づかされます。そして、自分自身もついうっかり、効果の期待できないような代替療法に手を出してしまいそうになります。
本書が解説するEBMという考えかたは、そういった代替療法を「本当に効くのか」という視点で適切に評価し、私たちが「何を選ぶべきか」のヒントを与えてくれるものだと思います。
無理をせずお大事になさってください。本書が届くのが間に合うといいですね。
※と、書いていたらとんでもないやりとりを発見しました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1036963270
たろきちさん、
EBMというのは、対象が複雑で実用性(有効性)を最優先に考える領域としての医療に、「科学的方法論」を持ち込もうという考え方です。
ですから、おっしゃるような意味での「権威」とか「絶対的正しさ」を求める方向性とは、まったく逆のものです。
「EBM(という方法論)を受け入れるか否か」と「ある特定の『EBM的結論』を受け入れるか否か」はイコールではありません。
つまり、「EBMを受け入れている」からといって、新しいEBM的結論が出るたびに、それを「受け入れなければならない」ということはありません。
ただ、ご指摘の「鍼」については、少なくとも「EBMを受け入れる」という立場をとるならば、WHOの過去の研究よりも、本書で紹介している「より新しい研究」から出された研究のほうが信頼度は高いと考えるべきである、とは言えます。なぜなら、後者のほうがより「EBM的に厳密で精度が高い」分析を行なっているからです。(この辺りは複雑な経路をたどって出てきている結論ですから、私のレビューだけで議論するのは生産的でなく、実際に本書をお読みいただいて改めて判断していただくのがいいのではないかと思います。)
もちろん、だからといって「最新の鍼に対する評価は絶対なのだ」ということにはなりません。「絶対正しい」みたいな言い方は、EBMの根底にある「科学的なものの考えかた」とはまったく逆のものです。科学とは all or nothing ではなく、常に more likely or less なのです。(そういう、「絶対評価に陥らないバランス感覚」も、療育リテラシーの重要な要素でしょう。)
親御さんにどのようなリテラシーを求めるかということでいえば、端的には「怪しいもの・危険のあるものには手を出さない」ことに尽きるのではないでしょうか。「怪しそう」という直感はそれなりに信用できます。また、危険なものには、よほど積極的に意味がない限り手を出すべきではありません。
逆にいえば、怪しそうという直感が働かず、かつ危険性のない療育であれば、それを止める強い理由はないと思います。(まあ、鍼とか漢方、あるいは「マイナスイオン」のように、私たちが日常あまりに当たり前に接しているものに対しては「怪しそう」という直感も働きにくくなっているとは思いますが、改めて冷静に振り返ってみれば、「ちょっと妙だな」と気づくのではないかと。)
ちなみに私自身は、「自閉症とは脳の一般化という情報処理機能が低いことによる、相互作用から学習することの困難だ」というかなり強い確信(もちろん外に出すときは「仮説」に格下げしますが)がありますから、その考えと相性のいいものは周囲の評価にかかわらず積極的にとりいれますし(例:PECS)、そうでないものはとりあえず相手にせず、EBM的評価を待ちます。(もし「相性のいいもの」に後からEBM的に否定的な評価がなされた場合は、その「否定的な評価」をよく調べて、信頼度が高そうなら、その時点でやめると思います。)
くまぞうさん、
ご指摘の点は非常に重要なポイントだと思います。
これはTwitterでも書いたのですが、医療とか療育といったものは、一義的には疾患や障害を治したり改善したりしていくことを目的としていますが、決して無視できない二次的なニーズとして、そういった疾患や障害によって精神的に苦しい思いをしている当事者やその親御さんの不安やストレスを軽減してほしい、というものがあるのだと思います。
そのニーズは、慢性病や治らない病気、障害といった、「長く続くもの」であればあるほど切実なものでしょう。
代替医療がこういった「長く続く辛い状態」についての領域で特に盛んであるのは、偶然の一致ではないと思います。
つまり、医療機関や療育施設のドアを叩く人は、単に狭義の「治療・療育」だけを求めているのではなくて、将来についての安心感とか「自分の苦しさを理解してもらえること」も一緒に求めていて、特に前者についての効果が大したものではない(対症療法しかできなかったり、治療にものすごく時間がかかるなど)場合、後者のウエイトが大きくなるのだと思います。
通常医療では、そういう場合、「あまり効果のない(それでも効果はあるわけですが)医療的働きかけ」と「あまり親身でない事務的な対応」が提供されてしまうことが多く、それに対して代替医療では、まず「とても親身な対応」があり、そちらのニーズが満たされることで「本当は効果のない代替医療的働きかけ」にも、きっと効果があるはずだと信じる心理的バイアスがかかるんじゃないだろうかと思います。(代替医療が通常医療よりも「話を聞く」ことができるのは、単により高額なお金をもらっているからに過ぎないわけですが)
くまぞうさんがされているような仕事は、「前者」について客観的な判断基準を提供していくこととあわせて、「後者」について、話を聞いてくれる人がいる、理解してくれる人がいるという環境を提供することで、科学的根拠の薄い代替医療に精神的なよりどころを求めてしまう傾向を抑える力になっていくのではないかと思います。
※人はどうしても「因果関係」を作りたがるという傾向は確かにあるようです。
http://transact.seesaa.net/article/115060396.html
本が間に合ってよかったですね。
もうこのコメントをご覧になるのは退院後だと思いますが、この本で、退屈な時間が充実したものになることを祈っています。
数点コメントさせて下さい。
1.私も代替医療は「嫌い」です。提供し得るベストの支援ではないからという理由で。
2.EBMの話題であればNBM(Narrative based medicine/Greenhalgh, Hurwitz)の存在にも触れた方が親切かな…と、やや思います。
3.EBMやRCTには非治療群の設定という倫理的問題がありますので、発達障碍に関しては単一事例実験(ABAB計画法、多層ベースライン法、クロスオーバー法)による評価の方がより適切であろうと考えます。
4.発達支援に関してエピソード的事象とEBMの橋渡しをする理論として、Wepmanの刺激法が適用可能ではないかと考えます。(曖昧すぎるという弱点を逆に活用する形になります)
私は個人的にはプラセボすら利用しようとする立場です。
保護者(主に母親)の状態を安定させ、結果的に当事者の利益になるのであれば嘘でもなんでも利用します。 もちろんコストなんかかけませんけど。
そんな下らないことに使う金があるなら、借りるより買った方が療育効果が高いものを買うことに使ったり、擬似体験よりも実体験の方が療育効果が高いかもしれないことを試すのに使いたい。
メタ分析やRTCと銘打った研究でも質は様々です。個人的には自閉症研究という時点で質は低いと思います。
豪州のガイドラインはTEACCHに一定のエビデンスありとしているそうですが、その意味で「どうなのかな?」という思いはあります。
ABAも同じですが、行動療法は腰痛にも効くくらいなので自閉症が除外されたらむしろおかしいとも思います。
代替も主流も「支持する研究なし」で同じならば「EBMは自閉症治療に関して何も示さない」となり「EBMは代替療法を駆逐する」とはなりません。
R5さん、
私は研究のプロではないので詳しくないのですが、行動療法などでよく使われる単一事例実験のようなものも、EBMの一環として語られているものだと思っていました。(もちろん、RCT=ランダム化比較実験にはなりませんし、エビデンスレベルは相対的に低くなりますが)
たろきちさんへの1つ前のコメントでも書いたとおり、科学の方法論というのは、絶対的な正解や不正解を求めるものではなく、確率的に「より正解に近そうな」ものを選ぶための相対的基準を提供するものですよね。ですからEBMも、それによって絶対的指標が与えられるものではなく、たくさんある療法からどれを選ぶかの参考情報を提供するものだと言えると思います。
確かに、療育の世界では医療分野ほどの厳密なEBMは成立し得ないと思いますが、それでも「よりEBM的なアプローチ」を志向することで、有効である可能性が高い療法を選びやすくなるなら、それは大きなEBMの成果だと思います。
Wepmanの刺激法というのは私は知らなかったのですが、検索して調べてみたところ、失語症などを対象とした言語訓練のスキームのようなもののことなのでしょうか。ABAやPECSでもそうですが、「具体的な成果を1つ1つ確認しながら先へ進んでいく」というのは、一般化できるかという問題は残るものの、個人でもできるEBM的アプローチだと思います。
プラセボ効果については本書でも触れられていますが、インフォームドコンセントとの矛盾という問題と、プラセボ以上の効果が実際にあるやり方なら、プラセボ効果+実効能という両方の果実が得られる(だから、そういう方法があるならそちらを選ばない理由がない)という点で、扱いが難しいものだと思います。
プラセボに使うお金があるなら、もっと他のことにお金を使うべきだ、というのはまったくその通りだと思います。
※R5さんの触れられている「NBM」については、例えば以下のリンクを参照ください。
http://www.emec.co.jp/hareruya/vol4/ebm_nbm.htm
個人的には、コミュニケーションや言語の発達障害である自閉症については特に、NBM的なアプローチは有効ではないのではないか、という印象を持っています。
たろきちさん、
繰り返しになりますが、科学という文脈のなかで、all or nothingの結論を出してしまおうというのは不毛であるように思います。(all or nothing的な議論をされているのは、むしろたろきちさんの方であることをご理解ください。100点でないものはすべて0点で「同じ」なのですか?)
また、議論の対象が鍼なのか自閉症療育なのかEBM全般なのか、そのときどきであちこちに移ってしまっている印象があります。
そして、これも繰り返しになりますが、たろきちさんは本書やオーストラリアのレビューなど、たろきちさん自身が言及されているテキストを読まれた上でコメントされているのでしょうか。もしそうでないなら、それら(あるいはそれらで触れられている分析・研究)の「内容」や「質」について、想像で議論をするのは生産的でないと思います。
最後に、「EBMと情」という、あまり比較しても意味がなさそうな2つを比較する、ということでいえば、私は明確にEBMの側に立ちます。
EBMで支持されているが情にはあまり訴えない療法と、EBMで支持されないが情に訴える療法、この2つがあったなら、私はEBMで支持された療法を(絶対ではないかもしれないけれどもbetterだと思われる療法として)選びたいと思いますし、当ブログを読んでいる方にも、そちらを選んで欲しいと強く願っています。そういう「個人的価値観」を発しているエントリであり、コメントであるとご理解いただければと思います。
究極的にいえば、「情に訴える」という要素それ自体は、子どもにとって適切な療育を選ぶ際に親の判断を誤らせるノイズにしかなりませんから、それを「乗り越えなければならないという論調」というご指摘も、極論としてはその通りだと思っています。
療育は「有効」でなければならない。「有効かどうか」と「情に訴えるか否か」は無関係。一方、「有効かどうか」を判断するうえで今のところ一番頼りになるのはEBM的方法論(繰り返しますが、EBM的「結論」ではなく、EBM的「方法論」です!)。だから、EBMの考えかたを療育に取り入れましょう、と言っているのです。
私は「EBM」と聞くと、「RCT」と「コホート研究」を至上とし「RCT/コホートにより、効果が実証・検証されているっ!」と上段に構える一方で、「単一事例」に関しては「エビデンスレベルは低いが検証されてないこともない…かな?w」といったニュアンスを感じてしまうのですよね。 多分私だけの変な感覚なのだろうと思います。
発達障碍に関しては本人が「困難を感じているか」という、とてつもなく扱いの難しいパラメータが定義に含まれてしまっているわけで、じゃあ幸せって何よ、じゃあ健常児はみんな幸せなのかよ、ってゆーか支援とか言ってる「貴方」は幸せなの? などという、怪しげな小径を完全に無視するわけにもいかない。
詐欺は許せないんだけれども、狂信者・カルティストの慰みまでも否定するべきなのかどうか、またそれが税金で行われていたり、伸びしろが期待できるEBM的に有効度が高い療育の機会をネグレクトしてまで没入していたら介入すべきなのかどうなのか…と、難しすぎて結論が出せない。
詐欺に騙されてお子さんのために、「悪意なく」代替療法を導入してしまい、お子さんを犠牲にしてしまう親御さん達は、確かに医療ネグレクトの加害者でもあるし詐欺の被害者でもあるわけなのですが、さらにもう1つ、実は支援の対象でもあったのかな…と、ほんの少しだけ胸が痛まないこともない。 でも、そんな巨大な受け皿はありえないと割り切っていいものなんだか、そこを割り切ってしまえる人間に支援を語ることができるものなのだかどうだか。
そらまめパパさんのブログを読んで、「EBMって何?」と思って下さって、お子さんにより効果的な療育を選択して下さる親御さんが1人でもいれば、それは子供を1人救った…ということになりますよね。
頭が下がります。 私もうじうじ考えとらんと行動せねば。
最初のEBMの考え方はその通りだと思いました。ただ、多種多様な流れを事実上持ってしまっている鍼の中の一流派(?)を取り上げて出た結果だけを元に、全体についてプラセボ程度の効果しかないと断ずるのは乱暴なのではないか? という疑念も持ちました。もっと広範な比較対照をしたのかと思っていたので、この点はちょっと残念です。
また、その「一流派」の対照群との有意差を「わずか」と切り捨てていることについては、データが示されていない以上、本当にわずかなのかが分かりませんし、切り捨てる行為には筆者の主観が入っていることも否定できません。
関西では鍼屋さんはたくさんいて、子どもの頃から普通に使っていたりします。本書の中でモニョっとした表現に鍼の「神秘性」があるのですが、例えばロンドンと関西で「プラセボ効果」の出方に差異があるのかといった検証もなされるべきだと思います。
なお、効果があるかどうかが大事だ、と言いながら効果はあるけどプラセボだ、というのはダブルスタンダードではないでしょうか。素直に最初から効果も理由付けも大事だと言えば良いのに、と思いました。
EBMというのは、療育みたいな領域についていえば、「正しさ」を検証するというよりも「正しくなさ」を検証するためにより役に立つのかな、と思いました。
というのも、「自閉症が治る」と称する代替療法は、だいたいにおいて「○○がよくなる」「○○が治る」といった具体的な効能をうたいますから、じゃあその「○○」に本当に効くのか、EBM的に検証すれば答えはおのずから出てくると思います。
逆に「何が正しいか」といった議論は、あまりに多くのことを含みすぎてしまって、確かにEBMだけで語りきれるものではないだろう、とも思いますね。
はじめさん、
はじめさんが鍼を擁護したいと強く考えていらっしゃることはよく分かりました。
ただ、短いコメントの中にも誤読されていると思われるポイントがいくつもありますので、指摘させていただきます。
まず、「一流派だけの結果」と書かれていますが、106ページあたりから書かれている「コクラン共同計画の鍼へのレビュー」のところは読まれていないのでしょうか。
こちらは「メタ分析」ですから、「さまざまな鍼についての研究」が分析され、その結果として、鍼のさまざまな効能について否定的な結論が出されていることになります。「一流派だけ」ではないですね。
また「わずか」というのもよく分かりませんが、コクラン共同計画のレビューに関していえば、どう読んでも「著者の主観」ではなく、レビューに書かれた評価の引用ですし、効果の程度についてもさまざまに評価されています。
そして、「プラセボ効果」についても誤解があります。
プラセボ効果というのはメカニズムでも理由でもなく、純粋に操作的に定義されています。つまり、ある治療法の「効果の前提となっている施術・効能」を含まない手当てを対照群とした場合に、実験群と対照群のどちらにも見られる治療効果の程度を「プラセボ効果」と呼んでいるわけです。
言い換えると、プラセボ効果で説明されてしまう水準の効果は、代替療法の人が主張する「メカニズム」とは無関係に現われる効果ということになりますから、それを上回らない限り、そもそも「メカニズム」とか「理由」を語る必要さえない、ということです。
プラセボ効果がなぜ生じるかについては興味深い議論もいろいろありますが、EBM自体は、そこに「メカニズム」みたいなことを見出そうといった興味とは一線を画した「方法論」だと考えるべきでしょう。
ただ、当方は、鍼で飯を食っているわけではないので、擁護したいとは思っておりません。
先に、息子の中耳炎について書きましたが、小児鍼受診の動機は私の父(つまり息子から見れば祖父)のアドバイスです。曰く、父が同じく幼少の頃中耳炎に罹った時に、鍼で治ったという経験があったからやってみたら? とのことで、やってみたら良くなっていた(結果は耳鼻科医に確認済)ことから、疑いを掛けるにはそれなりの根拠が欲しいと思っているだけです。
「コクラン共同計画の鍼へのレビュー」ですが、「さまざまな症状に対する鍼の効果」と書かれています。文章として「さまざまな症状に対するさまざまな鍼の効果」と書かれていなかったので、鍼の種類はさまざまではなかったのだな、と受け取りましたが、そらパパさんの「「さまざまな鍼についての研究」が分析され」という表現はどこかにありましたでしょうか? 気付かなかったので教えて下さい。
また114ページの最後の段落に鍼系治療がザラッとまとめて書かれていますが、「厳密には検証されていないが、全般として、鍼と同じく、治療効果は期待できないとの結論が得られている」って文章として変だと思います。厳密に検証されていないのに結論を出しちゃって良いの?と思ったのですが。
「わずか」というのは、メガ・トライアルの結果で「ごくわずかに成績が良いか、または同じだった」と書かれていたことを指します。そこで「鍼には偽鍼と同程度の効果しかなかった」という結論を出すためには、ごくわずかな差異は無視できるという価値判断が必要となり、その価値判断は何に基づいているのか、と思うわけです。敷衍すれば、そもそも結果が出た時点で「成績は全て同じだった」とならなかったのかとも思っているわけです。
>「プラセボ効果」についても誤解
プラセボ効果自体は分かっているつもりです。ただ、その学問的取り扱いについては不知でした。ありがとうございました。
なお、鍼と偽鍼の対照試験の際に、両方の取穴を誰がやったのか、には興味があります。鍼師さんが両方ともやったのかなあと考えると、何とも言えない気持ちになります。
言葉遊びをしても仕方がないと思います。
メタ分析というのは、いろいろな人がいろいろな論文などで発表している研究を、系統的にレビューするものですから、もし鍼にいろいろな流派があるのであれば、それらは当然にブレンドされていると考えるのが自然だと思います。
それとも「鍼」という用語は、特定の流派しか使わないというのでしょうか?
プラセボ効果について、やはり誤解されています。「プラセボよりわずかに成績が良い」というのは「プラセボも効いて、施術も効いて、その2つが同じかわずかしか差がない」ということを指します。「やらないのと同じくらい効かない」と言っているわけではなく「やったら効いたけど、プラセボでもほぼ同じくらい効いた」という結果なわけです。
そして、通常医療においては、プラセボとの間に「明らかな差」がなければ有効であると認定されません。
この2つをふまえれば、「わずかな差」を「プラセボと同程度」と評価するのは、少なくとも「通常医療と同程度に厳しい目」で評価するなら、当然のことではないでしょうか。
加えて言うなら、メガ・トライアルは二重盲検になっておらず、その点で「本物の鍼のほうが有利」になっていることも本書で指摘されており、それを差し引けば、「わずかな差」はさらにプラセボレベルに近づくだろう、ということを著者は示唆しているのだと思います。
昭和の中ごろの名人が「鍼は効きすぎるから勉強してない者までまかり通る」というような言葉を残しています。
それからするとプラセボ効果だとのEBMが出るのもうなずけます。
ただ、鍼灸治療にも東洋医学と西洋医学とその他、大きく分けて3つにわけることができます。
そのうち、東洋医学の理論で行う鍼灸(数としては少数派)では、証「しょう」(西洋医学で言う診断および治療指針のようなもの)をたてて、それに従って、用いるツボ(経穴・孔穴)、鍼の刺し方(補法、瀉法)などを決定・施術します。
このように証に従って治療する方法の場合は、鍼の技術が高ければ高いほど証が間違っていれば、患者は病気や症状が悪化します。
つまり、鍼という医療器具、または鍼を刺すというということが百歩譲ってプラセボの価値しかないとしても、証の正・誤によって患者の状態に明らかな差が出る東洋医学からの鍼灸医学には、十分に医学・医療・治療としての価値があると思います。
それと、ツボが何か?気・血・水(津液)が何かが現在の科学で解明されてからでないと、鍼灸の本当の科学的な価値判断はできないはずです。
そらパパさんも、腕の良い証をたてて治療を行う鍼灸師の鍼灸治療を受けられれば、私の言っていることがお分かりになると思います。
何度かそらパパさんが説明していらっしゃいますが、「効果」を確かめる場合、メカニズムは問いません。もちろんどうでも良いという事ではありませんが、ある療法なりについて、それが体系化されているのならば、その施術とそれによる変化との関連を調べる事が可能です。
そして、それらの関連や他の様々の要素を鑑みて、効果の大きさを推定したり因果関係を見出したりする訳です。その方法において、とりわけ質の良い証拠とされるのが、メタアナリシスやRCTです。
メカニズムが解らずとも効果の程は確かめられる、これが効果研究の重要なポイントです。
「ある療法が効く」と世に喧伝したい。その場合、ある程度の割合の人が、「プラセボに類するもの(効かないと判っているもの)より顕著に高く(臨床的に意義のあるくらいに)改善しなければ、「効く」とはそもそも言えないのです。
ブラインドテストに関しては、端的に言えば、「心理療法的な部分と切り分けたもの」の評価を行うためにバイアスを取り除くための方法、と言えます。全体の反応から心理的な作用の部分を差し引いたものが確かめたい所です。
要するに、プラセボ反応などは、「それじゃ無くても」起こる反応、です。試験薬であれば、薬理学的に不活性の物質を「与えても起こる」反応。
だから、確かめたい対象と僅かしか違わない、違いが見いだせない、そういう場合は、「確かめたいものは実は効かない」と判断するのですね(文脈によっては、それもひっくるめて検討された情報総体をエビデンスと呼ぶ事も出来る)。
長くなって申し訳ありませんが、もしかすると、そらパパさんと他の方々との認識に齟齬があるのではないかな、と思い投稿しました。
「症例対象研究」(エピソード)と「コホート研究」と「RCT」(ランダマイズド・コントロール・トライアル)
これらの関係を、そらパパさん、R5さんの考えを、簡略に書かれてはどうでしょうか?
多分、療育に初めて直面する親御さんの大多数は、言葉自体が初見ではないかと思います。
下記の研究が終了し、今後、様々な情報が出てくると思いますので、整理しておいてはどうでしょうか?
「社会性の発達メカニズムの解明:自閉症スペクトラムと定型発達のコホート研究」
自閉症スペクトラムの子どもたちがより良く生きるための力になりたい 神尾陽子
http://www.ristex.jp/public/focus/focus_no4.html
「日本の子どもの発達コホート研究(通称:すくすくコホート)」
子どもの発達、成長過程を観察しました! 山縣 然太朗
http://www.ristex.jp/public/focus/focus_no2.html
「脳科学と教育」タイプⅡ RISTEX(社会技術研究開発センター)
http://www.ristex.jp/eventinfo/pasrelative/brain_20091209.html
けいらくさん、
個々の代替医療について深入りすることは私の知識を超えますので、表面的・論理的にお答えできることだけコメントさせていただきます。
まず、「プラセボ効果程度しか出なかったのは腕の悪い鍼灸師に当たったからだ」との主張ですが、鍼については「系統的レビュー」、つまり世界中のあらゆる研究者による研究(大量の中国の論文も含むはずです)を総合的に評価したり、複数の鍼灸師が参加した大規模なメガ・トライアルが行なわれたりした結果として「プラセボ程度」という結論が出ています。
これがすべて「腕が悪い」で片付けられるとするなら、中国を含む世界中を探しても「腕の悪くない」鍼灸師はほぼまったく見つからない、ということになりますから、例えば私がたまたま近所で出会う鍼灸師が「腕の悪くない」鍼灸師である確率はほとんどゼロである(プラセボ程度の「腕の悪い」鍼灸師に当たる可能性がほぼ100%)ということになります。
本書の著者は「西洋」人ですが、レビューの対象になっている研究は洋の東西を問うていませんから、流派を分けて「あちらはプラセボ、こっちは本物」という議論をするのは難しいと思います。
(さらに踏み込んで、「実験に参加するような鍼灸師はホンモノではない」みたいな議論になると、これはもう超能力者の真贋論争とほとんど同じになってしまいますね。)
次に「証」の良し悪しで効果が変わる、とのことですが、その「証」はマニュアル化されて誰が診ても同じ人には同じ判断ができるものでしょうか。
もしそうでなければ、診断者によって違ってしまう「証」が正しいか正しくないかは、誰がどうすれば分かるのでしょうか。
もしその判断が「結果として悪くなったから間違っていた、良くなったから正しかった」という形でしか判断できないのだとすれば、それは単なる「理由の後付け」に過ぎないと思われます。「証」が正しかったから良くなったのではなく、良くなったから「証」が正当化されるという構造です。
これは、心理療法における精神分析でもよく指摘されることですし、ホメオパシーなどでの「好転反応」というこじつけなどにも当てはまることです。下世話な話でいえばスポーツ評論家などの90%くらいは、この「理由の後付け」で飯を食べていると言っていいでしょう。
最後に、メカニズムの話についてはEBMの領域を超えますが、EBMの結果を受け入れて、かつ鍼のメカニズムにコミットすると、「メカニズムはあるけど、効果は出ない」という極めて妙な状態になってしまいます。
「メカニズムが科学で解明されていないから、(だからこそかえって)代替療法は科学的に証明できないところに効果がある(はずだ)」という主張は、一見説得的なのですが、EBMは「効果の有無だけを純粋に評価する」科学的方法論なので、「メカニズムが科学で解明されていなくても、効果は科学的に測定できる」のです。この点は、このエントリの「とても大切なポイント」で強調しているとおりです。
加えていえば、人の体内は既にミクロのレベルまで解剖されていますし、物理や化学も還元論的には行き着くところまでいっている観がありますが、そういう現在において、鍼が主張するようなメカニズムの存在は(その可能性さえも)まったく見つかっていないというのが現状だと思います。
TAKESANさん、
おっしゃるとおりです。サポートコメントありがとうございます。
けいらくさんへのコメントでも、同様の趣旨を改めて書かせていただきましたが、このポイントを理解していただくことが、EBMを理解するためにとても重要だと改めて感じます。
ヒゲ達磨さん、
興味深い研究の情報提供ありがとうございます。
コホート研究ができれば、自閉症に限らず、さまざまな発達障害の「兆候」とは何であるのか、また、それらの兆候から予後がどの程度予測できるのかといったことがより正確にわかるようになりそうですね。
EBMの全体像を語れるほど、私自身も専門家ではありませんが、エビデンスレベルが上がるにつれてそこから導かれる結論の確からしさが上がる、というシンプルな関係だと理解しています。
療育の世界では「エピソード」や「専門家のお墨付き」程度の、エビデンスレベルが最低のものを排除する力に乏しく、玉石混交が極まっていますから、まずはこれらの「エビデンスレベル最低のもの」を「仕分け」し、表舞台から退いていただくことが重要だと考えています。
そして、残った「ある程度(以上)エビデンスのあるもの」の療育法のなかから、実際に子どもと関わるなかでのトライ&エラーをふまえて、療育の「ポートフォリオ」を形成していく、その際、よりエビデンスレベルの高いものはポートフォリオ内の構成比を大きめにとるなどの形で「待遇」に差をつけていけばいいんじゃないか、と思っています。
>・・「リテラシーが普及」すれば、効果のない代替療法は消えるほかないと思います。
>at 2010年02月26日 01:26
を受けてのことです。
率直に、EBMに過大な期待を抱いておられるのではないでしょうか?
そらパパさんのおっしゃる「効果のない代替療法」に片っ端から「効果なし」のレッテルを貼って行くことはできませんよね。
EBMが貼ることができるレッテルは「科学的根拠なし」どまりで、その含意は「効果があるかもしれない」です。
それで屠れるのか?ということです。
療育者が療法に順序をつけるとき、エビデンスに基づいたものにより重きを置くことが当然ならば、期待される効果(謳われる効果)がより大きい方に重きを置くのもまた当然です。
療育者が「根治」を志向し、それを謳う代替療法が存在し、EBMが「効果があるかもしれない」としか言えないならば、それパパさんの言とは裏腹にほとんどの代替療法が生き残るでしょう。
まず「根治」を捨て、「花を育てるように」にシフトする。
これがEBMリテラシーに優先する気がしています。
そらパパさんが「私は明確に(情よりも)EBMの側に立ちます。」と言い切られたのもその前提があったればこそではないでしょうか?
率直にいって、たろきちさんの今回のコメントはほとんど論旨がつかめないのですが、まず、EBMは効果のない代替療法を「効果がない」と判定することはできます。
そして逆に、EBMは「科学的根拠がない」という判定はできません。
ですから、おっしゃっていることはまったく正反対で、完全にEBMを誤解していらっしゃるとしか言えません。
この点については、本書にも、このエントリの「とても大切なポイント」にも、さらにエントリ本文にも、さらに本エントリのコメントのなかでも、何度も何度も繰り返し書いているのですが、どれもお読みいただけていないのでしょうか。
申し訳ありませんが、改めて申し上げます。
批判をされる、議論をぶつけるということをされるのなら、その批判の対象をある程度は勉強し、最低限理解されたうえでやっていただけないでしょうか?
そうでなければ、あまりにも非生産的で不毛でミスリーディングだと言うほかありません。
「反論を受けている」ということ自体が、私の「伝える能力」の重大な欠陥を示しているようで、とても残念です。
>・・「効果のない代替療法」に片っ端から「効果なし」のレッテルを貼って行くことはできませんよね。
Posted by たろきち at 2010年03月10日 22:33
この文は「片っ端から」という部分をもっと強調すれば、もう少し伝わったのかもしれません。
また、「科学的根拠なし」は「科学的根拠(エビデンス)が低い」あるいは「十分な科学的根拠(エビデンス)がない」とした方が適切だったかもしれません。
他にも、文全体が冗長、稚拙で、誤読や誤解を招く書き方でした。
申し訳ありません。
すみません、今回のコメントを読んでも、私は私の1つ前のコメントとまったく同じご返事しか返すことができません。
どう読んでも、たろきちさんは、本書で丁寧に解説されている「EBM」について、大きな誤解をされているようにしか読めないのです(誤読とかそういうことではなくて)。
これはEBM理解の問題でなく、日本語の問題です。
私のコメント
>効果のない代替療法(無数にあるすべて)に片っ端から「効果なし」のレッテルを貼って行くことは(現実問題として)できませんよね。
に対するそらパパさんのコメント
>EBMは効果のない代替療法を「効果がない」と判定することはできます。
私はこれを読んだ直後「そりゃできるでしょう!」と叫び、次いで「そんなことも分かってない奴と思われていたのか・・」と面目なく感じた次第です。
それで「大きな誤解がある」と言われても、そっくりそのままお返しするより他ありません。
誤読をはっきり認めていただいて、その上で「大きな誤解がある」というならまだ納得が行きます。
このままでは大きなわだかまりが残ってしまいます。
横レス失礼します。
元の考え方にはあまり相違が感じられないお二人がすれ違っているのは、言葉の用法がすれ違っているだけ、という気がするのですが…。そらパパさんは、「科学的根拠がない」を「メカニズムが解明されており、科学機構上ありえない」という意味で使っておられませんか?誤解でしたら申し訳ありません。
それに対したろきちさんは、「科学的根拠がない」を単純に、「エビデンスが得られない」という意味で使っておられます。その上で、科学的手続きを踏んだ臨床実験結果には、科学的であるが故に、誤差や揺らぎが生じ、厳密な意味での「効果なし」とは言えない、とおっしゃりたいのかな、という気がしました。
エビデンスでは、プラシーボ効果と同程度ならば、「効果なし」と言い切ることが可能で、リスクとベネフィットとの兼ね合いや、費用対効果を考えると、代替療法には手を出すべきではない、という考え方が自然と導かれます。
ただ、藁をもすがりたい親にとっては、臨床結果にわずかな誤差が生じて、ゆらぎがあるなら、ほんのわずかの可能性でもよいから試したい、我が子が治るなら、無駄金になろうともつぎ込みたい、と考えてしまうことが往々にしてある。代替医療はそこにつけ込んで来る。だから「治るなら」という思想そのものを捨てなくては意味がない、その上でエビデンスベースドという考え方が役立つ、ということをたろきちさんはおっしゃりたいのかと受け止めました。
「費用対効果」や「リスクトレードオフ(あるリスクを軽減すると、別のリスクが生じる)」という考え方はとても大事なのですが、子供の為ならお金は惜しむべきではない、というような精神論によって歪められてしまうことがよくあります。政策レベルでも、このようなことが度々あります。例えば、BSE問題で牛の全頭検査をするのは、リスク管理上まったく無意味なことなのですが、「全て検査すれば安心だ」というような精神論から、リスクゼロが叫ばれ、莫大なお金をかけて全頭検査がされています。(中西準子「食のリスク学」に詳しいです。)
『代替医療のトリック』でも、巻末付録の個別の代替医療の評価では、繰り返し「臨床結果から効果があるという科学的根拠はない」という言い方がされているので、「科学的根拠がない」を「エビデンスがえられない」と言い換えるのは、そんなにおかしなことでもないかな?と思います。
全く関係ないのですが、『代替医療のトリック』で、個人的に笑ってしまったのは、第六章のアスピリンに関する記述で、「フランツ・カフカは、アスピリンは存在の耐え難き痛みを和らげてくれると婚約者に語っている。」という部分です。アスピリンの鎮痛効果すごすぎww
どうしても「私(やたろきちさん以外の読者)が誤読しているか否か」という、「狭い」議論に持っていきたいのでしょうか。
その議論に行く前に、これまでのたろきちさんのコメントへの疑問を申し上げますので、それらにすべてお答えいただけないでしょうか。
(面倒でもあったので、たろきちさんが放置されたさまざまな議論の問題を問わずにいたのですが、「自分に不利な論点はすべて放置して、自分の好みの小さな論点を全面的に広げて主戦場にする」という、率直にいえば代替療法を支持する人がよく使う論法を明確にとられたと認識しましたので、当方も議論の方法を切り替えることにします。)
1.最初のたろきちさんのコメントで、
>脾臓癌にのみ有効な抗がん剤なんて珍しくないわけで、エピソード主義を否定し切れません
とありますが、脾臓癌にのみ有効な抗がん剤は、EBMで検証し、エピソード主義を否定できます。これはたろきちさんのEBMについての誤解だと理解してよろしいですか?
2.2月25日22:52のたろきちさんのコメント
>最終結論を決めてくれる権威があればいいのですが。。
について、EBMの前提となる科学的思考法は、結論を権威が決めてくれる、といった発想とは正反対である、という反論をさせていただきました。これはたろきちさんのEBMやその背後にある科学的思考法に対する理解不足、誤解だったと理解してよろしいですか?
3.たろきちさんは、3月4日13:00のコメントで、
>何か記事・コメントが「EBM的結論とされるものに疑いをはさまず(情を乗り越え)、無条件に受入れよ。」みたない論調になってしまっている
と書かれていますが、私の「記事」で、そのように書かれているとされる場所を教えてください。
4.たろきちさんは、3月10日22:33のコメントで、
>EBMに対して批判めいたことを言ったのはそらパパさんのコメント
>
>>・・「リテラシーが普及」すれば、効果のない代替療法は消えるほかないと思います。at 2010年02月26日 01:26
>
>を受けてのことです。
と書かれていますが、この部分を「正確に引用」すれば、こうなります。
>また、「リテラシー」というのは単に理屈を理解するということではなくて、ちゃんと
>優先順位や重み付けまで含めて評価できるということだと考えていますから、「リテラ
>シーが普及」すれば、効果のない代替療法は消えるほかないと思います。
前半で「リテラシー」、後半で「リテラシーが普及」をカッコで閉じて整理しているとおり、ここで言っている「リテラシーが普及」というのは、「EBMの『理屈』を理解し、しかもちゃんと優先順位や重み付けまで含めて評価できるというスキルレベルで普及する」ということを指しています。
さらに、この「リテラシーが普及」をカッコで閉じているのは、たろきちさん自身の2月25日22:52のコメント
>リテラシーによって代替療法を否定した後、「ではどうしたらいいか」というものが
>セットで与えられないと、リテラシーの普及も代替療法駆逐にどれほど効果を発揮す
>るか疑わしい気がします。
を受けているからであって、このコメントはそもそも「リテラシーが普及しても代替療法は駆逐されない」というたろきちさんの主張に対して、たろきちさんの設定した仮定から、別の論理的な帰結を導いているだけで、私自身が「速やかにリテラシーが普及し、EBMが支配的になるだろう」という主張をしているわけではありません。
以上をふまえて、ご質問です。
まず、なぜたろきちさんは、続いている文章の途中からわざわざ切り取って引用するという「恣意的な引用」をされたのでしょうか?
次に、その「恣意的な引用」で読者の方が私の意図を「誤解する」可能性が高まるということを認識されていましたか?
さらに、この「意図的に削除された」前半部分、さらにはその前にあるたろきちさん自身のコメントからの流れを含めれば、たろきちさんがおっしゃっている
>率直に、EBMに過大な期待を抱いておられるのではないでしょうか?
という結論にはまったくならないはずですが、ここもたろきちさんの誤読(もしくは意図的な引用)に基づく誤解(もしくは意図的な誤った議論への誘導)だと理解してよろしいでしょうか。
5.この質問もずっとはぐらかされていますが、結局、たろきちさんはこの本をお読みになったのでしょうか? 読んだとすればそれは、
>鍼に関して結論がブレたのではありませんか?
というコメントを書かれた3月2日00:05より前ですか、後ですか?
6.こちらも同じです。つみきの会サイトにあるエビデンスレビューはお読みになったのでしょうか? 読んだとすればそれは、
>豪州のガイドラインはTEACCHに一定のエビデンスありとしているそうですが、
>その意味で「どうなのかな?」という思いはあります。
というコメントを書かれた3月4日13:00より前ですか、後ですか?
ここまでが、今回の、誤読かそうでないかの「狭い」議論をするために、まず確認させていただきたいご質問です。
上記の質問にすべてお答えいただいた場合のみで結構ですが、今回の「狭い」議論で、私が最初に確認したい点だけ質問させていただきます。
7.たろきちさんは3月10日22:33のコメントで、
>そらパパさんのおっしゃる「効果のない代替療法」に片っ端から「効果なし」の
>レッテルを貼って行くことはできませんよね。
とおっしゃっていますが、前半の「効果のない代替療法」に含まれる「効果のない」というのは、誰がどうやって判定したものと想定していらっしゃるのでしょうか?
ここは、「効果」という概念をどうとらえるかという点において決定的に重要なポイントとなりますので、お答えいただかないと議論が進みません。
さくママさん、
コメントありがとうございます。
「科学的根拠」ですが、たろきちさんが「科学的根拠がなくても効果がないとはいえない」と書かれていたので、論理的に考えて、当然にそういう意味だと理解しました。
その後のコメントで、違う意味だとたろきちさんが主張されたため、上記の主張の意味が不明になったので、今後、上記の質問にたろきちさんにお答えいただければ、少しずつ確認させていただこうと思っています。
ご指摘の、本書のなかで使われている「科学的根拠がない」については、原書にあたっていないので何とも言えないのですが、ネットで見かけたコメントでは、単なるevidenceの訳語として使われているのかもしれないようですね。
そして、さくママさんにご指摘いただいたポイントは、もちろん押さえた上で議論を進めさせていただいているつもりです。
ただ、今回、たろきちさんとの間で現時点で問題になっているのは、端的にいえば、たろきちさんがEBMについて本書やエントリとは違った意味で理解し、私に対しても誤ったレッテル貼りをされたうえでそれを批判されているようだという点ですので、さくママさんのおっしゃるような「深い」議論に入る前の、表面的な誤解を解くところから始めさせていただいています。
これは、今ざっと目を通した結果です。第1章の最後の部分です。AmazonのPDFは単語検索ができないので、困ります。
In this context, the aim of our book is to evaluate the scientific evidence that relates to each alternative treatment to see if it is a blasphemy on the path to revolutionizing medicine or it is a blasphemy that is destined to remain in the cul-de-sac of crazy ideas.
この文脈で、本書の狙いは、代替療法に関連する科学的根拠を評価することである。・・・・
何だか、率先して誤解をした読者になってしまったようで、すみませんorz
詳しく書き出して頂けたので、放置されていた問題が理解できました。途中で首突っ込んでしまい、申し訳ありません。
たろきちさんは、実験で出る誤差にこだわって「効果がない」とは言えない、とおっしゃってるのかなぁ~と思ったのですが、まぁ、そうだとしてもEBMの考え方に対して誤解があるということには変わりないですね。臨床実験において、治験群と対照群を比較した時にプラセボ効果以上に医学的に意味のある差が認められなければ、「効果がない」と明言できます。
反論が多いのは、『代替医療のトリック』は、それだけ人の心を揺さぶる要素が多いんでしょうね。
そらパパさんが、twitterで書かれていたように、鍼灸サポーターの方が多く出るのも、「お灸をすえる」という言葉があるように、日本には鍼灸の歴史が長く、文化としても根付いてるからなのでしょう。歴史の中で根付いてきたのにはそれなりの合理性があり、現代医療に収まりきらない文化を持つ以上は、エビデンスがえられないからと、すぐさま否定すべき類のものではないのだろう、と思います。(あ、そらパパさんがそう主張されていると言っているわけではありません。念のため)
もちろん万能のような効果を謳ったり、療育として取り入れたりすることには否定的です。しかし「痛み」のような、心理作用が強く影響する症状で、特定の原因疾患がないものに関しては、他に優れた治療法が無い以上は、鍼灸が呪術的な役割を持つ治療として、今後も残っていく可能性は充分にあります。効果があるのかどうか、今後も実験が重ねられていくでしょうし、その上で歴史が判断していくのだろうと思います。
そもそも我々が日常で使っている語を科学論文では特定の意味に限定して術語として使っていますが、科学論文に接する機会の少ない人にとっては「術語」ってものの存在すら(その定義の厳密さすら)想像しないもので、それがまた翻訳本となると訳者の原語に対する理解以外に科学的用語に対する知識も影響する。
そして科学論文を読みつけている者にとっては「術語」の存在に気付かない人というのが
また解り辛い(遠い存在すぎて)。
そらパパさんが貴重な存在だと思うのは、知っている者(ただ単に「術語の存在を」です)にとって
不可視な存在となりがちな「知らない者」に、噛み砕いて伝えることの出来る人だからです。
でも、原典を読もうとしない人とはどこまでも地平が交わらないのはもう仕方ないのかな…。
一般的な日本語の「根拠」っていうのは随分「理由」「理屈」と近いところで使われていて、どうやらそれに伴ってEBMも「どうして効くのか科学的に説明してみろよ」的な語(笑)として理解されがちなようですが、本当は「理由は解んないけど効いたんだ、ちゃんとしたデータならあるよ」的なものですよね。
何故効くのかという物語は必要とせず結果だけを見る、ドライな発想というか。
内容ではなく言葉のイメージみたいな表面的なことでつるつると反論されても丁寧にお答えになるそらパパさんには、尊敬の念と共に少し共感(意味不明ですね)…。
学生時代、言語ばっかりいじっていた(そして統計処理やらパソコンやらの前に挫けた)自分が、いまだ発語のない年長児に試行錯誤しながらも返って言葉を深く学ばされていることにしみじみしつつ…。
ウルトラマンの父さん、
図らずも、EBM的リテラシーの「実践」、ないしは「EBMのどの側面が理解されにくいのか」を地で行くような展開になっていると認識しています。
極論としては、EBMを支持するかどうかは個人の好みの問題だと私は思っていますが、「EBMってこうだよね」と誤った内容を語られることはどうしても放置できないので、今回のやりとり(まだ「議論」にはなっていませんね)になっています。
引用いただいた部分では「scientific evidence」ということばが出てくるのですね。だとすると、あとは訳のテクニックの問題でしょうか。「根拠」という日本語には「理屈付け」的なニュアンスがどうしてもあるので、あえて訳さずに「科学的エビデンス」と呼ぶほかないのかもしれませんね。
さくママさん、
あのやりとりの展開では、さくママさんがああいうコメントを書かれるのも仕方ないと思います。
恐らく、私の返しかたがああいう形でなかったら、そのままの流れで「そういうこと(私の誤読)だったんだね」で終わっていたと思います。
ただ、これまでの発言をちゃんと振り返ってみると、どうもそういう整理が正しいとは思われなかったので、ミスリーディングされたままの結論に落とし込まずに、一度しっかり論点を整理しようと考えました。
この本については、ネット上で非常に多くの議論を呼んでおり、そういう意味では著者や出版社の意図は既にある程度達成されたと言っていいと思います。
どんなに生産的な議論がなされたとしても、ビリーバーと呼ばれるような、代替療法をかたくなに信じている人の気持ちを変えることはほとんど不可能でしょう。でも、「これからハマりそうな人」を踏みとどまらせるだけの力は、本書(や本書によって生み出された議論)は持っていると思います。
ところで、本書を「効果」という視点からみるとき、非常に興味深く奥が深いのが「プラセボ効果」です。
たとえば鍼については、あの効きそうな「儀式」によって、プラセボ効果を相当程度高い水準にまで引き上げていると考えられます。ですから鍼というのは、ことによると「プラセボ効果を最大化する儀式」として完成の域にある、高度な技術だと言ってもいいのかもしれません。
それにしても、プラセボ効果がある、というのは「効果がない」という意味ではまったくないんですが、その点をうまく理解していただくこともなかなか難しいことのようです。
チヨ母さん、
お褒めにあずかり恐縮ですが、そんなに大したものではないと思います(^^;)。
私自身、科学においても哲学においても、学生時代にちょっとかじって、社会人になって独学で勉強した程度の素人ですから、どこまでいっても「素人語り」しかできません。
表面的なところに持っていかれないのは、ある意味では自らの身を守るためでもありますね。
そういう(表面的でつるつるした)「場」では、例えば代替療法を支持する人や、単に「弁の立つ」人が強くて、議論がうまくできないと感じることが多いので、常に自分の論理力で答えられる範囲で、自分の論理で語るように心がけています。
「これなら伝わるだろう」という方法を探し当てましたので、書かせてください。
いろいろ考えて、私の「伝えたいこと」は結構意味のあることかも知れないと思い直しました。
それは、現状のままEBMリテラシーだけが普及することで、自閉症者やその家族に害が及ぶ恐れがあるということです。
なお、これだけでも大分長くなります。ご質問いただいた件は、後ほど必ずお答えいたしますので、何卒ご了承ください。
それでは、まずEBMリテラシーの普及は代替療法の駆逐を必ずしも意味しない、ということを述べます。
そもそも代替療法がはびこる直接的な理由は「多くの親がそれを選ぶから」です。
つまり、「親」の「意思決定」の問題と置き換えることができます。
ここに、意思決定を「根拠(エビデンス)」、「価値観」、「資源(お金、能力)」の3要因が制約し合った結果と捉えるモデルがあります。(詳細は下記サイトなどを参照して下さい)
http://www.qlife.jp/square/oshiete/story765.html
EBMリテラシーの獲得は、3つの内、主に「根拠」を通じて意思決定に影響を及ぼします。
具体的には、意思決定にあたって「エビデンスの乏しい療法」を忌避し、「エビデンスの高い療法」方向に選好するように制約します。
しかし、「価値観」や「資源」の制約があることから、結果として代替療法が選択される可能性はあくまで残ります。
これは、とりもなおさず代替療法が生き残る可能性を意味します。
よって、EBMリテラシーの普及は必ずしも代替療法駆逐を意味しません。
「根拠」が突出して強力である場合など、他の要因を無視してよい場合もあるでしょう。
しかし一般に、自閉症治療に関する意思決定は、他の一般的な疾患(おできの治療など)と比べて「根拠」の制約が弱く、「価値観」および「資源」の制約がそれぞれ強い傾向があります。
ある主体の意思決定をコントロールしようとする場合には、より強い要因に働きかけることが有効です。つまり代替療法を選ばせないために、親の「価値観」、「資源」への働きかけこそが効果的です。
次に、EBMリテラシーの普及が自閉症者や家族の幸福増進を必ずしも意味しない、ということを述べます。
EBMの本質は「批判的思考」であり、それは鋭利な刃物に例えることができます。
自閉症児の親が、その「刃物」を手にする時、それが向けられる先は代替療法だけに限られず、自身に向けられる場合を想像してみる必要があります。
一つ、EBMに準拠してABAを選択した親が、自身が家庭で行っている療育に批判的思考を当てはめてみた場合をシミュレートしてみます。
「そもそも、私が今行っているのは本当にABAなのだろうか?
もしこれが、本当のABAじゃないならば、これも一つの代替療法ではないか?
だとしたら、このまま続けて効果はあるのか?害はないのか?
心理学の素養がない自分が本当のABAを行うことなど不可能ではないのか?」
・・・どうでしょう。
辛い気持ちが想像できましたでしょうか?
辛さから親が精神病になったり、訓練効果が低下して自閉症児が不利益を受ける可能性も否定できません。
現にそうなった場合、EBMリテラシーが害を及ぼしたのではないと言い切れるでしょうか。たとえ可能性が些少であっても現実の「害」の要因を容易に無視しないのがEBM的思考というものです。
そもそも、鋭利な刃物は何の手当てもなしに人に渡さないものです。
この場合、どのような「手当て」が有効だったのか、考えて見ることは十分有益です。
以下、3要因の意思決定モデル(上述)を使って考えます。
このケースで、親は何をどうすればいいか分からない状態、つまり意思決定不可能になっているものと解釈できます。
そしてこの「意思決定不可能」こそ辛さの最大の原因というのは直感で分かっていただけると思います。
この場合で重要な制約要因は「資源(能力)」です。
よって「資源(能力)」に働きかけることで、この親を救うことができるはずだと推測できます。
たえば、「心理学の素養なしにABAを習得できる方法」があれば、それを実践することで「資源(能力)」を変えることができます。つまり、そのような方法を開発することが、この場合のリテラシー普及に付随して必要な「手当て」だと言えます。
あるいは自分の代わりのABA実施者としてエキスパートを雇うこと(それを可能にするお金を渡すことも)一つの方法でしょう。
別に、同じようにEBMリテラシー獲得の結果、「価値観」が制約となって意思決定不可能になるケースが考えられます。論証は省きますが、そのような場合、「障害を受け入れやすくなる哲学」によって「価値観」を変えることが有効です。
以上、リテラシーの普及が親たちの意思決定に与える影響を評価し、結果として現れて来る「益」と「害」を適切にコントロールするため、親たちの意思決定要因である「価値観」と「資源」に働きかける努力が必要と考えます。
ご質問へのお答えは後日いただけるとの記載もありましたので、それをお待ちしたうえで、公開について検討させていただきます。ご了承ください。
他もなるべく早期にお答えします。
1.の「癌」についてですが、これは誤解だと思います。
ご指摘いただいた記述は次の仮定を受けています。
>(個性多様な)癌(すべて)をただ一括りに「癌」と雑に捉えていたとしたら
私が「脾臓癌」というマイナーな癌をあえて挙げたのは、癌全体に占める割合が低そう(当然、研究の被験者に占める割合も低くなる)からです。
被験者に占める脾臓癌患者の割合が十分小さいとした上で、抗がん剤の効果が劇的であっても、「効果なし」と判定される可能性は十分あります。
抗がん剤の効果が小さい場合は尚更です。
ちなみに、私が置いた仮定は別に突飛なものでなく、実際私たちの「癌」に対する捉え方は結構ザツなところがあり、たとえばよく「タバコは癌の原因になる」などと一緒くたに言いますが、乳癌に限っては、むしろ抑えるという研究もあり結論は出ていません。
ところで、EBMはエピソードを否定せず、エビデンスの一つとして尊重します。エビデンスの乏しい領域では特に重みを増します。
エピソードのほかにマシなエビデンスがない場合、エピソードのみに基づいて判断する場合が当然あり、それも立派にEBMです。
私のコメント中の「エピソード主義を否定できない」とは、「エピソードにのみ基づいて判断することを否定できない」という意味でしたが、そもそもそれを否定しておらず、EBMに対する見当はずれな批判でした。よって撤回いたします。
2.の「権威」ついて、これは視点の違いだと思います。
そらパパさんは「理念そのもの」について話し、私は「理念が現実に私たちの前に立ち現れてくる姿」について話しています。
なお、この基本的な視点の違いは、他のやりとりにおいても散見され、しばしば齟齬を生じる原因にもなっているようです。
現実問題、論文をドサッと渡されて「さぁ、権威に頼らず自分で判断しろ」と言われても、多くの人は困ります。
信頼できる他人(権威)がEBMを踏まえて検証し、「推奨できる」とか、「行うべきでない」とか、なるべくはっきりした形で結論を示してくれたら便利でしょう。
私が言ったのはそういう意味です。
もちろん、最後に決めるのは自分です。
なお、理念はよく分かっているつもりです。
豪州レビューにケチをつける大胆もその発露であって、単なる身の程知らずではない、と主張したいですね。
3.の「全体の論調」についてですが、最初に断らせてください。
これは「そう書いている」ということではなくて「現実にそう読む人が(相当数)出る恐れがある」という意味です。
また、コメントではなく記事から挙げろとのことですが、主にコメントが論調を醸し出しており、記事はいわばバックグラウンドとして貢献しています。
以上をよくよく踏まえていただいた上で、記事中の以下の記述。
>日本でも、民主党政権は代替療法に肯定的なようですから、ぜひ政府の検討チームは本書を読んでEBM的リテラシーを高めていただきたいものです。
これは「代替療法とされる療法に肯定的な態度を示した民主党は、即EBM的リテラシーの欠如である」と決め付けているように読めないこともなく、それがひいては「代替療法とされるものは無条件かつ完全に否定すべきなのかな」というわずかな「観念」を醸成します。
さらに、その「観念」が私の指摘する「論調」の出現に間接的に貢献している。
以上のように思います。
まずは1~3のご質問にお答えいただきありがとうございます。
ほとんどYes/Noでお答えできるご質問にしたつもりだったのですが、ものすごい長文のお答えをいただき面食らいました。
お答えをまとめると、以下のような感じでよろしいでしょうか。
1.誤解しているのはそらパパのほうである。(でも撤回する)
2.視点の違いであって、自分は間違っていない。
3.「コメントが醸し出す論調」について述べたものだが、記事中でいえば、政府の検討チームに本書をすすめた部分である。
議論を収束させようとしてやったことが、逆に議論を発散させる結果になってしまって徒労感を感じているというのが率直なところです。
今回のお答えも、あまりにも「突っ込みどころ満載」というか「突っ込む場所しかない」に近いので、すべて真面目に反論して議論しようとすると、ねずみ算的に議論が発散していくことは火を見るより明らかです。
以下、もうこれは「反論」ではなく、「感想」として、1.についてはやや詳しく、2と3については厳選した1点だけ、読みながら感じたことを書きます。感想なので、反論いただく必要もありません(反論いただいても、「議論の収束」に結びつかない不毛なものだと判断した場合は掲載しないかもしれません)。
1-(1)私の誤解だといっているのに「撤回」されるなんて不思議だなあ。
1-(2)抗がん剤のEBM的検証で脾臓癌患者だけに劇的に効いた場合に、少数だからそれを発見できないなんてことがあるんだろうか。
1-(3)「劇的に効く」のであれば、被験者が1桁後半でも統計的に有意な結果が出るはず。
1-(4)仮にそれより被験者が少なかったら、そもそも最初から「EBMでの効果判定」の外側だから、EBM批判の議論の対象にすらならないわけで。
1-(5)抗がん剤の効果が全般として弱く、かつ脾臓癌患者だけに劇的に効いたときに「なおさら」効果が分からない???
1-(6)なんでEBMの話をしているのに「私たちのザツな癌のとらえかた」の話になるんだろう。
1-(7)「たばこは癌の原因になるが、乳癌は違うという研究も」というのは、むしろたろきちさんの主張を否定し、私の主張を支持している気が。
1-(8)EBMはエピソードを否定せず尊重するという主張は、少なくとも本書には出てこなかったなあ。この本のレビューのエントリなんだけど・・・
1-(9)エピソードしかない現状なら、改めてEBM的研究をする(retrospectiveなものであっても)というのがEBMの基本的スタンスなのでは?
1-(10)「エピソードだけで判断する」のってEBMなのかなあ。「判断できない」という判断なら分かるけど。そもそもEBMってエピソード主義を克服するためにあるのでは?
1-(11)もしかして、EBMで規定される「エビデンスレベル最低」の項目として「エピソード」が挙げられていることを言っているのかなあ。
1-(12)最後でまた矛盾が。「エピソードもEBM」と書いたから、エピソード主義とEBMを分けていた元のコメントとつじつまが合わなくなっている。
1-(13)そうか、自分で書いていて自分で矛盾してしまったから、「撤回」されるのか・・・
1-(14)よく考えたら、この質問の元になってるコメントって、「たった1行」なんだよな。
1-(15)たった1行の前半と後半で自己矛盾してる文章なのに、それでも「私が誤解」と主張されているのか・・・
1-(16)これだけ満載の突っ込みどころと自己矛盾が、たった1行の元コメントから発しているなんてすごすぎる。
2-(X)「最後に決めるのは自分」とあるけど、元のコメントでは「最終結論を決めてくれる権威があればいい」って書いてるよなあ。完全に矛盾してる。
3-(X)「コメントが醸し出す論調」に対して、1件目のコメントから反論を開始されるなんて、すごい未来予知能力だなあ。時間軸が矛盾してる。
なお、4以降のご質問についてですが、もう特にお答えいただくには及びません。
今回いただいたご回答を拝見して、これ以上議論を続けるのは不可能だと感じているからです。仮に当方が的確な反論をしたとしても、「いや、実はこの単語の、このフレーズの意味は違っていて、正しくはこうだ。そちらの誤読だが、誤解させたことは申し訳ない」という、これまで続けられてきた返し方をされるだけではないかと感じます。
最後に、今回のお答えをいただく前に投稿された長文コメントも、迷いましたがとりあえず公開させていただきました。
元はといえば断定的にごく短く書かれていた批判的コメントについて、これほど長い文章に置き換えなければ「本来の意味」にならない、と主張されることもどうかと思いますが、そもそもたろきちさんが力説されているポイントは、最初から論点になどなっていないと思います。
私は2月26日のたろきちさんへのコメントで「『リテラシー』というのは単に理屈を理解するということではなくて、ちゃんと優先順位や重み付けまで含めて評価できるということだと考えています」と既に書いています。
ですから、たろきちさんの主張されているような内容は、「リテラシー」を考える段階で既に織り込み済みであって、このコメント以降たろきちさんが出されている論点は、少なくとも議論の論点としては最初から存在しないのです。(論点があると錯覚されたのは、たろきちさんが上記の私のコメントを読まずに「醸し出す雰囲気」だけからの思い込みで批判をされたからなのではないかと考えます。)
1…なんとなくたろきちさんの中でこういうことを伝えたいんだろうな、という概要ははわかるんだけれど、自閉症の療育のエビデンスの得られにくさを説明する為の例えとして、突如として「癌」を持ち出すのは、凄くわかりずらいと思う。しかもたろきちさんの持ち出した仮定というのが、「胃癌、肝臓癌、乳癌、肺癌など、癌の種類の区別がつかない世界」でのエビデンスの得方と言う現実に無いものなので、そこが不具合を起こす原因だと思う。たろきちさんが自身で設定したファンタジー内でのエビデンス話を切々としているのに対して、そらパパさんが現実の話で返しているので、そりゃすれ違うでしょって感じ。しかも元がファンタジー設定なのに、「たばこは乳がんが」云々と現実に絡めようとしてるから、余計にわけわからない印象になってる。
2…本読んでないのかな?著作の中で、色々研究機関名が出てるけど。個別でアドバイス欲しいってことなら、保健所とか、療育センターとか、地域のかかりつけ医とか、学校とか、そういうのを利用すれば良い、という話じゃないのかな…?
3…たろきちさんが、そらパパさんの文章を読んで、
>何か記事・コメントが「EBM的結論とされるものに疑いをはさまず(情を乗り越え)、無条件に受入れよ。」みたない論調になってしまっている
と思うのは、ある意味勝手だとは思うけれど、私は全然そうは読めなかったなぁ。第一そんなこと一言も言ってないし。その上、「現実にそう読む人が(相当数)出る恐れがある」って…ええええ?ないないない。
個別のエピソードもエビデンスのうちのひとつ、というのは知らなかったので、とても参考になりました。エビデンスも質の低いものから高いものまで様々あり、その高低を考慮した上で判断していくのがEBMリテラシーなんですよね。ということは、他人のエピソードの寄せ集めばかりの代替医療は、エビデンスがすごく低いということで避けた方が賢明である、という結論が導かれますね。
>お子さんのために、「悪意なく」代替療法を導入してしまい、お子さんを犠牲にしてしまう親御さん達は、確かに医療ネグレクトの加害者でもあるし詐欺の被害者でもある Posted by R5 at 2010年03月05日 11:45<です。ASD当事者であるお子さんらは、純然たる被害者です。
被害者から見れば、悪意の有無に関わらず、そうした親御さん達は加害者です。それは、親御さん達が望むものではないと思います。ですから、「治療・療育」方法を選択する際に、そうした被害に会わせないために、また、親御さんが加害者になる可能性を減らすための道具として、EBMという仕分け法は有効で有用性があるというのが、そらパパさんの考えだと思います。私もそうだと思います。
以下は、他の成人当事者のプログに送った私のコメントの一部です。
★アスペルガーに欠けているのは、、「他者の為に」行った行為が、本当にその人の役に立つものなのか?という自省、評価するシステムだと思います。
定型の方は、相手の喜んでいる表情などから、
評価・自省のシステムが幼い時から自ずから作られ発達していると思いますが、
ASは表情などから感情の感受が極めて下手ですから、
意識的に発達させて、作動させる事が肝要だと思います。
上手く作動させないと、善意の押し売り、ありがた迷惑になりかねない。★
「治療・療育」の場でも、「他者=ASD当事者であるお子さんの為に行った行為が、本当にその人の役に立つものなのか?という自省、評価するシステム」が親御さんたちには、必要だと思います。幼子であること、ASDであることから、他者=ASD当事者であるお子さんからの返答は判りにくいとは思いますが。
一連のやり取りを見ていて、
>保護者(主に母親)の状態を安定させ、結果的に当事者の利益になるのであれば嘘でもなんでも利用します。Posted by R5 at 2010年03月04日 09:34<
という考えは理解できますが、
他者=ASD当事者であるお子さんよりも、自分=親の情の満足やらの利益を優先しているコメントには残念です。
私が力説する内容がすでに「織り込み済み」とのことなので、多少の疑問は残りますが、今回は私の独り相撲だったということで結構です。大変お騒がせしました。申し訳ありません。
さくママさん
自分で創り出した情報以外の、すべての情報がエビデンスです。
他人から聞いたエピソードも当然、エビデンスの一つです。
エピソードに基づいた判断をシミュレーションして見ると、EBMがぐっと理解できるようになります。よかったら以下、お付き合いして見て下さい。
まず、さくママさんが信頼する療育者仲間(たとえば、そらパパさん)から次のエピソードを得たとします。
「ウチの子にあるドリルを1週間やらせたところ、症状が劇的に改善した」
単発エピソードとは言え信頼できる人からの情報ですから、ある程度質の確保されたエビデンスと言えます(まったくの嘘っぱちや勘違いではなさそう)。
次に、このエビデンスを踏まえて、以下の二つの選択肢があります。
1.明日からABA訓練を止めて、ドリル訓練を行う
2.明日からもドリル訓練は行わず、ABA訓練を行う
どちらがEBM的に正解でしょうか?
結論を言えば、正しくエビデンスに基づいて判断した結果なら、どちらを選んでも正解です。
ここで、「正しくエビデンスに基づいているかどうか」は、判断課程を論理的に明確化できるかでテストされます。
たとえばABAを選んだ判断課程が、
「ドリル訓練を支持するエビデンスが単発エピソードだけなのなら、ABAを中止してまで試すに値しない。効果が本当ならすぐに研究論文がでるだろうから、それまではABAを継続しよう」
という程度に論理的なら、EBMとして十分だと思います。
また、ドリル訓練を選んだ場合でも、
「ドリル訓練の研究論文が揃うのを待っていては、重要な発達段階を逃す恐れがある。1週間程度ならABAを止めても大きな問題はないだろうし、急いでドリル訓練を試してみよう」
という課程なら、この判断に基づいて行われるドリル訓練は立派に「根拠に基づいた医療(療育)」です。
一方で、
「なんとなくあの人が言う療法なら良さそう」とか、
「エピソードだけの療法は代替療法だからダメ!」
などの論理的でない判断課程であれば、結論がどうであれEBMではありません。
コメントありがとうございます。
おっしゃるとおり、療育というのは別に親のためにするものじゃないわけで(子どものためだけ、というものでもない、というのが当ブログのスタンスで、家族全員の幸福の最大化を目指すものだと位置づけています)、子どものためにベストな療育のポートフォリオを実現するために、EBM的方法論、考えかたというのは心強い指針になると思っています。
それにしても、「不毛な議論」を「不毛でないもの」にするというのは、とても難しいことですね。
あと、上の説明は十分な自信があって書いたことですが、もし大きな間違いがあったらお手数ですが、ご指摘下さい。
以下蛇足。書いていて二つ気づいたこと。
そらパパさんの言う「エピソード主義の危険性」の観点から十分マユにツバつけるべきエビデンスは
「権威者の意見(エピソードだけを基に断定的に語られたもの)」
であって、親が日常療育仲間と交し合うような
「(生の)エピソード(そのもの)」
に罪はないのかな、と感じました。
「エピソード主義」の語感からそこら辺を誤解している方は結構多いような・・
恒常的にエビデンス不足の自閉症分野では、それらはむしろ貴重ですらあるように思います。
もう一つ、巷で語られるEBMの説明は専門家向けのものばかり(99%)で、自閉症分野で判断の主役となる「親」(普通論文など読めない人たち)は完全に置いてけぼりにされてると感じます。
親は何も判断するな、黙って医者に従え、というメッセージかとすら思います。
横レスです。アスペルガー当事者で広汎性発達障がい児の親です。
私は文系で医学の知識もなく、おまけに本書も未読ですが、そらパパさんのエントリーや、(Webで一般人が参照できる)オーストラリアの報告書の一部、本ブログで紹介されていた『心理学で何がわかるか』(一般人向けの新書)を読んだだけで、少なくともたろきちさんがEBMを誤解なさってることはわかりますよ。
EBMでエビデンスレベルをI~IVに分けると、 専門家個人の意見(専門家委員会報告を含む)の信頼度は最低レベルのIV、症例報告、症例集積でもレベルIIIです。これよりエビデンスレベルが高い研究がない場合にはこれらを参考にすることはあるかもしれませんが、信頼度の低いエビデンスであることを理解し考慮する必要があり、その重み付けの考え方ができて活用できるスキルを含めて「リテラシー」と呼ばれるものであると理解しています。
EBMのよい点は、どんな権威のある医療者・機関の意見でも、効果があるというエビデンスを出していかなければレベルIV、IIIを出ないという明確さです。
まして、療育仲間の親同士で交換しあう生のエピソードは単発の症例に過ぎず、なにもしなくても自然に発達したことによって改善したという可能性も排除できないし、その療法をとらなかったケースとの比較もできないし、事前事後の評価を行なうのがたった一例しか見ていない非専門家の親だけだとすると、残念ながらEBMで評価する対象ですらなく、信頼度は限りなくゼロに近いわけです。
また、EBMはそれ自体には、どの治療を選ばせ、どの治療を排除するといった積極性はないと理解しています。インフォームド・コンセントがこれだけ普及してる現代、治療者や患者当人が治療法を選ぶ際のひとつの判断材料でしかありませんよね。(他にも経済的な問題や治療環境など、判断材料は複数あります)
従って、たろきちさんが3月19日のエントリーであげられたドリルの例は、「どちらがEBM的に正解か?」という次元の問題ではなく、EBMとはまったく無関係な、一個人の評価を受け入れるかどうか、信じるか信じないか、といったテツガク的な次元の問題です。
また、3月21日のコメントに書かれているな「(生の)エピソード(そのもの)」は、罪もないのでしょうが(そもそも罪とか善悪という問題ではないので)EBM的にはエピソードとしての意義すらないでしょう。(当の親にとっては働きかけに反応があるとモチベーションの維持に役立ちますが、他の親にとっては「はあ、そうなの、よかったねぇ」という程度でしかありません)
こういう論理のすりかえは、むしろ、代替医療やカルトが好んで使いますね。
一般人である親は、EBMや「リテラシー」を理解できないという偏見をお持ちのようなので、一般人の理解の範囲でお答えしてみました。
めえめえさんは上の例のエピソードについて
>なにもしなくても自然に発達したことによって改善したという可能性も排除できないし、その療法をとらなかったケースとの比較もできないし、事前事後の評価を行なうのがたった一例しか見ていない非専門家の親だけだ
と見事な批判的吟味をしておられます。
このようなしっかりとした批判的吟味を経たエビデンスを踏まえ、
経済的問題や能力的問題、価値観の問題、法律的・倫理的問題をも加味して論理的に判断した結果はたとえ、
「(エビデンスが低いから)止めとこう」
であっても、
「(エビデンスが低いけど)やってみよう」
であっても、どちらもEBMです。
やはりエピソードは一般の親にとって有効なエビデンスになりうる、という実例ですね。
ところで、めえめえさんはエピソードについて
「残念ながらEBMで評価する対象ですらなく、信頼度は限りなく0に近い」
と断定されていますが、たしかに、統計学的研究があって異なる結果を示している場合などはそうです。
その時利用可能な最良のエビデンスに基づいて判断するのがEBMですから。
つまり、エビデンスの価値は相対的で状況にもよりますので、あまり一概に言わない方がいいでしょう。
たとえば、「この療法をやったら死んだ」みたいなエピソードは(本当にその療法のせいなのか?という疑問はさておいて)非常に重視されます。
ご参考までに、このサイトのエビデンスの説明はいいと思います。
http://www.med.nihon-u.ac.jp/department/public_health/ebm/faq.html#Q5
EBMについて、ご持論は何度もおっしゃっているのでよく分かりましたが(矛盾はしていますが)、おっしゃっていることが本書の内容とあまり合致していません。
本書のなかで、おっしゃっている内容に合致することが書かれているページを指摘して、引用していただけませんか?
教えてください。
ここに書かれたコメントを読めば読むほど、理解しようとすればするほど、混乱してしまいました。(笑)
EBMとは、「その医療がもっている理論」が正しいか間違っているかではなく、「その医療が、結果として効果があるかないか」をしっかり検証しよう、という考えかた。
と理解すればいいんですよね?
予想通りの反応でしたが(^^;、コメントありがとうございます。
>ご参考までに、このサイトのエビデンスの説明はいいと思います。
日本大学医学部公衆衛生学教室のサイト、つまり医学生や医師に向けて書かれたページですね。ご紹介いただいたサイトから一部引用します。
>EBMのEvidenceにはどのようなものがありますか。
>最も簡単で身近なevidenceは指導医や先輩、同僚のアドバイスです。しかし、これには思い違いや思いこみ、憶測などの不確かな要素が入ってきます。
ここで言う 「指導医や先輩、同僚のアドバイス」 は、医師免許を持つ医師個人の意見であり、これは昨日も書いた通りエビデンスレベルIV(もしくは、思い違いや憶測などが含まれることを考慮すればそれ以下)ですよね。
どちらにしろ、たろきちさんが前のコメントで言及された、「療育仲間のエピソード」とは性質が異なります。
従って、たろきちさんのコメントの
>やはりエピソードは一般の親にとって有効なエビデンスになりうる、という実例ですね。
という結論にこじつけるのは無理、あるいはミスリードです。
エビデンスとして信頼性がないことと、その療育が「効いた」という療育仲間の体験は矛盾しません。
私が言ってるのは、療育仲間のエピソードはEBMで言うエビデンスとして信頼性がゼロに等しい、すなわち有効なエビデンスではない、ということで、たろきちさんのおっしゃることと真逆です。
かえって、療育仲間のたった一例、あるいは数例のエピソードをエビデンス扱いにするのは、代替医療の用いる「エピソード主義」と変わらない、つまりEBMと真逆の方向性だ、ということです。
たとえ信頼できる論文が出ていなくても、あるいは論文を読んでいなくても、投薬や治療について説明を受けるときに医師に対し、「その治療法のリスクは?」「その治療法を選択した・しなかった場合の予後は?」「何例中何例が改善、回復しているのか?」といった具体的な質問を投げかけて知識を得ることはできます。
たろきちさんによれば、
>その時利用可能な最良のエビデンスに基づいて判断するのがEBMですから。
だそうですから、こうした質問を通して、一般の親でも、療育仲間のエピソードよりはマシな、医学的な知識や多数の治療経験に基づくはずの(それでもエビデンスレベルIVかそれ以下の)医師の意見が簡単に利用可能になりますよ。
持論を展開なさりたいなら、少なくとも、出典は何か、用語は統一されているか(規定されたある用語を、別の概念に当てはめる、あるいは包括する独自用語として使っていないか)、よく吟味なさることをおすすめします。
コメントありがとうございます。
また、せっかくお読みいただいたコメント欄にてかえって混乱させてしまって申し訳ありません。
残念なことですが、今回のエントリのコメント欄では、およそ建設的とはいえない不毛な議論が続いていますので、理解を深める参考にはなりにくいと思います。すみません。
特に、ある方がコメント欄で解説?されているEBMは、本書に書かれているEBMとは違う意味合いを帯びたものであるように思われますし、そもそも前半と後半で書かれていることが矛盾しています。
本書が語っている、そして私自身も基本的に支持しているEBMとは、まさにTOKOさんがおっしゃっている内容であり、コメント欄ではなくエントリで書いている内容のほうになります。
以前、館の掲示板で同じようなやり取り、相手の発言の一部だけに反応して、論点をどんどん移していくやり取りをした記憶があります。めえめえさんなら、思い出していただけるかと思いますが、、、ピンポン会話というのでしたっけ。
たろきちさんとそらパパさんとのやり取りを見ていると、同じだと思います。
たろきちさんのお子さんが言語性優位タイプで言語で自分の世界を構築して安定するタイプだと、親が厳密に一貫して言語を扱わないので、かなり混乱するのではないか?
私もそうですが、このタイプは何故?何故?と問いただします、それに対する答えが一貫していない、「誤解だ」といって全く別なことを話される、これでは、言語性優位タイプのASDは混乱するだけだと思えて、心配です。
そらパパさん。
たろきちさんとのやり取りを、私は
どのような人がビリーバーになるのか?
どのような人がEBMを受け入れないのか?
という視点で見させてもらってます。
そらパパさんには悪いですがその視点からは、中々、収穫の多いやり取りだと思っています。
非生産的な議論に巻き込んでしまってすみません。
ヒゲ達磨さんがおっしゃるとおり、いまの議論は「矛盾など気にせず、部分を拾って論点をどんどん移行させていく」タイプの議論になっていますので、収束する期待がもちにくい展開になっていますね。
ヒゲ達磨さん、
コメントありがとうございます。
さすがにヒゲ達磨さんはいまの議論がどんなものになっているのかを的確にとらえていらっしゃると思います。
私自身も、今の議論を一段上のメタな視点からみれば「十分意味がある」ものになっていることは認識しています。
今のところ、私は、そこをあえて「メタな議論をせず、最小限の論点を追いかける」というスタンスでやらせていただいています。
ありがとうございます。私もたろきちさんを説得できるとは微塵も思ってませんw
が、確かに不毛な展開はスルーすべきでしたね。
そらパパさん
こちらこそ勝手に話を続けてしまってすみません。言いたいことは言ったので、そろそろ引っ込ませていただきます。
場を荒らして申し訳ありませんでした~>All
私の「持論」が紹介されてる本の内容と一致しなくてすみません。実は、私も色々調べてチマタに色々なEBMがあることを知って驚いているところなんです。
特にエビデンス・ヒエラルキーの最下位を見比べてみると色々あって面白いです。
疫学的根拠が上の方に載っているのはいいんですが、基礎実験や生理学的知見に基づく根拠が「根拠じゃない」とする誤解がかなりあるのには愕然としました。
めえめえさん
大体、理解されているようですが、もう一歩。
子供に毎日決まった時間に「薬」を服用させています。今、その薬の重大な副作用を示唆するエピソードに接しました。さあ、薬の時間です。選択肢は二つ。
1.医師に相談するまで服用を中止する。
2.決まった時間に飲ませた上で、一応医師に相談する。
・・お分かりでしょうか?「今」どうするかの判断は「今」持っているエビデンスを基に行うしかないんです。
より確定的な答えを示してくれるエビデンスがいつも用意されているはずだ、と考えるのはリアルじゃないんですね。
残念ながら、下位エビデンスを基に曖昧なままに判断しなければならないことがほとんどなんです。
だから、私は下位エビデンスを「エビデンスじゃない」と切り捨てることに反対なんです。
さらに応用編。
「この薬は、一番強力なエビデンスである<RCT研究>によって安全性が支持されている。よって下位エビデンスであるエピソードなど無視できるはずだ」
これはどうでしょうか?
答えは「正しい」です。
但し、そのRCTが「十分に質の確保された研究」である場合のみ、です。
研究の対象になる人間がたったの100名だったら、あるいは研究期間がたったの1年だったら。
そんな研究で1000人に一人の副作用を発見できるでしょうか?
ずっと後になって顕在化する副作用を発見できるでしょうか?
質の低い研究はエピソード一つで「オジャン」になることもあるんです。エビデンス界の下克上ですね。
研究エビデンスも批判的吟味が必要だ、盲目的に受け入れてはダメだ、ということも併せて覚えておいて下さい。
ここまでの「噛み合わなさ」というのも、ある意味すごいです。
ある意味、非常に勉強になります。
コメント欄も有意義なものとなるよう丁寧にレスを返しつつの運営、尊敬いたします。
厳密に定義されたEBMという考え方について、その根拠の理解を含めて、十分に理解することは難しいのかも知れません。
しかし、残念ながら、めえめえさんの at 2010年03月23日 09:50のコメントは、本書を読まなくても、ある程度のレベルに到達できると言う意味で優れたものと思います。
たろきちさんの一方的な思い込みに基づいた不毛な議論は、即時中止することとして、たろきさんは、本書を完全に読み直し、その上で疑問があれば、コメントするというのが、本ブログの狙いであると考えますが、いかがですか?
さて
貴方の 2010年03月27日 19:27のコメント中
>さらに応用編。< 以下の部分ですが
新薬開発における急性毒性、慢性毒性の扱い方、治験のやり方をご存知の上で書かれたのですか。また副作用情報の取り扱われ方をご承知の上で書かれたのですか??
私には、とてもそのように思えないので、医薬品への不安感を煽動する内容だと思います。
もう一つ
>基礎実験や生理学的知見に基づく根拠が「根拠じゃない」とする誤解がかなりあるのには愕然としました。<
とありますが、
私の商売では、健康食品などを動物実験や試験管段階の基礎実験や生理学的知見を根拠に
効果があるとして販売すると、
景品表示法の不実証広告規制に違反し、法的責任を免れないと思います。
「商品・サービスの効果、性能の著しい優良性を示す表示は、一般消費者に対して強い訴求力を有し、顧客誘引効果が高いものであることから、そのような表示を行う事業者は、当該表示内容を裏付ける合理的な根拠をあらかじめ有しているべきである。」
とされ、
動物実験や試験管段階の基礎実験や生理学的知見は「表示された効果,性能と提出資料によって実証された内容が適切に対応」していないから、効果は人間、実証は動物などと対応していませんから「合理的な根拠」とはされません。
エピソードも、いくら多数あっても
「無作為抽出法で相当数のサンプルを選定し、作為が生じないように考慮して行うなど、統計的に客観性が十分に確保されてい」なければ「客観的に実証された内容」ではないから、「合理的な根拠」とはされません。
つまり、貴方の考え方で商品を扱うと、私は法に触れるのです。
余談ですが別のエントリーにある「大大大博士」の本も、一般向けに出されるでしょうから、博士や漢方薬のアクセス・入手先が記載されていたり、チラシが入っていると「バイブル本」とされ、この景品表示法の規制対象になると思います。
あと感想です。
貴方の論議には、
誰にとっての
ベネフィク(利益)とリスクか、その比較
という視点が見事に無いですね、親権とは何かとか色々考えさせれます。非常に興味深く感じています。
論点でない、織り込み済みのことを垂れ流してしまってすみません。
ただ、EBM理解に関することには反応せざるを得ません。ご了解下さい。
>ヒゲ達磨
私のコメントに医薬品への不安を煽る要素があったとしたらすみません。
ただ、あくまでたとえ話ですので、実際不安を煽られるような人はいないんじゃないかと思います。
「治験のやり方」は詳しくは知りません。個人的には非常に慎重なもの、という印象を持っています。薬品の安全性に特に疑念はありません。
また、「合理的な根拠」ですが、制度的なものを解説していただき勉強になりました。
ただ、私は法律用語ではなく「EBM的判断の根拠」という広い意味で申し上げたので、やっぱり動物実験データなども「根拠」になり得ると思います(それを基に効能を謳うと違法なのはよく理解しました)。
(以下少し蛇足。
時々「研究ならともかく、臨床でそんなのエビじゃないよ」という言説を見かけますが、率直にリアリティーの欠如だと思います。
治験に応募するか、その判断にあたって動物実験データは「エビじゃない」からあえて無視するべきでしょうか?
臨床と研究をパックリ分け、ついでにエビデンスまで臨床用・研究用と分けるような考え方には反対です。
そもそも、実証研究だって基礎研究とか生理学とかの知見なしには役立たずでしょう。)
最後の「感想」ですが、これは誤解でしょう。たまたまエビデンスについて話しましたが、判断には価値観、倫理などの要素が加わると申し上げてます。
ヒゲ達磨さんのいうような点はその「価値観」に含まれます。
しかも、自閉症領域の特色として「価値観」のウエイトが重く、「エビデンス」は低い、と力説してるんです。
そもそも私が「そらパパさんはものすごくエビデンスを重視されてるな~」との印象(結果としては一方的な思い込みだったようですが)を持ったことが今回の齟齬の元凶なんです。
パネリストとして現役医師の国会議員も参加しており、診療報酬、地域の医師不足、医学部の誘致などを中心に話をされていたのですが、一言だけ、統合医療の勉強会にも参加しているとのことだったので、フロアから質問(噛み付く)させていただきました。
最近「代替医療のトリック」という本を読んだのですが…
から始まり、長くなるので要約すると政府として巷にあふれているエビデンスの実証されていない医療行為をどう考えていくのか?
それに対して、現役医師の議員は鍼灸はちゃんとした国家資格がある。 漢方は3000年の歴史の経験であるとの返答でした。(瀉血は2500年の歴史があったそうですが…。といいたかったのですが、やめておきました)
主催した議員はこれからもしっかりとチームを組んで統合医療に関しては検証していきたいとのことでした。
そのやり取りは、何とも珍妙ですね。
国家資格のような権威とか歴史なんてものは、(代替)医療を考える際のEBM的アプローチからは最も遠いものなのに、そこに準拠して正当化してしまうというのは、ちょっと気が滅入る回答ではありますね。
(メールでの追加情報もありがとうございました。)
ここにコメントされてる皆さん&そらパパさんのように博識でないので、コメントしようかどうか迷ったのですが・・・。(馬鹿をさらしそうなので・笑)。
鍼はもちろん、その他の「怪しい」代替医療で、ぎっくり腰・偏頭痛・側湾・ばね指・あごがはずれた等々が(目前で)治ってしまった例を結構見ているのですが、やっぱり「怪しい」から却下ですか(笑)。
「バイブレーショナル・メディスン(リチャード・ガーバー)」はどうでしょう・・・。
追記:長女が発達障害です。そらまめ式、頼りにしています。
コメントありがとうございます。
ご指摘のような個別の疾患・症状についての、個々の代替医療の効果について語るのは、明らかに私の知識の域を超えると思います。
ただ、外れたあごを直したりするのは、その部分だけ取り出してみれば単に整形外科と同じことをやってる場合もあると思いますし、偏頭痛とかについては、プラセボ的な効果も無視できないんじゃないだろうかとは思います。(仮に「効かない代替医療」であってもプラセボ効果はありますから、「効いた・効かない」でその療法そのものの有効性を判定するというのは、実は意外に難しいことです。本書はそのあたりも含めて詳しく解説されていますから、勉強になります。)
目についたんでコメントしておきます。
>EBMに対して反論したいならば、統制実験や疫学的研究といった、EBMの「効くかどうかの検証方法」を論破しなければならないのです。
そんなに難しいことではないと思いますが?
「>EBMで否定されるということは「理論やメカニズムは知らないけど、とにかく実際にやっても効かないことが実証されちゃったよ」ということです」が、明日にもその実証が間違いであるという可能性が常に存在しているわけですよね。
つまり、EBMの否定は現在の水準ということであり、明日には現在でなくなる可能性が常にあります。
そして、EBMで否定されても、それは一般論の否定であり、個別の問題に何ら対応できません。
ま、EBMなんてどうでもいいんです、治れば。(爆
コメントありがとうございます。
ただ、おっしゃっている内容は、ちょっと私にはよく分からず、また、EBMによって効能を否定された代替療法への再反論にもなっているようには思われません。
また、最後のポイントですが、もちろん治ればいいに決まっていますが、その「治る」かどうかを判定する具体的な方法論として、現時点ではEBMしかないと思います。
何か代替療法をやって「治った」(だから代替療法が効いたんだ)という「3た論法」は、仮に「本当によくなったという事実」がそこにあったとしても、その代替療法に効果があることを(一般論でも、個別論でも)必ずしも意味しません。
この辺りは、現在進行中のシリーズ記事「3た論法から療育リテラシーを考える」でも詳しく取り上げていますので、そちらも参照いただければと思います。
恥ずかしながら自閉症については、フィクションの世界のご都合主義的な症例しかイメージがありませんでしたが、そらパパさんの説明のおかげで、人並みの知識を持てたのではと思っています。
そらパパさんの文章は、理論的かつ平易な内容で書かれており、自閉症&療育に特別な関心がない人をひきつける内容で、個人的には理系学問をテーマにしたブログのなかで、傾聴に値する数少ないひとつだと思っています。
正直、サイモン・シンのファンとしては、この「代替医療のトリック」は期待外れの内容でした。
(2章以降は、ランダム2重盲検を武器に各代替医療を滅多切りにするのみで、知識の深まりがなかった。)
しかし、結果としてこのブログに出会えたのでよしとしよう、と思うことにしました。
いろいろとトラブルを抱えているようですが、一読者として陰ながら応援していますので、がんばってください。
はじめまして。
コメントありがとうございます。
また、拙ブログを評価いただきまして、嬉しく思います。
このブログでは、療育そのものだけでなく、療育技法やその背後にある理論・仮説に対しても科学的な目を向けて「クリティカル(批判的精神をもって)」に療育を考えていこう、というテーマをもってやらせていただいています。
この本は、サイモン・シン氏の著作のなかでの完成度の水準はちょっと分かりませんが、上記のような意味で、自閉症のお子さんを育てる親御さんにとって意義深い本だと考え、レビューさせていただきました。
これからもよろしくお願いします。