人権制約原理に利用される「公共の福祉」
はじめに
抵抗権と革命権は人権保障規定でありアメリカ合衆国憲法において権利章典としていられており、日本国憲法においては第97条の基本的人権になります。この人権保障規定と真っ向から対立している。憲法上の文言が人権抑制原理となります。この人権抑制原理は憲法解釈の変更により強化され、自民党憲法改正草案により文言が強化される形になります。具体的な内容は「公共の福祉」から「公益及び公の秩序」の変更となります。
公共の福祉の原意を理解し、人権抑制原理と人権保障原理とを比較して考察してみたいと考えます。
人権制約原理に利用される公共の福祉vs人権保障規定 権利章典及び基本的人権
「公共の福祉」という言葉をわかりやすく簡単に言えば、「多くの日本国民にとって幸せ・利益となること」といった意味になります。広辞苑では、「社会構成員全体の共通の利益」という意味だと書かれています。この観点から法解釈の変更を防ぐ文言を記載することが必要であると思われます。
また、「公共の福祉」を考える時、「公共の福祉」論は,「福祉国家による国家目標の遂行」という新たな形をえたことになる。
それは自由社会を願う市民が考えなければならないことになります。福祉国家により付加価値税を始めとした増税と直結し大きな政府を目指すことになります。また「社会構成員全体の共通の利益」という観点からみるとき、所有権を守る事、それは自らの命と財産である。これを最も侵害することは何かと考えると、政府による市民の抑圧と外圧による戦争であると思われる。その観点からみるとき、抵抗する権利こそ、自由社会に最も必要な概念となります。現実社会において派遣社員は現代の奴隷政策です。これでいいのでしょうか。
この観点から公共の福祉の意味を考えて見る必要があります。しかし「公共の福祉」といえば国が行なう福祉政策です。中央政府の強化が自由社会にもたらすものは何でるのでしょうか。
社会福祉 とは障害者、母子家庭などハンディギャップを追っている人が社会生活を営めるよう、公的な支援を行う制度
「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」これは生存権です。日本国憲法第25条によってすべて国民に保障されている。そしてこれを保障するのは国の責務だと明記されている。それが社会福祉となっている。自由社会の講演で驚いたことがあります。隣人を労わり合うその間に政府が割り込んでいいのですか。人を矜恤に思う労わりの心、その行為を政府が奪っているのですと…」大変驚きました。以下がその内容です。
自由社会の講演より抜粋
ここアメリカで実際200年間も「自己主管型社会」は成立していたではないですか?すくなくとも1900年代始めころまでは。その200年間、政府はGDP の5%しか使っていません。現在はどうでしょう。
GDPの25%も政府は使っています。見返りに市民は政府から何を得ていますか?黄金時代とも呼ぶべき 200年間には、我々には自由がありました。政府の介入なしに教育も医療のすべてが上手く機能していました。欲しいものを買い、必要に応じてお金を使いました。それだけでなく、
福祉は民間で運営され、 慈善は個人レベルでなされていました。お互いを労わり合うのに、政府の介入が必要ですか?政府が福祉 事業を独占して福祉の質が上がりますか?要するに政府が社会福祉と称して、介入していることによって 、隣人を労わり合うその間に政府が割り込んできているのです。思いやり、労わり合いの「仲介人」のごとく、政府が割り込んできているのです。昔なら、あなたを助けたいと思えば、「私」が助けたのです。 あなたの目を見て話を聞き、あなたの事をよく知っていますから、あなたが不幸な目に出会ったと知れば 、私が助けるのです。
自分の力で立ち上がれるように。いまはそれをしたくても出来ません。政府が私のお金を全部取り上げますから。政府が「私たちがやる」というのです。彼らは慈善の「仲買人」に成ったのです。その結果、我々は隣人に対し、憐れみ深くなることもなく、バラバラにされます。分断され、距離が生じるのです。もはや思いやりの行為の自由もありません。悲しむべきことです。アメリカ人は本来、思いやりのある人々だからです。このように慈善を破壊するシステムを作ってしまいました。
これまで述べたように、過去確かに「自由な社会」は存在しました。20世紀に「自由」を失くしました が、決してすべての「自由」を失くしてはいません。経済の自由は今なお存在しています。例えば、シンガポールや香港で生きています。二ヶ国共に一人当りのGDPは世界トップクラスです。そして世界で最も経済的自由を享受しています。輸出入の許可も政府に求める必要がありません。税率も世界で最も低いので す。キャピタルゲイン課税もありません。おかげで自由と繁栄を享受しています。だからといって、国は 乱れていません。実に秩序だったものです。それこそが真の「自由」なのです。今のアメリカにみられる 複雑に混乱したものではない。
アメリカ建国の父たちは今の時代こそ異なりますが、我々より賢明だったのです。その証拠に偉大な自由 社会、自由国家を創ったではないですか。今、逆行して何千年も前の原始的で野蛮な社会に変質している ではないですか?「独裁制」に!「自由」を「独裁に置き換えているのです。
社会保障とは、生涯の様々なリスクに対して社会全体で備えるための仕組み。
社会保険・公的扶助・社会福祉・公衆衛生から成り立つ。社会保障は四つの内の一つになる。
高齢者福祉
ホームヘルプサービス 福祉施設 地域包括ケアシステム
介護難民 老々介護 認認介護
老人福祉・介護事業の倒産 介護業界の人材不足
解決策・・・IoTを活用することにより、個人のバイタル・データを医療関係者が必要に応じて確認するシステムの構築
介護ロボット 介護機器の充実 コミュニティロボット
老人介護施設に友人が入所しており、前の日にアポイントをとり、会う時間は10分であり、その部屋にはアクリル板で仕切られている。自由のその部屋に入ることはできません。医療のおいても政府が認めた医療以外は実費であり、その医療も薬を売ることが主であり、本当の医療を享受することはできません。緊急時の外科的処置の外は必要ないものと思われます。コロナワクチンにより、高齢者を抹殺しているのも、コロナによりお店に営業を自粛させて経済を破壊するのも政府が行なう殺す医療のためです。この政府組織が目指す福祉は利権がらみの奴隷を檻に入れる福祉施設に私には映ります。コミュニティロボットが必要なのでしょか?バイタルをデータで管理してそれを望む人がいるのでしょうか。
顔色を見ればわかるし、声を聞けばわかります。話を講演内容に戻します。
民衆迎合、ばらまき福祉は何を指すのでしょうか?政府は囁きます。「政府があなたの面倒を見ます」「旦那さんがいなくても政府で世話しますよ」結婚なんてする必要ありません。政府を信じなさい。教育費?無料にします。健康保険?政府で保障しましょう。私(政府)があなたを保護します。私(政府)を信じなさい 。権力がありますから。
この方法で政府は「僕」から「主人」、つまり独裁者に成り上がるのです。そしてアダムとエバ(市民) は神の子から、つまり社会の主権者からサタンの僕となり、選択の自由を失くし、自由を失くし、責任を 失くすのです。そしてアダムとエバから神様は離れ、彼らは理想世界から締め出されるのです。 タダほど高くつくものはないのです。見返りに「自由」を差し出すのです 。地獄への道です。
「良心ある社会」とは、それにもっとも近い例で言えば、「自己主管型社会」だったのです。この社会は僅かな条件で成立します。
私有財産を保障する「最小の政府」と「自由市場」です。「自由な競争」も必要です。この3つの条件さえ整えば「自己主管型社会」が成立します。よい例は私たちの暮らす現在の政府の介入しない自由市場経済です。皆さん、iPhone、ご存知ですね。政府の命令でiPhoneが出来たのではありませんね。自由市場経 済が消費者のために産み出したものです。企業は自由競争に勝つために自己を管理し、自己の規制に従って自分で企画して商品を製作して、消費者に喜びと幸福感を与えるのです。
(ここアメリカで)教育省が出来てから30年で、子供一人当りかかる費用は2倍になりました。アメリカの子供の読み書き計算の力は世界の国々と比べて劇的に低下しています。より高い教育費をより劣った教 育に支払っているのです。選択の自由を失くしているからです。選択の自由が奪われたのです。私たちの 「自由」と「責任」が奪われたのです。「教育」において政府の僕に成り下がってしまいました。政府は 次に「健康保障」の自由を取り上げようとしています。選択の自由を奪って、健康管理の自由を奪おうと しています。医療保障や医療行為を民間がやっていけない理由はありません。逆にそれによってコストは 下がり、サービスの質は向上するでしょう。なにより問題なのは我々が選択の自由をもはや持たない事で す。毎日、政府は法案を通して、我々の選択の自由を損ない続ているのです。 ‥‥
同様にエデンの園の出来事からサタンの理想のビジョンも知ることが出来ます。サタンの楽園に対するビ ジョンはどのようなものでしょうか。サタンが、アダム・エバを含む全てのものの所有者になることです 。ですから、共産主義はサタンの思想に基づく理想世界だというのです。ご覧ください。共産主義体制では政府が全てを所有しています。天使長(政府)がすべて所有しているのです。神のビジョンは子女がすべてを所有し、サタンのビジョンではサタンがすべてを所有するのです。難しいことではありません。では社会主義とは何でしょう。すべての70%所有する政府は70%サタン社会だと言えます。では社会福祉型社会はどうでしょう。それは50%サタン社会だというのです。
ここで長成期完成級時代において神の社会か、サタン社会か、選択しなければいけません。世界は社会福祉型国家で溢れています。兄弟姉妹の皆さん、我々は決断を下すべき時にきています。神の理想社会のビ ジョンに進み、祝福を受けるのか。それともサタンのビジョンに堕ちて、地獄を相続するのか。問題はあなたが何を選ぶかです。
兄弟姉妹の皆さん、アメリカは神様に祝福された国です。建国から200年間はアメリカは自由な社会で した。まさに地上天国でした。世界中の人々が押し寄せてきました。アメリカの自由と機会を手に入れようとして、ここでは一生懸命働けば、その汗を流した分だけ見返りを手にすることが出来ました。その自由が世界を勇気づけたのです。世界を勇気づけました。しかし現在、その本来の自由の多くを失ってしまいました。さらに年ごとにさらなる自由を奪い取られていてます。我々の生活は規制という独裁に縛られ 、仲間の市民が捕えられ、世界最大の囚人人口を抱えています。政府が市民に対して争いを挑んでいます 。かつて自由だった社会が、多くの自由を失った国になりました。なぜそうなってしまったのでしょうか 。 …
そして不幸なことに、他ならぬ宗教が「思いやり」(compassion)の名のもと、政府の社会福祉政策を押し進めてきたのです。このことが現在の困難を我々にもたらしているのです。‥‥以上 (自由社会の講演より)
政府組織は一つの企業として君臨し、医療産業 福祉産業 教育産業 国防産業、私達は医療も教育も福祉も国防も全て市民である私達の手に取り戻す必要があることを痛切に感じます。そのような観点で「公共の福祉」が考えられたらと思っています。
人権制約原理とは
自民党憲法改正草案Q&A15において、批准している国際人権規約に人権制約原理があると述べている。この規約は世界人権宣言の理念を実現化するために1966年に国連で採択されたものです。世界人権宣言は1948年12月10日の第3回国際連合総会で採択された、すべての人民と全ての国が達成すべき基本的人権についての宣言である。
素晴しい人権宣言であるが、この権威が何処からくるのかについて29条の3において述べてある。29条の3 これらの権利及び自由は、いかなる場合にも、国際連合の目的及び原則に反して行使してはならない。このように述べてあるのである。
国際人権宣言29条
1 すべての人は、その人格の自由かつ完全な発展がその中にあってのみ可能である社会に対して義務を負う。
2 すべての人は、自己の権利及び自由を行使するに当たっては、他人の権利及び自由の正当な承認及び尊重を保障することに並びに民主的社会における道徳、公益の秩序及び一般の福祉の正当な要求をみたすことをもっぱら目的として法律によって定められた制限にのみ服する。
3.これらの権利及び自由は、いかなる場合にも、国際連合の目的及び原則に反して行使してはならない。
*上記2の内容は法律に記載すべき内容であり、憲法にて記載するべき事柄ではないと思います。人権制約原理の内容が日本国憲法においての第三章 第十二条の箇所であると思われる。
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。また、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉の為にこれを利用する責任を負ふ。
*自由及び権利には国民の不断の努力がいるのであろうか。自由という人権を濫用してはならないとはどういうことなのでしょうか。そして公共の福祉の為に責任をおうことになっている。
第三章は「国民の権利及び義務」となっている。国民の権利は理解できるが、憲法において国民の義務という文言は謳うべきではない。アメリカ合衆国憲法の修正条項においては国民の権利のみ謳われている。それでは自民党憲法改正草案においての人権の記載されている箇所はあるのでしょうか。またその権威は何処にあるのでしょうか。
改正草案第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならい。
*自由と権利を縛る文言である。公益と公の秩序は誰がきめるのか?それは国が決めることになる。つまり、条件付の自由を謳っている。時の政府が人権の権威になることを恐れます。
アメリカ合衆国憲法
われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫の上に自由のもたらす恵沢を確保する目的をもって、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する。
*人民が国内の治安維持を担当し、人民が共同の防衛に備え、一般の福祉も人民が担ったのです。そこには、一人一人の責任が付帯してきます。自由と責任は表裏の関係であるともいえます。
人権についての記載
日本国憲法では第十章 最高法規に規定されている。
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
合衆国憲法修正第一条
連邦議会は、国教を定めまたは自由な宗教活動を禁止する法律、言論または出版の自由を制限する法律、ならびに国民が平穏に集会する権利および苦痛の救済を求めて政府に請願する権利を制限する法律は、これを制定してはならない。
• ジョン・ロックはイギリスの哲学者である。
• ジョン・ロックはイギリスの革命期に生まれた人物だった。
• ジョン・ロックは秘書と主治医を兼任する万能な人物だった。
• ジョン・ロックは時と国を問わず、人々から評価される思想の持ち主だった。
ジョン・ロックと『権力』は切っても切り離せない存在です。彼の代表作『統治二論』は国王の権力はどのようにして与えられるか、そもそも自然状態とは何か、父親の権力とは、国家とは……と様々な権力に関するロックの考えがまとめられた大作です。ロックの思想は後世に影響を与えたものが多いため、何となくピンと来る内容も多いかと思います。もし時間がありましたら、是非手に取ってみて下さい!以上、ジョン・ロックの性格と経歴・生い立ちと面白いエピソードでした!
統治二元論
1632年イギリス生まれの哲学者 研究広範囲は政治論、教育論、宗教学など多岐にわたる
統治二論
第一論 ロバート・フィルマーの王権神授説に対する反論
王権神授説は君主の権力は神から授かったものとする考え方であり、家父長権力を採用しています。旧約聖書に登場するアダムは神から人間や自然に対する支配権を与えた存在であり、人間界の権力者はアダムからその支配権を与えられた存在であるという考え方である。君主たちが国民を支配するには欠かせない思想でした。アダムの名の下に国民を支配する構造原理です。この王権神授説を拠り所とした政治的支配を具体的な根拠がないものと批判したものが第一論であり、それを踏まえた上でロックの政治統治の考え方を示したものが第二論となります。
第二論 社会契約説を基にロックの統治論を展開
自然状態とは人々が自由気ままに行動でき政府のような統治機関が存在しない状態
この状況下では法律もルールも何もないので人間は本能のままに生活することができます。しかし、規制のない自然状態の中でも治安や平和はある程度維持できることがわかりました。これは人間が制約がない状態でもある程度、理性的に行動できる召命であり、目には見えない自然法(良心作用 コモ・ローに発展したのか)というものが働いているとロックは主張します。
そして自然状態の中では人間は生きるために二つの権利が与えられています。一つ目は『所有権』です。まず人間は自分の身体を所有しています。そして自ら所有している肉体を動かして手に入れたものは必然的に所有物になります。この権利を発展して得たものが労働です。労働して得たもの、耕して得た作物など所有権が及ぶことになります。
そしてその所有権が他人によって侵された場合、本人にはその所有権を守る権利、『抵抗権』が与えられます。苦労して得た作物が他人に盗まれた場合、どこまで抵抗権が認められるのでしょうか?奪い返すだけでしょうか。それとも殺すことも正当化されてしまうのでしょうか。
明確な規定のない自然法のみに頼っていては限界がありますし、ある程度の平和の維持は可能であるとはいえ、犯罪が横行してしまう環境には変わりありません。そこで人間が完全に生存活動を続けていくうえで絶対に必要な所有権を保護するために政府が必要なんだとロックは考えました。裏を返せば政府は所有権を守るためだけに存在する組織であるため、活動は限定的です。政府の役割はルールを作ってルールを破った者に罰を与える制度を確立することが重要な役割となります。
政府の役割は国民の所有権の保護、ひいては生命の維持・保護であると考えており、そのほか税の徴収を始めとした多くの行政は所有権の保護の延長線上にできたアイデアであるといえます。
自然状態では個人で所有権と抵抗権が与えられています。政府が抵抗権を行使する立場に代わるので個人の抵抗権は失われます。そして政府が所有権の保護という役割を怠れば、国民は政府に対して抵抗できる権利をもちます。それでも政府が役割を果たさない状況が続けば国民には革命する権利が与えられ別の政府を新たに作ったり、クーデターを起こす権利が与えられます。これが統治二論の役割です。
考察 自由社会による憲法では政府に抵抗権を譲らない契約となっている。天使長の位置にいる政府組織が責任を持たせない。立場となります。平和の維持が自由国家に最も重要であると考えます。
1.自然状態では人間は自由に行動できる。
2.人間は自ら獲得したものに対しては所有権を持ち、それらが侵害されたときには抵抗できる権利を持つ
3.所有権を保護する組織として政府が出来上がり、政府が役割を果たさない場合には、国民は抵抗権・革命権が与えられる。
この統治二論における政治的統治の考え方は『フランス革命』や『アメリカ独立戦争』に結びつくなど歴史的に大きな影響を与えたものとなりました。それ以前は神の信託のもとに特権階級が国を統治しているという考えが当たり前だった世の中ではロックの神から授かった統治権を否定する考え方は斬新的で広く民衆の支持を集め革命を肯定することになったからです。正義の定義を当時も捜し求めていたのでしょう。
日本国憲法にもロックの考え方は強く反映されています。幸福追求権について述べている憲法の13条では
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」第13条
生命に対する追及は、統治理論の所有権の部分にあたり、公共の福祉に反しないという点は政府を設立するにあたって放棄した抵抗権を行使しない限りと言い換えることができロックの思想を垣間見ることができます。
冒頭にも触れたとおり統治理論は比較的わかりやすい内容になります。
憲法や基本的人権を理解するときに「公共の福祉」に関する知識は欠かせません。
公共の福祉とはいわば「一人一人の利益のためにバランスを取ること」であり、公共の福祉のために、基本的人権が制限されることがあります。人々が好き勝手に自分の基本的人権を主張すれば別の人の人権との衝突が起こり、社会が混乱してしまうので、公共の福祉という考え方を使って、社会のバランスを取るわけです。ただ、基本的人権は強く守られなければならず、国や行政機関などが、公共の福祉の名の下に好き勝手に基本的人権を制限することは許されません。(公共の福祉 概念1)
憲法は基本的人権と公共の福祉を重視しています。公共の福祉は、ある人の権利が他の人の権利と衝突する場合に重要になります。例えば、表現の自由を主張するAさんと、プライバシー権を主張するBさんが衝突した場合、公共の福祉を考える必要があります。人権は尊重されるべきものであり、他人に迷惑をかけない範囲で尊重されます。したがって、プライバシー権を守るために、表現の自由を制限することが必要になる場合があります。このように、公共の福祉は、個人の権利とのバランスをとることが重要です。一方で、「公共の福祉=社会秩序のために人々の権利を制限すること」という考え方は誤解を招きます。公共の福祉は、個人の権利を尊重した上で、場合によっては制限することが必要な概念です。この考え方によって、私たちの人権が保障され、社会全体が利益を得られるのです。
「公共の福祉」という言葉の英訳は、「the public welfare」です。「public」は「公共の」「公衆の」「公の」などと訳されますが、元々は「多くの人々の」という意味です。「welfare」は「福祉」と訳されますが、「幸福」「繁栄」とも訳されます。
つまり、「公共の福祉」という言葉をわかりやすく簡単に言えば、「多くの日本国民にとって幸せ・利益となること」といった意味になります。広辞苑では、「社会構成員全体の共通の利益」という意味だと書かれています。ただ、法学の世界では、この言葉の正確な意味とその効果について、長らく議論されてきました。「公共の福祉」は基本的人権を制限する根拠となる以上、意味が明確でなければ基本的人権がむやみに侵害される危険が高まるからです。
つまり、「公共の福祉」とは、人権の外にある「国家の利益」や「社会全体の利益」「公益」という意味ではなく、人権に当然備わっている制約原理、すなわち、「人権同士がぶつかったときしか人権を制限することはできない」というわけです。(公共の福祉概念1)
この説は、憲法学の共通言語ともいわれるベストセラー岩波書店の『憲法』という教科書に記載されたため、長年通説としての地位を占め、この教科書で勉強した法学部生の多くも「公共の福祉」は「国家全体の利益」ではなく「人権がぶつかったときにしか制約できない」ものと疑わず、法律家になっていったのです。(公共の福祉概念1)
長谷部先生の批判以降、ほとんどの憲法学者は内在制約説は間違いであり、「公共の福祉」=「公益」あるいは「社会全体の利益」のことを意味すると考えるようになります(公共の福祉概念2)
今日では、「公共の福祉」は端的に「公益」「社会全体の利益」と捉えられていると考えるのが多数的見解だと思います。日本語としても、素直に「公の利益」という意味に解する方が自然です。
したがって、「公共の福祉」の定義について言えば、かつての一元的外在制約説に回帰したと言えなくもありません。 しかしながら、全体利益である「公共の福祉」が、個人の人権に優越するというわけでは勿論ありません。 学界の議論は、「公共の福祉」の定義から人権の制約範囲を決めることは困難であり、それよりもケースごとに憲法に違反するかしないのか基準を立てて、慎重に判断する方が大事であるという流れになってきています。
公共の福祉の概念が二つあることが問題である。
公共の福祉を考えるに当たって、国家の原理的意味を私達は理解する必要を感じています。それは国家組織は主人ではなく天使長的位置(僕)であるといことです。そして個人は神の子としての権利を信託されていると事実です。この観点から公共の福祉を考えるならば、現在の考え方が個人個人の人権の調整という意味であれば、それは法律に記載すべきであり、市民の良心に沿ったコモン・ローによる判例の積み重ねにおいて制限されるべきであると思われます。
そして公共の福祉が社会全体の利益の為に個人の権利が抑制されるとする解釈であれば、これを憲法の記載するべきでないのです。そして裁判官にその解釈を任せて時の政府の意にかなう法解釈に問題があるのです。
所有権をまもるのが憲法の本質
私達のカラダを所有しているのは私であり、その私が労働して得たものもの所有も個人にある。この所有権を守ることが憲法の本質である。
ここで、アメリカの人権保障規定修正第二条には
「規律ある市民軍は、自由国家の安全にとって必要なものであるので、国民(個人)が武器を保有し、携行する権利はこれを侵してはならない」となっている。
「公共の福祉」という言葉の英訳は、「the public welfare」です。「public」は「公共の」「公衆の」「公の」などと訳されますが、元々は「多くの人々の」という意味です。「welfare」は「福祉」と訳されますが、「幸福」「繁栄」とも訳されます。つまり、「公共の福祉」という言葉をわかりやすく簡単に言えば、「多くの日本国民にとって幸せ・利益となること」といった意味になります。
この原意において理解するならば、自由国家の安全こそ多くの人々にとって幸福と繁栄をもたらすことに最も意味があるとすれば、この公共の福祉をどう理解するのかという問題に対する答えは明確である。日本国憲法三章の第12条に記載されている公共の福祉を曖昧な表現とせずに、権利章典修正第二条を記載することを提案する。
公共の福祉の三番目の概念
自由社会を守ることが、所有権である命と財産をまもることにつながる。それは「多くの日本国民にとって幸せ・利益となること」=公共の福祉となる。
第12条 自由国家の安全は多くの国民にとって幸福と繁栄(公共の福祉)をもたらすので、規律ある市民軍は必要であり、国民(個人)が武器を保有し、携行する権利はこれを侵してはならない」
憲法国家と「公共の福祉」 ヨーロッパ諸国の憲法には,古くから「公共の福祉」の観念が使用されてきていた。それは,国家社会の意味への問い掛けあるいは政治行為の目的への問い掛けとして,実定憲法に規定される以前から使用されてきた。つまり,その原理が多用された理由は、国家権力の行使を法的だけでなく倫理的な正統化のなかで行使しようとする試みが一方で在り,他方でこれを求める民衆の要請を受けることで,国家の権限行使やそれを支える国家論を正統な目的に限定させることが求められていた。
ドイツで長いこと国法学の主題であった「国家目的論」はこれに属する 。これを総合する(公共の福祉)こそが,権力行使に付帯する政治倫理の基礎を為してきたことは確かであった 。ここには概念として幸福が望まれていたのであり,日本国憲法13条にもこの傍流は流れてきている。(憲法学者の言)
まとめ
この公共の福祉を原理的観点から見てみるとき、政府組織は僕(天使長)の位置であり、仕える立場であり責任を持つ立場ではない。この公共の福祉が政府組織の責任の拠り所として利用され、神の子としての責任にとってかわるために利用されている。
かつての「公共の福祉」論は,「福祉国家による国家目標の遂行」という新たな形をえたことになる。
現在の国家が進む方向である。自由社会を目指すのか。福祉国家をめざし自由を差し出すのか。私達は岐路に立たされている。