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2009年12月07日(月)

獣をめぐる冒険 

■はてなダイアリー界隈での議論を追いかけていないと、さっぱり意味不明なことを書く。本当は、はてなの外にあるこのブログにこういう記事はあまり載せたくないのだが、ブックマークはもちろん、はてなハイクに書き込むにも長すぎるものになってしまったので、ここで書かせてほしい。

性犯罪を容認する発言を許す産経新聞へ抗議しましょう - 「あなたは悪くない」別館
ここで引用されている曽野綾子のコラムについて。まあ、ひどい、ということは今更いうまでもないだろう。上のエントリーの後半は、性犯罪について一般に流布しているイメージがいかに歪んでいるかを指摘した、いわゆる「強姦神話」についてなので、ぜひよく読んでほしい。自戒を込めていうが、「そんなこと、とっくに知ってるよ」と思っていても読むべきだ。知識としてもっていても、具体的な事件を前にするとそれが飛んでしまって、「夜道を一人で歩いていたんじゃないか」「挑発的な服装をしていたんじゃないか」と、とっさに勘ぐっていることがままあるからだ。それほどまでに「強姦神話」による世界の説明は個々にかたく内面化され、その真偽を問うことは禁じられている。それはまさしく神話なのだ。

なお、当ブログの関連記事はコチラ。
「オキナワ」に目覚めたきっかけがCoccoの私に偉そうなことはいえないけれど
「正しい知識」だって、問題だよ
×××イデオロギー

今回のバカコラムに対してのものではないが、基本的な考え方は変わっていない。

【More・・・】

■ひとつ、まとまった内容を書きたいことがあったが、モタモタしているうちにsk-44さんが、あたしなんかが浅知恵を絞るよりもずっと上手に表してくださった。なので、以下まとまらない雑感を書き散らす。

男性ジェンダーとは「この世は悪意に基づく危険に満ち溢れている」という観念とその共有において成立するもので、この平和ボケした日本では、男性は「男」であるために「この世は悪意に基づく危険に満ち溢れている」ことを常に確認しなければならない。そして、斯様な観念を共有するための接着剤として性犯罪が報道されるたびに女性が攻撃される。それも被害女性が。なぜなら、自衛論者が仰るこの世に満ち溢れている悪意こそ、男性ジェンダーが維持する性差別そのものだから。

性犯罪が報道されるたびに「この世は悪意に基づく危険に満ち溢れている」と「一般論として」公の場で説いてやまないのは、挙句「自衛」とのたまうのは、「この世は悪意に基づく危険に満ち溢れている」ことを知らない――ということにおいて規定される――「女」をダシにした男性ジェンダーの結託のためにされる定石。「男」であろうとする男性たちにおいては「この世は悪意に基づく危険に満ち溢れている」ことを知っているのは自分たち「男」だけなので。仰る通り、この世が性差別とそれに基づく危険に満ち溢れていることは貴方がたはよく知っているでしょうね、貴方がたが作り出し「一般論」の名のもとに性犯罪者に「獣」をアウトソーシングして既成事実化させているのだから、とセクシストたちには言うよりほかないが、時に自覚がないから困る。
「獣」のアウトソーシング - 地を這う難破船
(一部、改行を変更した)


この「一般論」とは、「男は獣なんだから、女の子は無防備でいちゃダメ!」とか、「世の中には鬼畜もいるんだから、夜中にミニスカはいてフラフラしてたら、そりゃ襲われもするよなあ」と、ことが性犯罪になると嬉々としていいたがる人間が多発する現象を指している。それに対して「男が獣なら、女の自衛うんぬんの前に獣の方を駆除するなり隔離するなりすべきだろうが。でもお前ら獣じゃないんだろ人として振舞え」とカウンターするのはショック療法としてはとても有効で、実際あたしもよく使うのだが、「獣」と「獣ではない男」を明確に切り分けてしまうこの論法は、男性ジェンダーが「レイプ」を必要としそれが生まれる構造を強化しつつ成り立っているということ、男性セクシュアリティが暴力性をはらんで形成されているという問題にうまく言及できない。
これはshisokanさんの指摘にもつながっているだろう。
「強姦するのが男の性なら」について

蛇足とは思いつつ付言しておくなら、ここでいう「(俺は違うが)世の中には獣みたいな男もいるんだから気をつけなきゃいけないというのに、まったく女は世間知らずなんだから…」という形のアウトソーシング以外にも、「いやあそりゃ、キレイな女がいたらヤりたくなるのもしかたないよね、俺だって理性飛んだらわかんないもんね」というパターンも存在する。この場合、アウトソーシングの対象には実際の加害者だけではなく、理性的自己から排除された「自己の中の獣」も含まれている。hokusyuさんいうところの「邪気眼」である。「女をレイプできる」のは男の強さの証明である一方、やらかして実際に捕まるとそれはそれで道徳的弱さの証になってしまうというので、セクハラだの買春だの××人切りだのを自慢することになる。武勇伝、武勇伝。
「この世には獣がいる」と語りたがる男は、「世の危険に無知」と女の位置を引き下げることによって相対的に自らの優位性を確保し*1、「俺だって」をいう男は直接的に女に力を誇示しようとする*2。そしてそれらを披露しあうことで男は男として承認され、「男になる」のである。余談だが、「最近の男は『据え膳食わぬは男の恥』ってことも知らないで、まったく男らしくないねえ。昔は男をちゃんと育ててくれる、いい女がいたもんだけど」と愚痴るオッサンは、つまり前者の要素が強い「獣」を後者の「獣」にしてやれるのが「いい女」だと言っているわけだ。そんなことをするくらいなら、あたしは「サゲマン」上等だが。
話を戻そう。実在した性暴力での「獣」を引き合いに出して「だから女は自衛すべき」というとき、「普通の男はそんなことしないが」と言いつつ、「獣」がレイプに走った理由は男性性によって説明されている。このとき「この世には獣が」と「男はみんな獣」というふたつの世界観は、実は同時に顔をのぞかせているのだ。自分は獣などではないが、と自らの男性性への攻撃を回避しつつ、しかし自分の男性性を利用して「獣」の行動原理を説明する権利を独占している。そうやって二枚舌で女性を脅し、男性の沽券を維持しようとしているのだ。
ちょっとややこしいのは、男性ジェンダーの暴力性を自覚している男性であっても、それを拭い去るのは思いのほか難しいということだ。性差別を批判する男が、実のところ女に「僕は君以上に君のおかれた立場を分かっているんだ」と精神的マウンティングをしようとしていたり、あるいは「分かっている女」にすり寄って「何にも知らずに既存ジェンダーにしばられているスイーツ(笑)ども」をバカにするお墨付きをほしがっているだけだったりすることがたまにある。そして、女性からそれを指摘されると、いきなり逆上して暴力的にふるまいがちだ。あ、対象は女だけじゃなくて「(知的・論理的に)弱い男」もか。「『紳士』とされる男が実はDV男だった」ってのは、こういうことでしょうか。もっとも、これはあんまり言うと皆にっちもさっちもいかなくなるのだが。

さて、男が「男」になるのがそういうことであるならば、「犯される性であり、またその時まで危険に無知である」というまなざしの中で構築された女性像を、自らの本質そのものとして内面化してゆくことで、女は「女」になる。
「男になる」ことについては、柴田剛のおそいひとを。「女になる」ことについては、ルシール・アザリロヴィックのミミ [DVD]エコール [DVD]をオススメしておく。『小さな赤い花』もいいのだけど、どうもDVD化されてないようなので。なお、ラインナップが激偏ってる上に最近の作品しか挙げてないのは、それしか知らんからです。あたし、教養ないんで。

■言うまでもないことだが、「そんなに獣だっていうんなら、いっそチンコ切っちゃえば?」というのと、「性犯罪者はチンコ切れ」はまったく違う。「女は自衛しろ」と「性犯罪者はチンコ切れ」は平気で両立するし、むしろ両者は親和的でさえあるだろう。
あたしは、というか曽野に批判的な立場から議論に参加しているほぼ全員がそうだと思うが、去勢になど賛成しない。性暴力の加害者を「ダメなチンコの持ち主」もしくは「チンコをコントロールできないヤツ」と規定すればむしろ、レイプを「オスの本能」に還元する本質主義に手を貸すことになる。その中で、男性から被害を受けた男性は「オスの本能」を承認しあって成り立っている男同士の連帯を脅威にさらす「オカマやろう」と見なされ、女性から被害を受けた男性は「お前もいい思いをしたんだろ」と受けた傷を否認され、女性から被害を受けた女性は存在自体が認知されない。
レイプを「チンコ」の問題にしようとするのは、性暴力を本質主義によって説明し、それを利用して被害者や潜在的被害者と見なされる女性を「お前たちは本質的に犯される性なのだ」と脅迫することに他ならない。その一方で女性には「女性らしくつつましやかな」ふるまいや服装を社会的マナーとして要求し、能動的な「強さ」を身につけさせまいとする。このダブル・バインドの帰結は、自衛=女子どもは家にいろ、となって女性の社会活動の制限をもたらし、性差別を強化する。こうした性差別維持の言説装置として持ち出される「チンコ」こそが、あたしたちのちょん切るべきものである*3。実際の男性器ではない。

■自衛うんぬんについては、このエントリーに書かれていることに尽きる。
Non-Fiction(Remix Version) - リスク管理というなら、このくらいは考えてよね
誰も自衛するなとは言っていない。それでも「自衛しろ/自衛が足りないから云々」という論に反発するのは、性犯罪に限ってそういうことをいいたがる人が大勢現れるその影に、性差別があるからだ。こういうと「財布をポケットからはみ出させててスリにあった人には、普通に『もっと気をつけろ』というと思うけど」とか言いだす人が現われそうなので先に言っておく。「どこどこでスリがありました」というニュースを見て真っ先に「被害者はちゃんと財布をしまっていなかったんじゃないか」と勘ぐるヤツはめったにいない。ところが性犯罪となるとすぐに、被害者の行動に注目が集まり、「もし被害者がミニスカートをはいていたなら~」と、知りもしないことが勝手に語られる。語るに落ちる、とはこのことだ。その文脈を無視して「被害者を責めたいんじゃなくて、冷静に原因を探して今後の防犯に役立てたいだけなんだ」などと言ったところで、最初から関心が「被害者が何をしていたか」にしか向いていないのだから、いくら分析しても被害者に対する後づけの犯人探しにしかならない。それは被害者をさらに傷つけ、次に被害に遭った者に告発をためらわせ、潜在的被害者とされる女性の行動を制限して社会活動の機会を奪い、結果的に性差別を強化することにしかつながらないのだ。
「一般論」としての自衛を個別の事例と混同しなければいい、というのも違う。まず「ミニスカートをはくな」「夜道を歩くな」などという「一般論」はそもそも間違っていて何の役にも立たない。それにこういった議論では、個々の人間と全体社会とを往復する思考が不可欠だ。社会の現実は、個々人の行為とかかわりあいによって成り立っている。よく「木を見て森を見ず」などというが、木(個人)を木として見ようとしない者にもまた、森(社会)は見えない。この場合の「森」とは、「獣」との共犯関係で維持された性差別をふくむ「どうぶつの森」のことだが。「おじょうさん おにげなさい」で許されるのは森のくまさんだけだっての。

第一、現実的な範囲での警戒など、女性はみんなしている。「自衛」は性暴力の危険を減らすことで生活全体をよくする手段なのだから、危険を最小にすることが目的化して日常を損なったら意味がないのだ。若さに任せて飲んだくれて、「まーたやっちゃった」と笑いあいながら明けゆく空を眺めたいじゃないか。仕事や学校の帰りに、ふらっと飲みに行ってたまたま居合わせた人とことばを交わしたいじゃないか。気のあった相手の性別など気にせず、どこか邪魔されない場所で、酒とともにとことん語りあいたいじゃないか。こうしたことを自制しなきゃいけないというのは*4、大いなる機会損失だ。行きたいとこにも行けないこんな世の中じゃ、ポイズン。
常に最大限の「自衛」を要求するなんて、お門違いもはなはだしい。ゼロリスクをわめきたてるクレイマーか、あなたは。お客様は神様か。一体いつ、女性に対価を払って消費者になったというのだ*5。そんなことを求めるのは、自衛論が「女性のため」の皮を被った貞操の強制だからだ。そして、どこまでなら難なく実現できるかは、当の本人がいちばん知っている。当たり前のことだ。彼女がどんな生活をしていて、何は譲れないのかを本人以上に知る人などいないのだから。そもそもあたしたち同様素人で、しかも「襲われるかもしれない」という不安をわが身で感じたこともロクにないヤツが、日常的に危険を感じて行動を修正するなり警戒するなり、覚悟を決めるなりしつづけてきた人間より実践的な「自衛策」を編み出せると思うほうがどうかしているのだ。常識的に考えて。

まあそれでも、あなたがどうしても「現実的な対策」を考えることにしか興味がないというのならしかたない。他のことは他のひとに任せておいてもいい。あるいは、社会が良い方向に変わることなど決してなく、自分でどうにかしなければ食いつぶされるしかないのだと固く信じ込んでしまうほど、つらい体験があったのだろうかと同情してやらないこともない*6。ならば黙々と自衛策を考えて、情報発信をつづければいい。ほかのことにも興味のある人たちは、あなたより多角的に考えた結果その提案を無視したり、好きに取捨選択したりするだろうが、それに文句を言うのはもちろん筋がちがう。
それから、ただの性差別強化にならず役に立つ自衛策を本当に考える気があるなら、「被害にあってしまった事例を分析し、その中から原因となりそうな共通要素を見つけだして回避する」なんていうアプローチをとってはダメダメだ、ということは助言しておく。被害者の側が取る対策であっても、加害者の分析から導き出せるものもある。それに、ある事態を起こす条件となる「原因」と、ある事態を逃れるための対策は独立だ。費用対効果の視点が欠けていても論外だ。さもなくば、

・食中毒の症例を分析した結果、必ず食事によって起こることがわかりました。ものを食べるのをやめましょう! ←むりです。
・サルモネラ症は生卵を食べて感染することが多いようです。卵の生食は一切禁止するべきです! ←いやです。

こうなるのがオチだ。いや、「ミニスカートをはくな」なんてのは、実践したところで効果自体がないのだから、上の例以下である。
性暴力の被害者が「ミニスカートをはいていたから」「夜道を歩いていたから」と難癖をつけられることはみんな知っている。それを口実に「そんな格好やめなさい」「夜遊びしちゃいけません」と口うるさく言われた経験のある人も多いだろう。それでもあたしを含め、多くの女性が今日もミニスカートを身につけ、夜道を歩いている。意味がない上に生活に支障のあるような「自衛策」に従うのは「むりです」「いやです」とすでに結論は出ているのだ。現実主義者を自認するなら、とっくに拒絶された案をいつまでも主張しつづけるなどという非現実的な行為は、とっとと止めたほうがいい。ちなみにあたしは今日は、ひざ上15cmほどのバルーンワンピースを着ているわけだが。

■上でさらっとふれた「女になる」ことにかかわる話。
女性であること、とくに若い女性(と呼ばれる身体)であることが、性的で欲情をさそうものだということはあまりにも当然とされている。女性を性的対象としない人間(とくに異性愛の女性)でさえ、「セクシーポーズを描いてみてください」というとたいてい女体を描きはじめる。それは女の本質として扱われ、「女が欲情させている」と責任を帰される。女は、ポルノと並置されているのだ。
「性的な身体とは女性の身体のことである」という物語はあまりに広く共有されているから、女性自身もそれを意識しているのだ。当然それを利用して「セクシー」な格好をし、性的アピールをする女性もいる。性的アピールではなく、すきでこういう服を着るのだ、という女性もいる。性的とみなされることを嫌い、「地味な」装いに身を包む女性もいる。しかし、それ自体もまた性的イコンにされてしまう。「委員長萌え」を知らないとは言わせない。「ミニスカート」など穿かなくとも、「性的な身体」という解釈の網の目に、女性はからめとられている。
そんな社会の中で「若い女性」というだけで扇情的要素を感じとってしまうのは致し方ないことかもしれないが、まちがっても欲情の対象となるためだけに意図された存在=ポルノと同一視するのはやめてほしい。「こんな…彼女は、そんなつもりじゃないかもしれないのにっ…でも、僕…ああっ、こんなのっ、いけない…!」くらいの屈折はしていただきたいものである。

■そういえば、さんざんミニスカ、ミニスカ言っといて、なんでこれが出ないんだろう。
感じない男 (ちくま新書)
沼崎一郎「ミニスカートの文化記号学」(現代文明学研究)

あと、未読なんだけどスカートの下の劇場 (河出文庫)も関係あるのかな。

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*1 「女は何も知らない」を裏付けるため、しばしばこのような会話の参加者から女は排除される。
*2 ときに誇示の中身は「女を守る力」に変わる。こちとら別に、2人目の父親なんざ求めてないんで、大きなお世話である。
*3 上掲「×××イデオロギー」参照。
*4 まあ、あんまりしてないけど。
*5 勢いで出したたとえ話だが、被害者の落ち度を責める論の裏側に、女性を男性に供給されるべき資源とみなし「品質を落とさないこと=純潔、貞淑」を求める意識があるというのは大いにありそうな話なので、まったくネタにならない。
*6 しかしその状態のままでは苦しいでしょうから、一度パソコンの回線を切ってお医者様に(以下略

テーマ : マスコミ - ジャンル : 政治・経済

タグ : 産経新聞曽野綾子ジェンダー性暴力

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2013/01/27(日) 15:03:11 | 【2chまとめ】ニュース速報嫌儲版
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