『地の涯に生きるもの』
久松静児『地の涯に生きるもの』、
老人・森繁久彌は、知床半島の厳しい寒さの冬に"留守番さん"と呼ばれ、ネズミを寄せ付けないための対策として飼っている多くの猫と一緒に、一人で漁師の番屋を守る暮らしをしていた。
森繁はその間に一人、これまでの自らの人生を顧みる。
若き森繁は漁師として独立し、西村晃との三角関係から半ば無理矢理草笛光子と結婚し3人の息子に恵まれた。
だがその後、流氷の事故でまだ子供の息子を亡くし、山崎努の息子は戦死、妻の草笛は重い病となり、アメリカの薬ペニシリンを求めて網走に妻を連れて行く途中に死なせてしまう。
そんな辛く哀しい過去の数々を森繁は一人回想していく。
動物文学の戸川幸夫の原作『オホーツク老人』を映画化した作品。
森繁久弥の映画にしてはわりとシリアスな映画で、というか、森繁の人生には辛い別ればかりがひたすら重なり、3人もいた息子は全員自分より先に死んでしまうし、病になった妻の草笛光子も手の施しようがないので網走にある病院まで連れて行こうとソリで山を越えて運ぶのだが、苦労して山越えをした途端に草笛が死んでしまい、もはや何から何まで暗転していくばかりの森繁の人生が回想されていく。
戦争のために1人生き残った息子・船戸順を軍需工場に取られたことに怒っていた森繁だが、何とか船戸は戦後、地元に帰ってくるものの、彼は東京で暮らすと言い出したので怒った森繁は息子を勘当してしまう。
しかし妻の草笛が死んだ後、船戸は帰ってきて漁師になってくれ、森繁が喜んでいたのも束の間、天候の悪い日に漁に出た船戸は、そのまま海で死んでしまう…。
と、然様に何もかもが悪い方向にしか進んでいかない暗転人生が延々と回想されていくばかりだが、その回想をしてるのが森繁久弥だからか、それほど陰々滅滅とはならないところがまだ救いかもしれない。
終盤には死んだ息子・船戸の恋人だったという都会の娘・司葉子が森繁のもとを訪れ、懐かしい話をしてくれるが、司に船戸が自分の息子だと言えないまま対峙する森繁の姿が悲しい。
最後も飼っていた猫を救おうとして大自然の残酷によって命を落としてしまう森繁の姿で終わるが、そこに森繁の死体を狙っている大量のカラスが描かれて終わるあたり、いかにも動物作家の原作の映画化という感じがする。
このラストには、ちょっとロベールブレッソンの「バルタザールどこへ行く」の厳しい残酷な現実を想起させるところもある。
結局この映画は、動物作家の原作の映画化らしく、人間を一つの動物として捉えて、その動物が厳しい現実の中でひたすら淘汰されてしまう生態を暗転に次ぐ暗転で描き得た映画とも言える。
だが単に人間を動物としてその生態を描いているわけではなく、まるで動物のように厳しい残酷な現実に淘汰されてしまう姿を描きながら、その中でもがき苦しみ、時には喜びを見出し、幸せを感じ、と同時に残酷な現実に涙を流する人間の喜怒哀楽のエモーションを中心に捉えて描いている。
中々有りそうで無いタイプの異色の佳作な一篇。
2025/01/04(土) 15:31:38 東宝 トラックバック:0 コメント(-)
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