2010.
03.
22
冒頭からちょっと意地悪な感じがして、面白かった。
仕事場のセットつくるらしいから、小道具はぜんぶ自分で持ってきたのよね、という冒頭シーン。机のなかの小道具を自前で用意するあたりから、富野のこだわりがみえて楽しい。以前、松田優作がTVの刑事ドラマで自分の机の小道具が何の考えもなく設置されているのをみて激怒したというエピソードを思い出した。そのあたり、やっぱり発想が映画の人なんだなーと。
ところがTVスタッフは、つくりものをつくる富野、という絵を撮ってしまうわけだw。これが面白かった。意地悪だなーと思うと同時に、いわゆる「ヤラセ」とは逆の発想で、へーTVの人はこういうこともするんだなーと感心もした。
親父さんがもっていたカメラを大事そうに取り出して説明する富野、親父さんが開発したという「宇宙服」(与圧服)の写真を誇らしげにみせる富野。
一方で肝心のお袋さんの話はぜんぜん出てこない。せいぜいポマードをつけた小学生というくだりで、お袋の仕業じゃないか、と口にするだけ。
そのあたりが、「おいいい」と身悶えしそうになった。
しかし少年時代の再現ドラマで、そのあたりの、富野少年のなかのお袋さんの位置づけが描かれて、たいへん満足である。さすがNHK。
富野少年の誇り、親父さん。親父さんの手伝いができるという喜び。チビと女を遠ざけた男の世界での手伝いだ。しかしその聖域を土足で踏みにじる女がいる。お袋さんだ。「喜幸ちゃんは明日学校なのよー」。翌日か写真をメチャクチャにされてフテる親父さん。この流れがよかったね。
富野ワールドでもっとも興味深いのは、富野のマザコンっぷりである。若い亡母への思慕から女性全般を崇拝し女性たちとのロマンスを繰り返すタイプの、エンタメ主人公にありがちなマザコンではない。もちろん『ブレンパワード』で描かれたジョナサン的な、女性的なマザコンでもない。あるいは母親によって去勢された昔懐かしの冬彦さん的なマザコンでもない。富野のそれは誰しもが一度は通過する、中学生男子的な、「うっぜーんだよ、くそババア」的なマザコンである。
しかし富野の場合、その中学生男子的な「うっぜーんだよ、くそババア」的なマザコンが、中年以降になっても(少なくとも作家論レベルでは)持続した、というのが興味深いのだ。
どんだけ“強烈な”お袋さんだったんだろうな、と以前から気になっていたのである。今回、この番組では、さすがにキャラクター性に触れることはなかったが、関係性における富野ママンの有り様を描いてくれて、俺としてはじゅぶん楽しめた。
そのほかのエピソードも、興味深いものばかりだ。
小田原に郷土愛を感じていなかった、というのは、意外だった。小田原は関東の武士たちの中心地のひとつだった地だ。
俺のみるところ、富野ワールドにはあきらかに一所懸命を尊ぶ関東武士の独立精神が息づいている。これを俺は小田原の産土神の影響だと思っていたのである。
未読だが、橋本治が『ガンダム』を「任侠ヤクザと腐敗警察の戦い」と捉えた本があるらしい。しかし、俺にいわせば、富野ワールドは、むしろ関東武士の世界観である。ヤクザではない、サムライだ。
俺のヘンテコ史観wによれば、「ヤクザと官軍」の二分法は、中国大陸から西日本までの文化圏の話だ。熊本出身の尾田栄一郎が描く『ワンピース』が中国学者マルセル・グラネの話にピタリと一致するのはそういう理由がある。「任侠ヤクザvs腐敗警察」では水滸伝だし『ワンピース』だ。橋本治は東京人だが教養人すぎて文字文明の重力に囚われているのだろう。
ユーラシアから東日本までは自主独立を尊ぶ文化圏だ。「地方豪族(サムライ)と中央政権(朝廷)」の二分法である。西日本の戦士文化がヤクザ(任侠)なら、東日本の戦士文化はサムライなのだ。武装商人と武装農民の差だ。ぜんぜん違う。生存圏を守護するために戦う富野ワールドの戦士たちは、敵も味方もサムライだ。
……という俺のヘンテコ解釈もあって、小田原出身という自意識はない、東京にいつか帰るという意識があった、というのは、俺にはほんとうに意外だった。いや東京は別にいいけどもさ、小田原はそんな嫌わなくても……と思った。
アニメ『リーンの翼』では、日本人の主人公が異世界で建国した王国の名は「ホージョー」になっている。「ホージョー」が北条であれば、小田原だ。これは矛盾か、そうでもないのか。このあたりは、東京土人の俺にはちょっとわからない感覚なのかもしれない。
幼き日の富野少年には友達があんまりいなかったのか、というのも、なるほど、という感じである。
富野ワールドでは、主人公の若者に友達がいない、というのが特徴である。俺のお気に入りの『F91』は富野が富野ワールドの偏向性をできるだけ抑制したところに魅力があるので主人公には珍しく友達がいるw。しかし小説版を読むと友達というのとは少し違っていて「あれれ」と思っていたのである。映画版の印象と違って主人公が友達のいない内向的な趣味人みたく描かれていて「いつもの富野主人公」に近かったのだ。小説版は富野ワールドの偏向性を抑制しきれていない。
「いつもの富野主人公」というのが、時代の要請とか、アニメファンの鏡像とか、そういうことじゃないんだな、と今回の番組で理解できた。本人じゃねーか。
風呂の薪を削ってつくった、という飛行機のフィギュアは、ビックリするような出来で、趣味人としてハンパなかったんだなーと思った。なんかジオラマ?風の写真まで撮っているし。どんだけ筋金入り。
飛行機への偏愛も、富野のロボットアニメが結局ガンダムに収斂していくことを暗示している。ガンダムは飛行機、イデオンは戦艦、ウォーカーマシンは自動車なのだ。しかし『聖戦士ダンバイン』以降、富野は結局ガンダムモドキを量産するしかなくなる。手癖ということもある。しかしネタの尽きたロボットアニメの仕事しかやらせてもらえない富野だとしたら、仕事を仕事以上のものにするモチベーションのひとつがあるいは“飛行機の夢”だったのかもしれない。そんなことを考えさせられた。
少年時代の再現ドラマのその後もせつない。
勉強もだめ、運動もだめ、そして唯一のプライドだった絵もだめ、となっていくあたりは、富野ドラマ的な苦さだ。
そのなかで、月世界旅行の研究レポートを発表するくだりで、ちょっと救われるのは、この番組スタッフの構成力の凄さか。
富野少年の宇宙への憧れが、SF映画やSFマンガ、SF小説経由ではなかった、つまりSFジャンルからの影響はゼロだった、というのも面白かった。後年の「ガンダムはSFじゃない」という話に繋がっていく大事な傍証だろう。
番組の最後は川原でペットボトルロケットを打ち上げて、「どうなのこれ」的な顔をしている富野で締められた。この「どうなのこれ」的な中途半端さを撮るTVスタッフは意地悪だし優秀だなーと思った。ひどいよね。富野監督はキメたいヒトなのにさー、とニヤニヤした。
富野の「母なるもの」をめぐるフクザツな心象風景ということでいえば、「ニュータイプ論」的希望にバランスさせる「生殖論」的地べた感覚を描くことへの逡巡である。
「あなたの子供をうみたい」とヒロインが言うような作品にできないか、というのが、『ガンダム』における富野メモの一節である。ジュブナイルを超克するためにも必要だったし、超人類だの戦争だのといういかにも男性原理的な世界観へのカウンターとしても必要だったろう。
しかし「うみたい」であって、「うむ」というところまでいかないのは、やっぱり何かひっかりがあったんだろうかな、と、この番組を観ていて気づいた点だ。
アニメにくらべれば、より自由に描けたはずの小説版『ガンダム』であっても、その部分までは踏み込んで描いてない。出産どころか妊娠までいかない。
これはなんでだろうな、というのが、以前から不思議であったのだ。(アニメであっても『地球へ』ですでにそのあたりは描かれているのに……といっても監督は実写の人か……)
『イデオン』で妊娠まで描くのだが、今度は出産までいかない。『イデオン』では、その妊娠したヒロインが、姉の女戦士に殺される。
女狩人(女戦士)アルテミス型のヒロイン元型は、「母の巣」から飛び立とうとする「少年」にとっての、理想の女性である、という説がある。
「少年」主観では対比的な「母なるもの」と「アルテミス」が、『イデオン』では実際に対立し、アルテミスが母なるものを殺す、という解釈もできるわけだ。
「母なるもの」と「アルテミス」の対立は、『V』でも描かれる。「母なるもの」の狂気への抵抗が基本テーマだが、そのテーマへのカウンターとしてか、「アルテミス」の狂気も描かれる。
「少年」未満の「子供」ヒーローには、狂った母性原理とは別の、より良き「母なるもの」の守護者たちがいるのだが、その彼女たちを、狂った「アルテミス」が殺しまくる、という作品だ。
しかし『V』では、「母なるもの」の中心人物は生き残り出産まで描かれる。また子供ヒーローは対称的な子供ヒロインと平和に過ごすことになる……わりと健全なのだ。
やはり“『F91』以前以後”で富野ワールドは変化しているように思う。
『ターンエー』にいたって、やっと「母なるもの」と「アルテミス」の対比が完全に姿を消す。富野が「少年」でなくなった、ということだろうw。
女性声優が演じたロランと老いてなお美しいディアナの「余生」で終幕する『ターンエー』には、子供ヒーローと子供ヒロインが平和に過ごす『V』のラストの残響が聴こえるような気がした。
仕事場のセットつくるらしいから、小道具はぜんぶ自分で持ってきたのよね、という冒頭シーン。机のなかの小道具を自前で用意するあたりから、富野のこだわりがみえて楽しい。以前、松田優作がTVの刑事ドラマで自分の机の小道具が何の考えもなく設置されているのをみて激怒したというエピソードを思い出した。そのあたり、やっぱり発想が映画の人なんだなーと。
ところがTVスタッフは、つくりものをつくる富野、という絵を撮ってしまうわけだw。これが面白かった。意地悪だなーと思うと同時に、いわゆる「ヤラセ」とは逆の発想で、へーTVの人はこういうこともするんだなーと感心もした。
親父さんがもっていたカメラを大事そうに取り出して説明する富野、親父さんが開発したという「宇宙服」(与圧服)の写真を誇らしげにみせる富野。
一方で肝心のお袋さんの話はぜんぜん出てこない。せいぜいポマードをつけた小学生というくだりで、お袋の仕業じゃないか、と口にするだけ。
そのあたりが、「おいいい」と身悶えしそうになった。
しかし少年時代の再現ドラマで、そのあたりの、富野少年のなかのお袋さんの位置づけが描かれて、たいへん満足である。さすがNHK。
富野少年の誇り、親父さん。親父さんの手伝いができるという喜び。チビと女を遠ざけた男の世界での手伝いだ。しかしその聖域を土足で踏みにじる女がいる。お袋さんだ。「喜幸ちゃんは明日学校なのよー」。翌日か写真をメチャクチャにされてフテる親父さん。この流れがよかったね。
富野ワールドでもっとも興味深いのは、富野のマザコンっぷりである。若い亡母への思慕から女性全般を崇拝し女性たちとのロマンスを繰り返すタイプの、エンタメ主人公にありがちなマザコンではない。もちろん『ブレンパワード』で描かれたジョナサン的な、女性的なマザコンでもない。あるいは母親によって去勢された昔懐かしの冬彦さん的なマザコンでもない。富野のそれは誰しもが一度は通過する、中学生男子的な、「うっぜーんだよ、くそババア」的なマザコンである。
しかし富野の場合、その中学生男子的な「うっぜーんだよ、くそババア」的なマザコンが、中年以降になっても(少なくとも作家論レベルでは)持続した、というのが興味深いのだ。
どんだけ“強烈な”お袋さんだったんだろうな、と以前から気になっていたのである。今回、この番組では、さすがにキャラクター性に触れることはなかったが、関係性における富野ママンの有り様を描いてくれて、俺としてはじゅぶん楽しめた。
そのほかのエピソードも、興味深いものばかりだ。
小田原に郷土愛を感じていなかった、というのは、意外だった。小田原は関東の武士たちの中心地のひとつだった地だ。
俺のみるところ、富野ワールドにはあきらかに一所懸命を尊ぶ関東武士の独立精神が息づいている。これを俺は小田原の産土神の影響だと思っていたのである。
未読だが、橋本治が『ガンダム』を「任侠ヤクザと腐敗警察の戦い」と捉えた本があるらしい。しかし、俺にいわせば、富野ワールドは、むしろ関東武士の世界観である。ヤクザではない、サムライだ。
俺のヘンテコ史観wによれば、「ヤクザと官軍」の二分法は、中国大陸から西日本までの文化圏の話だ。熊本出身の尾田栄一郎が描く『ワンピース』が中国学者マルセル・グラネの話にピタリと一致するのはそういう理由がある。「任侠ヤクザvs腐敗警察」では水滸伝だし『ワンピース』だ。橋本治は東京人だが教養人すぎて文字文明の重力に囚われているのだろう。
ユーラシアから東日本までは自主独立を尊ぶ文化圏だ。「地方豪族(サムライ)と中央政権(朝廷)」の二分法である。西日本の戦士文化がヤクザ(任侠)なら、東日本の戦士文化はサムライなのだ。武装商人と武装農民の差だ。ぜんぜん違う。生存圏を守護するために戦う富野ワールドの戦士たちは、敵も味方もサムライだ。
……という俺のヘンテコ解釈もあって、小田原出身という自意識はない、東京にいつか帰るという意識があった、というのは、俺にはほんとうに意外だった。いや東京は別にいいけどもさ、小田原はそんな嫌わなくても……と思った。
アニメ『リーンの翼』では、日本人の主人公が異世界で建国した王国の名は「ホージョー」になっている。「ホージョー」が北条であれば、小田原だ。これは矛盾か、そうでもないのか。このあたりは、東京土人の俺にはちょっとわからない感覚なのかもしれない。
幼き日の富野少年には友達があんまりいなかったのか、というのも、なるほど、という感じである。
富野ワールドでは、主人公の若者に友達がいない、というのが特徴である。俺のお気に入りの『F91』は富野が富野ワールドの偏向性をできるだけ抑制したところに魅力があるので主人公には珍しく友達がいるw。しかし小説版を読むと友達というのとは少し違っていて「あれれ」と思っていたのである。映画版の印象と違って主人公が友達のいない内向的な趣味人みたく描かれていて「いつもの富野主人公」に近かったのだ。小説版は富野ワールドの偏向性を抑制しきれていない。
「いつもの富野主人公」というのが、時代の要請とか、アニメファンの鏡像とか、そういうことじゃないんだな、と今回の番組で理解できた。本人じゃねーか。
風呂の薪を削ってつくった、という飛行機のフィギュアは、ビックリするような出来で、趣味人としてハンパなかったんだなーと思った。なんかジオラマ?風の写真まで撮っているし。どんだけ筋金入り。
飛行機への偏愛も、富野のロボットアニメが結局ガンダムに収斂していくことを暗示している。ガンダムは飛行機、イデオンは戦艦、ウォーカーマシンは自動車なのだ。しかし『聖戦士ダンバイン』以降、富野は結局ガンダムモドキを量産するしかなくなる。手癖ということもある。しかしネタの尽きたロボットアニメの仕事しかやらせてもらえない富野だとしたら、仕事を仕事以上のものにするモチベーションのひとつがあるいは“飛行機の夢”だったのかもしれない。そんなことを考えさせられた。
少年時代の再現ドラマのその後もせつない。
勉強もだめ、運動もだめ、そして唯一のプライドだった絵もだめ、となっていくあたりは、富野ドラマ的な苦さだ。
そのなかで、月世界旅行の研究レポートを発表するくだりで、ちょっと救われるのは、この番組スタッフの構成力の凄さか。
富野少年の宇宙への憧れが、SF映画やSFマンガ、SF小説経由ではなかった、つまりSFジャンルからの影響はゼロだった、というのも面白かった。後年の「ガンダムはSFじゃない」という話に繋がっていく大事な傍証だろう。
番組の最後は川原でペットボトルロケットを打ち上げて、「どうなのこれ」的な顔をしている富野で締められた。この「どうなのこれ」的な中途半端さを撮るTVスタッフは意地悪だし優秀だなーと思った。ひどいよね。富野監督はキメたいヒトなのにさー、とニヤニヤした。
富野の「母なるもの」をめぐるフクザツな心象風景ということでいえば、「ニュータイプ論」的希望にバランスさせる「生殖論」的地べた感覚を描くことへの逡巡である。
「あなたの子供をうみたい」とヒロインが言うような作品にできないか、というのが、『ガンダム』における富野メモの一節である。ジュブナイルを超克するためにも必要だったし、超人類だの戦争だのといういかにも男性原理的な世界観へのカウンターとしても必要だったろう。
しかし「うみたい」であって、「うむ」というところまでいかないのは、やっぱり何かひっかりがあったんだろうかな、と、この番組を観ていて気づいた点だ。
アニメにくらべれば、より自由に描けたはずの小説版『ガンダム』であっても、その部分までは踏み込んで描いてない。出産どころか妊娠までいかない。
これはなんでだろうな、というのが、以前から不思議であったのだ。(アニメであっても『地球へ』ですでにそのあたりは描かれているのに……といっても監督は実写の人か……)
『イデオン』で妊娠まで描くのだが、今度は出産までいかない。『イデオン』では、その妊娠したヒロインが、姉の女戦士に殺される。
女狩人(女戦士)アルテミス型のヒロイン元型は、「母の巣」から飛び立とうとする「少年」にとっての、理想の女性である、という説がある。
「少年」主観では対比的な「母なるもの」と「アルテミス」が、『イデオン』では実際に対立し、アルテミスが母なるものを殺す、という解釈もできるわけだ。
「母なるもの」と「アルテミス」の対立は、『V』でも描かれる。「母なるもの」の狂気への抵抗が基本テーマだが、そのテーマへのカウンターとしてか、「アルテミス」の狂気も描かれる。
「少年」未満の「子供」ヒーローには、狂った母性原理とは別の、より良き「母なるもの」の守護者たちがいるのだが、その彼女たちを、狂った「アルテミス」が殺しまくる、という作品だ。
しかし『V』では、「母なるもの」の中心人物は生き残り出産まで描かれる。また子供ヒーローは対称的な子供ヒロインと平和に過ごすことになる……わりと健全なのだ。
やはり“『F91』以前以後”で富野ワールドは変化しているように思う。
『ターンエー』にいたって、やっと「母なるもの」と「アルテミス」の対比が完全に姿を消す。富野が「少年」でなくなった、ということだろうw。
女性声優が演じたロランと老いてなお美しいディアナの「余生」で終幕する『ターンエー』には、子供ヒーローと子供ヒロインが平和に過ごす『V』のラストの残響が聴こえるような気がした。
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同年代不在という点では
やはり『Z』のカミーユという感じですね。
一応当初の予定では空手部の仲間も合流するはずだったみたいですが、結果的にはファ一人に押さえられる。
ただしだからこそ「二人の長き旅」というのも強調されるわけで、それは48話で特に鮮明と。
一応当初の予定では空手部の仲間も合流するはずだったみたいですが、結果的にはファ一人に押さえられる。
ただしだからこそ「二人の長き旅」というのも強調されるわけで、それは48話で特に鮮明と。
Re: 同年代不在という点では
コメント、ありがとうございます。
>一応当初の予定では空手部の仲間も合流するはずだったみたいですが、結果的にはファ一人に押さえられる。
まったく知りませんでした。そうしたプランもあったんですね。面白い。
「二人の長き旅」という表現はロマンティックでいいですね。ファが実在していたら喜びそうです(笑)。
>一応当初の予定では空手部の仲間も合流するはずだったみたいですが、結果的にはファ一人に押さえられる。
まったく知りませんでした。そうしたプランもあったんですね。面白い。
「二人の長き旅」という表現はロマンティックでいいですね。ファが実在していたら喜びそうです(笑)。
二人の旅
最初はファの方が必死に追っていたのがいつの間にかという感じですね。
「二人が共に走る」という図式で「二年」に渡るドラマを完結させたのもポイントでしたが。
「二人が共に走る」という図式で「二年」に渡るドラマを完結させたのもポイントでしたが。
Re: 二人の旅
コメント、ありがとうございます。
「追いかける」といっても並大抵のことではありませんよね。モビルスーツのパイロットになってまで……ですからね。
フラウ・ボゥとは違うところです。
このあたりの“ど根性”ヒロインは『G-レコ』のマニィにつながっていく感じでしょうか。
『ΖΖ』でカミーユの介護をするために戦線を離脱するところまで「追いかける」わけですから、その健気さにホロリときます。
新訳のハッピーエンドもいいんですが、やはり 『ΖΖ』の「どこまでもカミーユ優先」のファがみられないのは残念です。
「二人」からはじまり「二人」で終わる、というのは考えてみれば凄いロマンティスムですね。
「追いかける」といっても並大抵のことではありませんよね。モビルスーツのパイロットになってまで……ですからね。
フラウ・ボゥとは違うところです。
このあたりの“ど根性”ヒロインは『G-レコ』のマニィにつながっていく感じでしょうか。
『ΖΖ』でカミーユの介護をするために戦線を離脱するところまで「追いかける」わけですから、その健気さにホロリときます。
新訳のハッピーエンドもいいんですが、やはり 『ΖΖ』の「どこまでもカミーユ優先」のファがみられないのは残念です。
「二人」からはじまり「二人」で終わる、というのは考えてみれば凄いロマンティスムですね。
ロランについては
自分も関わった『リボンの騎士』の影響もありそうですね。
特に「ローラ」の設定なんか、まさに「亜麻色の髪の乙女」で。
特に「ローラ」の設定なんか、まさに「亜麻色の髪の乙女」で。
Re: ロランについては
コメント、ありがとうございます。
なるほど、『リボンの騎士』ですか。懐かしい。
女性声優を起用して中性的なところを狙ったんでしょうか。
ローラに関しては、男女逆ですが、異性装という点で同じですもんね。
まあローラの場合バレバレなわけですが。
なるほど、『リボンの騎士』ですか。懐かしい。
女性声優を起用して中性的なところを狙ったんでしょうか。
ローラに関しては、男女逆ですが、異性装という点で同じですもんね。
まあローラの場合バレバレなわけですが。
富野監督となれば
やはり師匠筋に当たる手塚氏からの影響は外せませんよね。
アムロとシャアなんか、まさに「ケンイチとロック」ですし。
あと「異世界への召喚」である『ダンバイン』については『ノーマン』を思わせる物もあります。
アムロとシャアなんか、まさに「ケンイチとロック」ですし。
あと「異世界への召喚」である『ダンバイン』については『ノーマン』を思わせる物もあります。
Re: 富野監督となれば
コメント、ありがとうございます。
手塚治虫の影響大というのはその通りだと思います。
ただ、どのあたりまで、どのように、といった点で人それぞれ取りようがあるんでしょうね。
アムロとシャアに「ケンイチとロック」を視るのも、異世界召喚もののなかに『ノーマン』を視るのも、面白い見かただと思いました。
俺の見かただと、富野シャアはケンイチ寄り、安彦シャアがロック寄り、といったところでしょうか。
『聖戦士ダンバイン』はあれはもう完全に高千穂遙の『異世界の勇士』じゃないかなと思っています。
手塚治虫の影響大というのはその通りだと思います。
ただ、どのあたりまで、どのように、といった点で人それぞれ取りようがあるんでしょうね。
アムロとシャアに「ケンイチとロック」を視るのも、異世界召喚もののなかに『ノーマン』を視るのも、面白い見かただと思いました。
俺の見かただと、富野シャアはケンイチ寄り、安彦シャアがロック寄り、といったところでしょうか。
『聖戦士ダンバイン』はあれはもう完全に高千穂遙の『異世界の勇士』じゃないかなと思っています。
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