あたらしい比喩をつくるように

わかった気になる――反差別の手立てとしてのアート鑑賞

羽生結弦、其は「時代の子」

scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)

第3回 「オタク差別」とは何か?──「オタク」概念を整理する

「女が差別されている」「いや、男の方がつらい」などと、今日もネットではバトルが繰り広げられている。統計的事実からすれば、どちらの主張も可能であるにもかかわらず、お互いに攻撃し合い、対立の度合いを深めていく泥沼とも言える事態が生じているのが現在だ。かようにネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ね、対立図式からの脱却を目指す新連載。その方法論となる「男性学2.0」とはいかなる理論か。女性・男性問わず読んでいただきたい考察。

狭義の「オタク差別」と、広義の「オタク差別」

前回の記事がきっかけになり、「オタク差別」が、Xのトレンドにランクインするほどの大きな議論になった。今回は「オタク差別」でタイムラインを検索し数千のポストを参照した上で、「オタク差別」について、それは何なのかを掘り下げて考えていくことにしたい。

誤解を避けるために言っておくと、前回の記事で「オタク差別は存在しない」と表現したのは、現在の制度的あるいは通念となっている(女性差別や民族差別や障害者差別などのような)「差別」と同じ水準の「差別」として、「オタク差別」を扱うのは難しいという意味である。ネットでは「オタク差別」について、民族や女性への差別を持ち出し、なぜ同じように扱われないのかと疑問を呈する者がいるが、「オタク」とそれらは性質も違うし、歴史的経緯もまったく違うので、同じようには扱われないのは当然である。「オタク差別」が未来において存在を認められて制度化される可能性を筆者は否定しないし、運動をすることも否定しないが(従属的男性性の代表である、ゲイの地位獲得運動のように)、現時点では狭義の「差別」として扱われることは困難であることは否定できない。

だが、ネットの人々が通俗的な意味で言う「オタク差別」、つまり、宮﨑勤事件の時の報道や、ある特定の趣味や性質を持つ人々へのネガティヴな言動が存在したこと、それがマスメディアなどのレベルであったことや、それに影響された人々が様々なからかいやイジメや迫害をしたことについても、否定しようとは思わない。

これらを分けて考えるため、「狭義のオタク差別」と「広義のオタク差別」を分けて考えることを本論では行う。現在の差別概念において制度的救済は得られないが、日常的な言語の感覚において「差別」もしくは「差別的」に感じられてきたものを「広義のオタク差別」と呼び、必要があれば「オタク差別(広)」などと記述する。

実際、広義の意味での「オタク差別」という表現を、宮台真司や大塚英志、田中俊之らも用いてきている。今回は、それらの用語法を確認しながら、それは狭義の差別なのか、「オタク差別」という言葉で認識するのは果たして正しいのか、別の概念で説明できるとしたら何なのか、を考えたいのだ。

この場合、二つの定義を考えなくてはいけない。「オタク」と「差別」についてである。現在の制度的な意味で理解される「差別」については前回確認したので、今回は「オタク」について、概念史的なアプローチをしていきたい。

寄せられた意見の中には、「オタク差別」と言う場合の「オタク」を「アニメ・マンガ・ゲームを趣味とする人たち」「二次元を性愛とする人たち」「弱者男性」「チー牛」「発達障害」に限定する意見があったが、「オタク」という概念はそれとイコールではなく、どのような集団なのかの輪郭がどれほど描きにくいのかを本論では説明していこうと思う。

そして、寄せられた「オタク差別」についての意見を参考に、「オタク」概念を細分化し、「自己言及としてのオタク」「テイストとしてのオタク」「セクシャリティとしてのオタク」「侮蔑語としてのオタク」「憧れとしてのオタク」「普通の趣味としてのオタク」「シリコンバレーの適者としてのオタク」「適応の方法論としてのオタク」などと切り分けをしていく。その整理をした方が、話がクリアになっていき、問題のコアが切り出されていくことになり、解決や対処の可能性が上がると思われるからだ。

中森明夫「『おたく』の研究」

「おたく」という言葉を、ある集団を指す言葉として最初に活字上で定義したのは、中森明夫である。『漫画ブリッコ』(1983年6月号)「『おたく』の研究」でそれは定義された(ひらがなの「おたく」とカタカナの「オタク」の区別を重視する大塚英志の議論があるが、本論ではその区別は曖昧なままにしておく)。

中森は、「コミケット」に集まっている、「一万人以上もの少年少女」の「異様さ」に言及する(少女も含んでいることに注意して欲しい。「おたく」から女性が排除されているという議論があるが、その言葉の始まりにおいては、女性は確実に含まれていた)。そこで真っ先に「おたく」に指摘される性質は、ファッションと容姿である。そして、「おたく」と呼ばれる人々の趣味の対象は、アニメやマンガだけではない。映画、鉄道、SF、コンピュータ、アイドルのファン、オーディオマニア、理系少年、ガリベンなどが対象である。そして「我々は彼らを『おたく』と命名し、以後そう呼び伝えることにしたのだ」と言う。

映画、電車、SF小説、コンピュータ、理系、アイドルファン、ガリベン、オーディオマニアが「おたく」を構成している。つまり、マンガやアニメやゲームのファンのみで「おたく」を定義することは、この始まりから鑑みて、難しいだろうと思う。そして、連載第一回においては、「二次元への性愛」が「おたく」の中心ではないことがはっきり分かる。

性とジェンダーの要素が前景化するのは、連載二回目(1983年7月号)である。「男性的能力が欠除」し、「成熟した女のヌード写真なんか絶対受けつけない」、モテない、二次元への性愛というセクシャリティの要素が強調される。そして「妙におカマっぽい」「二十歳越えた大の男が」と、覇権的男性性ではないということ、未成熟であることが指摘される。そして「『おたく』は『おたくおんな』と結婚して『おたくこども』を生む」と閉じられており、「おたくおんな」という形であれ、オタクの女性もいることははっきりと指摘されている(☆1)。

この連載に対し、それが「身体障害者」に対する差別に近いものだという読者からの投書も来くる。編集者だった大塚英志も、中森の文章について「これほどあからさまに差別することを目的として作られた<差別用語>も珍らしいと思います」(1984年6月号、読者投稿欄)と言っている。大塚の見解によると、「おたく」という言葉は、最初から(広義の)差別をすることを目的として作られた「差別用語」だと言う。

「自己言及としてのオタク」──「オタク差別」=「オタクの階級闘争」説

この「オタク差別(広)」は、どのような意味なのだろうか。それを、「オタクの階級闘争」であると解釈する説がある。

中森明夫は、当時「新人類」と呼ばれていた。「新人類」vs「オタク」という構図が当時存在していたのだ。新人類は、オシャレでナンパでクラブに行っていて、知的で先進的、みたいなニュアンスの人々である。新人類もオタクも、全共闘時代が終わり、連合赤軍事件を経て政治的な熱狂や社会の目的地を失った「シラケ世代」において、消費に「生の意味」を見出そうとした人々である。その大きな違いは、ファッションとコミュニケーション能力であるとされてきた。中森の「『おたく』の研究」が、ファッションへの揶揄から始まっているのも、そのためであろう。

浅羽通明は『おたくの本』(1989)に「高度消費社会に浮遊する天使たち」として発表し、後に「『おたく』という現象」に解題し『天使の王国』(1997)に収録した文章で、こう述べている。「『おたく』の語は彼ら新人類によって使われ、彼らの間でこそ流布したのである」それは、「彼らが『おたく』に近い場所で生きていたこと、あるいは、彼ら自身が『おたく』だったことを意味する」(p223)と述べている。

これは、「おたく」の命名者である中森明夫がアイドル評論家であることを踏まえている。中森自身も、相手を「おたく」と呼ぶ人間が「おたく」であると定義しつつ、第一回の末尾で「ところでおたく、『おたく』?」と書き、自身が「おたく」であることをアイロニカルに示しているわけであり、新人類的な自己批評、メタゲーム、アイロニー、自虐という要素がこの文章には強い(☆2)。そうすると、確かに「差別的」ではあるのだが、新人類というイケてる人々が「おたく」を単に侮蔑し差別しているのではなく、自虐や自己批判の要素を含むということになる。「おたく」という概念には、その始まりから、そのような性質が内在しており、折に触れて現れる傾向がある(他の集団、たとえばヤンキー、ギャル、暴走族などと比較すれば、自分たちのカテゴリーについて悩み、文章や理論を残したり、その自問自答自体がコンテンツとして成立する率が圧倒的に高いことが分かるはずだ)。

そして、その「感的知性派=新人類と、内向的モラトリアム派=『おたく』とが、未分化だった時代があった」(p224)、それは七〇年代半ばから八〇年代の初めの頃だと浅羽は書く。これらの議論を踏まえた上で、宮台真司は、新人類とおたくは、当初は一体のものだったが、「対人関係が得意な人間/不得意な人間」という「人格類型」と重ね合わされるようになったと述べている。宮台の考えでは「オタク文化のリーダー部分(つまり新人類的でもある部分)によるフォロワー部分への差異化の試みがなされたのが『オタク差別』」(『制服少女たちの選択』)であり、「オタクの階級闘争」なのだとされる。

大泉実成は『オタクとは何か?』の中で、大塚と中森の対談に触れて、「差別に対して敏感な大塚」ですら、「真のおたく」「真のロリコン」という言葉を使っており、そこに「『オタク内差別』が露呈した」(p250)と書いている。おたくがおたくを差別する、とは、どういうことか。それは差別と言うより宮台の言う階級闘争が比喩として近く、実際は卓越化の競争と解釈するべきだろう。詳細は、次節で論じる。

浅羽は、「おたく」は、学校化社会へと世の中が変わっていった(筆者の言い方では、社会のシステム化が進んだ)ことによって生まれたのだとしている。原っぱで遊ぶのではなく、整然とした都市を前提として生まれ育つような存在というイメージである。「『おたく』は『おたく』自身の姿をも俯瞰し、パロディ化する。ロリコン青年を嘲笑するマンガを掲載した同人誌は多い。ほかならぬ『おたく』であった中森明夫によってネーミングされた『おたく』という言葉自体、差別語というよりも自嘲語だったのではないか? 彼らは自嘲により、自分だけは自覚できている➡最悪の『おたく』ではない、という安心を得るために使った。『おたく』は『おたく』としての当事者性さえも引き受けようとしない。いつでもどこでも当事者とはならない傍観者である彼らは、認識するのみであるから傷つかず、経験せず、成長しない」(p252)。

この、当事者性や、社会への埋め込まれを等閑視する俯瞰的目線との一体化を浅羽は「おたく」の特徴として挙げるが、スチュアート・ブランド『ホールアースカタログ』や浅田彰『構造と力』などにおいてカタログ・チャート式文化が発展しており、それは「おたく」だけの特徴ではなく、同時代の若者文化の共通の特徴だろう(だから新人類とおたくが未分化だった時代を浅羽は指摘している)。さらにそれを「近代的インテリの原型」(p252)とし、浅羽は夏目漱石『それから』を例に挙げている。

「自己言及としてのオタク」は、オタク当事者たちによるオタク論の基本的な態度になっていく(「自己言及」ではないオタク論としては、マーケッターたちによる分析がある)。男性による男性の内省の学としての男性学に比して言えば、「オタク学」の当事者研究的な側面がある。これらの論は、宮﨑勤の連続幼女殺害事件やオウム真理教事件に衝撃を受け、自分と犯人が同じ「オタク」であることを認めた上で、「差異」を見出そうとする、オタクとはどういうものでどうあればいいのかという倫理を探ろうとする傾向がある。犯罪者たちとの連続性を認めた上で、同じであると開き直ると犯罪者になってしまうので、差異を見出そうとする必要はどうしても出てきて、ある種の序列のようなもの、倫理的な判断がくだされがちな傾向もどうしても出てくるのである(大塚英志、中島梓、大泉実成、竹熊健太郎らの議論が典型であり、クリエイターとしては、庵野秀明、幾原邦彦らにその要素を感じる)。

「テイストとしてのオタク」──卓越化・差異化の象徴闘争として

少し話を戻し、宮台の言う「階級闘争」について、もう少し細かく考えてみたい。ここでは「テイストとしてのオタク」という概念を使おうと思う。テイストとは、「趣味」のことである。だが、「趣味」というと、選択が容易なホビーと誤解される傾向があるので、ここではテイストと呼ぶことにした。テイストとは、ある階級や階層などと深く結びついた嗜好のことである。上流階級であれば高級な料理を好むが、下層階級であればファストフード、上流階級はクラシックやオペラを嗜むが、下層階級はパブで歌って騒ぐ、という風に、階級の上下によって好む文化が違うというのは、直感的に理解されると思う。

ピエール・ブルデューは『ディスタンクシオン』で、階級とテイストの深い結びつきを論じているが、オタク文化も大衆文化であるから、高級文化の視線からの見下しが起こることがあるのだ。それは、階級や身分という概念が流動化によって機能しにくくなった時代における、階級差別・身分差別の残滓のような側面がある。宮台が「オタクの階級闘争」と言っている際の含意は、この意味での「階級」であろう(オタクは「階級」「民族」「宗教」などと呼ばれるが、それはあくまで比喩であり、どれにも当てはまらない)。

「ディスタンクシオン」は、元々は「差別」の意味を持つのでややこしいのだが、一般的には「卓越化」と訳される。卓越化とは、自分と他の人々を区別し、いかに自分たちが素晴らしいか、優れているか、正統であるかを誇示し、認めさせようとする社会的な闘争・ゲームのようなものである。高級ホテルや、高級ブランドの服などに、私たちは権威を感じたり、尻込みをしたりするが、そこではこの「卓越」が意識されているのである。そして「好き嫌い」や「趣味」の優劣を巡る闘争を「象徴闘争」と呼ぶ。これは「階級差別」「身分差別」と構造的に似ている側面は確かにあるのだが、これは狭義の差別ではなく、「卓越化」「象徴闘争」と呼ぶ方が正しい(「ホス狂」「パチンカス」「珍走団」などの呼称も、ある文化に属する人々の象徴を低下させる闘争であり、「自分たちはそれと違う」という卓越化である)。

同世代においては「新人類」「オタク」、後には「サブカル」「オタク」という形で差異と卓越化のための象徴闘争が行われる。さらに、世代間における象徴闘争も存在している。かつてロックが上の世代に「悪魔の音楽」と呼ばれたのと同じように、世代による「象徴闘争」が存在しており、「文学」など、旧来の教養の象徴とされてきたジャンルの愛好者からの見下しについては、世代間の象徴闘争(文化的な覇権争い)だと理解することができる。

「おたく」の中でも、さらに卓越化と象徴闘争は起こり続ける。例えば、今回の「オタク差別」についてXでの議論の中で「鉄オタは仕方ない」などという意見を少なからず見たが、それは「鉄オタ」というカテゴリを創出し、「オタク」という集団の中でミクロに卓越化と差異化を起こしていることの証拠である。そして、オタク論の多くは、既に述べたように、宮﨑勤やオウム真理教と自分の連続性を「オタク」性に発見した上で、差異化しようとする傾向がある。クリエイティヴで能動的なオタクと、消費者的で消極的なオタクの差異についても、八〇年代には既に議論されていた。それを「オタク差別」と呼ぶと、「オタクによるオタク差別」という同語反復になってしまい、意味が不明瞭になる。だから、それはテイストによる「卓越化」「差異化」「象徴闘争」であると理解するのが適切ではないかと思われる(☆3)(☆4)。

「セクシャリティとしてのオタク」──従属的男性性・女性性として

田中俊之は『男性学の新展開』の中で、そのような「卓越」を巡るゲームの側面を認めた上で、セクシャリティと男性性の問題ではないか、と議論を進める。「新人類」という概念が社会から消えた後も、「オタク差別」的現象は残り続けているからだ。「オタク差別は『大人』の『異性愛』男性の正当性を確保するために」(p129)、従属的男性性として再生産され続けているのだと言う。

オタク趣味は、大人の男として相応しくないことであると見做されたのである。田中は、「オタクが常に男性として表象される点」(p124)について「『女・子ども』という差別的な扱いを受けることによって、女性は男性と比較してマンガやアニメに興味を抱くことが許容されている側面がある」(p126)ので、男性と違って、「社会的に『問題』として構築」(p128)されにくいとする仮説を挙げている。

さらに、「根本的なオタク差別の要因は、彼らのセクシャリティをめぐって形成されている。オタクが消費するマンガ、アニメ、そしてゲームに登場する美少女の多くは、幼女としかみえない姿をしている。そのため、おたくはいわゆるロリコンなのではないかとの疑念をもたれやすい」(p128)とする。これは、中森の連載二回目の内容から敷衍した意味でのオタク(セクシャリティの問題としてのオタク)には確かに該当する。しかし、第一回で列記された、鉄道ファンやオーディオマニアや理系少年には、必ずしも当てはまるものではない。

ロリコン、二次元への性愛、男らしくない、こういう存在としての「オタク」への「差別」については、まさしく覇権的男性性と従属的男性性の概念を使い、議論することができるだろうし、ゲイの文化や権利獲得運動から学ぶところはたくさんあるだろう。たとえば、フィクトセクシャル差別として、LGBTQの延長線上で「差別問題」として扱いうる道もあるだろうと思う。しかし、それはあくまで「セクシャリティとしてのオタク」にのみ当てはまるのであって、「オタク」全体ではないのである。

「オタク差別」について、セクシャリティの観点から考察した一冊として、前出の大泉実成『オタクとは何か?』(2017)がある。大泉は、『庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン』の編著で知られ、論集『Mの世代 ぼくらとミヤザキ君』にも参加したノンフィクションライターである。その彼が、2006年に、オタクが何か分からなくなり、10年近く続けた連載をまとめたのが本書である。その連載をした動機を「自分が差別される側にいると感じたから」(p247)だと彼は言っている。その結果、結論は「オタクは存在しない」(p241)ということになった。

彼が重視したのが「ジェンダーの越境」である。特に「萌え系」のオタクに取材して、彼は「昨今のオタク文化は、彼らの発達した女性性と深くかかわっている」(p153)と考えた。『あずまんが大王』などのように、作中に男性性が見出せない作品を愛好する彼らには、「穏やかで優しく、繊細で傷つきやすい感受性」(p157)があり、「女性性への憧憬」と「男性性への嫌悪」(p158)があり、男性性の加害者性を、自身を被害者側の立場になり、「女性として傷つけられる性を引き受けようとしている」(p159)と分析する。

オタクの特徴を(「存在しない」と矛盾するようだが)彼は「両性具有性」に見出す。男性だが女性的、女性だが男性的(腐女子に「おやじ」性を見出している)、そういう「両性具有」な存在が「おたく」だと言うのだ。そして、「おたく」を命名した中森明夫についても、「延々美少女アイドルについての評論を行ってきた」つまり、「アニマの取り込み作業」を行っており、「中森こそ、両性具有的で優秀なライターなのである」(p246)と解釈する。

心に「内なる異性」がいる、というユングのアニマ/アニムスの概念を借り、大泉は、誰もにそのような性質があるのだから「オタクは存在しない」という結論に至る。この結論には、後に触れる「オタク・ノーマライゼーション」以降のオタクを中心に取材を繰り返した結果、オタクと言う概念の輪郭が掴めなくなったことも関係していると思われる。

大泉の言う「両性具有」的性格、すなわち、規範的な「男らしさ」「女らしさ」から逸脱している有様については、少しばかり異論がある。ユングの言うアニマ/アニムスの概念は、筆者が妻のエンマ・ユング『内なる異性』や河合隼雄の本などを読んで理解した範囲で言えば、「中年の危機」と関係していたはずだ。つまり、「男らしさ」「女らしさ」という規範を体現しようとし、自分の中にあるそれに反する「女性性」「男性性」を抑圧し続けた結果、生き方に問題が生じ、そこから反省や内省を経て、「内なる異性」(それは外部の異性に理想が投影されることもある)との「統合」のプロセスに至るというものだった。しかし、大泉が言及しているおたくたちは、規範的になろうとした限界から折り返して両性具有になったのではなく、もっと若い時からそうである、という違いがある。そもそも、ジェンダー規範やジェンダーロールを体現しなければならないという意識が若い時から薄いという違いがあるのではないか。そのことの意味をどう理解していいのかは保留するが、そうすると「オタクは存在しない」のではなく、若い時からジェンダー規範から降りている存在として「オタク」を定義する(男らしくない、女らしくない、一人前の立派な男・大人ではない、と見做されてきた)道に、大泉の議論は繋がっているのではないか。

話を戻すと、「セクシャリティとしてのオタク」という側面にのみ限定するならば、性愛のあり方やジェンダー規範への適合しなさゆえの迫害や排除や忌避の側面においては、このような「男らしさ」「女らしさ」(覇権的男性性・女性性)からの逸脱と抗争という観点から理解することができるだろう。

たとえば、優しく繊細で女性的な男性、もしくは両性具有的なオタクという側面を体現しているクリエイターとして、筆者は新海誠を挙げるべきだと考えている。特に、『君の名は。』は両性具有そのものであろう。また、この方向での議論を展開している研究者として、松浦優がおり、「『現実の他者に性的魅力を感じない人々』の不可視化と抵抗に関する研究」プロジェクトの成果などは参考になると思う。

「侮蔑語としてのオタク」──「オタク」と「オタク的なもの」

大泉は、「オタクは存在しない」と結論を出したあとに「差別語としての『オタク』はあり、人をその人間を差別したい場合『オタク』と呼ぶ。/差別語であるから、当然侮蔑と受け取り、腹を立てる」(p247)「『オタクと呼ばれるもの』は存在し、彼らに対してのいじめは今も全国で起こっている。しかも学校側は隠蔽にふけり責任を逃れることに腐心するだけである」(p312)と書く。このような「オタク」という言葉の使い方を、「侮蔑語としてのオタク」と呼ぼう。

この、「侮蔑」としての「オタク的なもの」と「オタク」の分離という部分に、「オタク差別」を考える手掛かりがある。それは「オタク」とイコールではない「オタク的なもの」に対する、「差別」とイコールではない「差別的なもの」であると理解した方がいい。それは、「オタクであることで」いじめを受け、胃潰瘍になり、高校を中退し大学に入ったが、病気の後遺症で二一歳にして亡くなった息子を持つ大泉にとって、真に切実な実感が籠もった議論であろう。本連載第二回に対して「オタク差別はあった」と反論する者の少なからぬ人々が指摘しているのは、この場合の「オタク差別(広)」についてであろう。では、「オタク差別(広)」とは、一体何なのだろうか。

「憧れとしてのオタク」「普通の趣味としてのオタク」──オタク・ノーマライゼーション以前/以後

それを考える前に、「オタク」という概念にあったネガティヴなニュアンスがこの二〇年で大きく薄れてきたことを確認しておきたい。「オタク」という言葉からは、今まで論じてきたような、ファッションに疎い、コミュニケーションが苦手、気持ち悪い、男らしく/女らしくない、弱い・暗いみたいな、八〇年代・九〇年代的なステレオタイプのニュアンスが、現在では薄れてきているのだ。『オタク的想像力のリミット』(2014)の中で、辻泉+岡部大介は「オタク・ノーマライゼーション」について語っている。2005年の『電車男』ブーム以降、「オタクに関するイメージは、対人関係全般が苦手で虚構の世界に閉じこもった男性というネガティブなものから、ポジティブなものへと徐々に変化してきた」(p14)。

論者によっては、それが1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』からだという説もあるが、2000年代にイメージが一挙にポジティヴになったことは衆目の一致するところであろう。2002年には宮﨑駿『千と千尋の神隠し』がベルリン国際映画祭で金熊賞(グランプリ)を受賞し、2004年に押井守の『イノセンス』がカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に日本アニメとして初めて選出されるなど、日本アニメの芸術性が国際的に評価されたという背景も大きい。

1990年と2009年に行われた調査(90年は大都市圏の大学生対象、2009年は杉並区の20歳の若者対象)を比較すると、それがはっきりと分かる。「自分には『オタク』っぽいところがあると思う」に肯定的な回答をした人は1990年には13.4%しかいなかったが、2009年では59.4%になっている。男性が69.8%、女性が52.2%で、男性が多いものの、女性もそう自認していることが分かる。

2009年の「オタクに対する若者たちのイメージ」によると、「『オタク』は嫌いだ」に肯定的に答えた(嫌いだとした)のが24.7%、75.3%は否定的(嫌いではない)に答えている。「『オタク』は楽しそう』だと77.6%、「『オタク文化』は日本を代表する文化だ」と答えたのが67.8%で、ネガティヴなニュアンスよりもポジティヴなニュアンスが圧倒的に増えている。

2015年にマーケティングアナリストの原田曜平が書いた記事「若者の間に『エセオタク』が激増しているワケ」も、それを裏付ける。「一昔前であれば、自分がオタクであることを周りに隠していたオタクの方もいたように思いますが、今の若者たちの中には、むしろそれを積極的に周りにアピールする人たちが増えてきている」。このような、自ら名乗ろうと思う「オタク」を「憧れとしてのオタク」と呼ぼう。

2021年の稲田豊史の記事「『オタク』になりたい若者たち。倍速でも映画やドラマの『本数をこなす』理由」でも、「オタク」の変化が分析されている。「従来のオタクは、何かが好きすぎるあまり、大量に観たり読んだりする。その結果、他のジャンルが気になってきて興味が広がり、さらに大量に見たり読んだりして、好きなものへの理解をどんどん深め、その過程を楽しむ」「しかしオタクに憧れる若者たちは、拠りどころとしての“充実したオタ活”を手に入れることを、まず目的に設定する」「エントリーシートの見栄えをよくするために、ボランティア活動に参加したり、サークルの幹部をやったりするのと同じだ」

2024年の沼澤典史の記事「今やオタクは憧れの対象に!若者が『推し活』にハマる切実すぎるワケとは?」では、「昨今、『何者かになりたい』と考える若者の中には、『好きなものに夢中になっている人、詳しい人』という象徴としての『オタク』に憧れる人も多い。この背景にもSNSのコミュニティーが影響している」「オタクへの憧れにおいては、『何かが好きになりたい』という欲求よりも、『自分が何者であるかを提示でき、それによってSNSなどのコミュニティー内の他人に承認され、つながりたい』という欲求の方が大きいでしょう」「何かを好きで(推して)いることで、即時的な精神的充足を得られ、かつ自分が何者かを提示できる」と分析されている。

オタク・ノーマライゼーション以前のようなネガティヴな側面が意識されにくくなり、若者の間では「憧れ」「なりたい」と思う対象となっていることが指摘されている。そして、好きなものに没入し知識を増やすという性質も薄くなり、自分の個性を演出するアイテムの一つ程度として何かを好きになるというライトさにすらなってきている。ここにおいて、ジェンダーやセクシャリティの「従属性」などの要素はかなり薄くなっているし、ましてや罵倒語などではなくなっている。

2020年に、マイナビのマーケティング・調査ラボの発表した記事のタイトルは「【2020年調査】10代女子のオタク率は86%まで上昇中!?高校生と大学生のオタ活消費金額の高いジャンルを比較!」である。調査対象と方法論に若干の疑念はあるが、「10代女子のオタク率が86%」であるのがある程度妥当だとすると、オタク=男性でもないし、ましてや「弱者男性」でもないし、マイノリティでもないだろう。このようなノーマル化した「オタク」を、「普通の趣味としてのオタク」と呼ぼう。

これは「オタク」じゃない、と言いたくなる人もいるのではないかと思う。しかし、「オタク」という言葉や概念に、定義は(個別の論者がそれぞれにしたもの以外は)存在しておらず、どの考え方が他に勝っているのかを決定し押し付けられる上位の審級も存在していない。あくまで、在野で、日常で人々が使っている言葉なので、その指す意味が時代によって変遷しているならば、それがその言葉の指している意味である、と考えるしかない。そして、ネガティヴな意味での「おたく」の用語法が誕生の1983年から2000年代半ばまで続いていたとしても、「オタク・ノーマライゼーション」が起こった2000年代半ばから現在までと、どちらも20年近くという同じ長さなのであり、若い世代においては後者の用法に触れている人の方が圧倒的に多く、「オタク」という言葉からかつてあったニュアンスが失われてきているのである。

「オタク差別(広)」という言葉を使うとすると、そのようなメジャーでマジョリティでポップな意味での「オタク」が差別されている、ということをも意味してしまう。今やマジョリティの文化であり、覇権的な文化になったそれの愛好者や軽く触れたユーザーたちに対する「差別」があることになると、その「差別」の意味がよく分からなくなるだろう。反差別運動の活動家たちが、オタクはマジョリティである、と言うときに想定している「オタク」はこの意味でのオタクだと思われる。

だがしかし、「オタク」が単にノーマルなマジョリティの趣味と見做された場合に、そうではないと思う部分があるだろうと思われる。それは、「侮蔑語としてのオタク」「オタク的なもの」に関わるだろう。そこを、切り分ける必要がある。

「シリコンバレーの適者としてのオタク」──イーロン・マスク、ビル・ゲイツ

「オタク」という言葉は、シリコンバレーやITと結びつけて、ポジティヴな意味で使われることも多い。松井博「世界はオタクたちが回している」での用語法が典型である。「現在進行中のIT革命は、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズといったオタクたちが『クールだ!』『こんなことできるはず!』と、好奇心に駆られて始めたことが受け継がれ、発達してきた結果なのです。民主的に決められたわけでも、人類の未来を考えて設計されたわけでもありません。今日もシリコンバレーには『エンジニア』という名のオタクたちが集結し、明日の暮らし、政治システム、ビジネスの在り方を根本から変えてしまうような発明にいそしんでいます。そして僕らには、彼らの好奇心から逃れる手はありません」。他にも、ドラマ『シリコンバレー』でIT起業家として活躍しようとする若者たちのことも「オタク」と表現される。

フォーブズによると、2024年の世界の富豪の二位がアマゾンのジェフ・ベゾスで、三位がイーロン・マスク、七位にビル・ゲイツがおり、トップ10の大半がIT企業の起業家たちである。世界の富の大半を持ち、世界の技術的環境を大きく変え、コントロールする力を持っている人たちが、「オタク」だと表現されているのだ。これでは、「オタク差別」とは何なのか、ますますよく分からなくなる(もちろん、覇権的立場であることと、差別を受ける属性を持っていることは両立する)。少なくとも、「弱者」であると考えるのは難しく感じる人の方が多いのではないか。

この場合の「オタク」という言葉が指している意味内容は、セクシャリティでも罵倒語でもなく、アニメやマンガやゲームが好き、ということでもないし、ましてや弱者男性でもないだろう。この場合の「オタク」とは、ある特定の人格類型を指しているのだと推測される。英語におけるgeekの翻訳語として使われていると思えるが、「おたく」を中森明夫が定義した際に、SF小説、コンピュータ、理系などの特徴を挙げていたように、対人的な苦手さから導き出すことが可能な用語法である。つまり、人間とのコミュニケーションよりもモノとのやりとりを重視し、共感などよりもシステムへの認識が強いタイプの人たち、という類型であろう。これを「シリコンバレーの適者としてのオタク」(略して「シリコンバレー的なオタク」)と呼ぼう。

繰り返し引用して恐縮だが、伊藤昌亮が「『弱者男性論』の形成と変容」(『現代思想』2022年12月号)で、「恋愛弱者」であるが「情報強者」であるという自意識をも持っていた者たちについて触れている箇所は、この「シリコンバレー的なオタク」と重なるだろう。「彼らの多くは確かに『恋愛弱者』や『経済弱者』だったが、しかし『コミュニケーション弱者』だったかというと、必ずしもそうではない。『対人関係』という意味でのコミュニケーションの点では確かに『弱者』だったが、一方で『情報通信』という意味でのそれの点ではむしろ『強者』であり、達人の集団だった」(p152)。その理想を体現するロールモデルが、ひろゆきであり、ホリエモンであり、スティーヴ・ジョブズであり、イーロン・マスクであろう。

イーロン・マスクは現在、世界第三位の金持ちであり、政府の役職に付こうとしており、何人も妻と子がいる典型的な「覇権的な男性性」だと思われるが、彼は「オタク」である(ゲームを趣味とし、アニメについて頻繁に投稿する)。だが、同時に「インセル」でもあるとトランス・ジェンダーである実の娘に名指され、公然と批判されている。このねじれについては、職業領域における強者性(覇権性)と、親密圏における弱者性(従属性)という分裂から説明することが出来ると思うが、詳しい議論は次回以降に回そうと思う。

シリコンバレーの企業家たち、IT企業の成功者たち、世界の富のかなりの部分を手中に収めている勝者である彼らには、「シリコンバレー症候群」があると言われる。シリコンバレー症候群とは何かと言われると、古い呼び方ではアスペルガー症候群、現在で言う自閉スペクトラム症のことである。医学的には発達障害、もしくはそれに準じるものに分類されている。「オタク差別」とは本当は発達障害への差別であるという意見も今回少なからず寄せられたが(筆者は「オタク=発達障害」であるという説には賛同しないが)、「シリコンバレー的なオタク」が持つ自閉症的な傾向について限定するならば、そのような用語法を人々が日常言語として使うことがあるのではないか、と推測することができる。

この「シリコンバレー的なオタク」については、男性性とも深く関わり、現在進行中の巨大な産業構造の変化と覇権の交代と、それに随伴する様々な問題として現代の男女の衝突やミソジニー・ミサンドリー問題を理解する手掛かりなので、次回以降本格的に論じていく。

このように、「オタク」を人格類型であり、その人格類型になる原因に脳神経などの身体的な基盤があるのだとする立場を採るなら、現代の制度における差別問題として扱うことは可能だろう。その場合、「オタク差別」という名で、行っている側も被害を受けた側も認知しているものが、別の「障害」もしくは「グレーゾーン」によるものだと理解し、対処し、啓蒙し、合理的配慮などを手厚くしていくことが救済と解決に繋がり得るだろう。ただし、繰り返し述べている通り、それは極めて広い「オタク」という言葉の指すごく一部に過ぎないのであり、「オタクは障害である」「障害があるからオタクになる」ということを筆者が言おうとしているわけではまったくない。

「適応の方法としてのオタク」──中島梓『コミュニケーション不全症候群』

「オタク」を、人格類型として、内在する本質のようなものがあるとシンプルに考えられるならば、「差別」問題として解決し救済する道筋を付けやすくなる。シリコンバレー症候群=自閉スペクトラム症以外の原因も考えられるし、「暗い」「内向的」「コミュニケーションが苦手」的な性質がたとえば複雑性PTSDや愛着障害などが原因であれば、それを治療・予防していく道も開かれていくだろうし、社会の理解を啓発していく道も考えられるだろう。しかし、「オタク」は、本質主義的な人格類型に限定されるような概念ではないという難しさがある。だから、既存の「差別」概念の網の目に引っかからず、制度的な救済の対象になってこなかったというのは、前回から繰り返している通りである。

文化としての「オタク文化」を享受する者としての「オタク」は、それが原因ではなく、結果であるという性質を持っている。オタクという本質を持つ存在だからオタク文化を享受するのであると考えられがちだが、そうではなく、オタク文化を愛好する者が、結果的にオタクと見做され、オタク的な本質を持つと認識されるという順序なのではないかと思われるのだ。

文化とは、生きるための適応の方法論やスタイルであり、それを提供しているのがオタク文化であるという考え方がある。栗本薫として『グイン・サーガ』などを書き、自身も「おタク」であると自認し、BLの先祖であるやおい文化に当事者としてコミットしていた評論家の中島梓は、『コミュニケーション不全症候群』(1991)の中で、「おタク」(中島の表記)を現代社会における「コミュニケーション不全症候群」の現れだとし、それは「居場所」がなく生きづらい現代社会への「適応」の方法論だという考え方を示している。

何故居場所がなく生きづらいのかという理由を、中島は極めてシンプルに説明している。「過密」と「ヒューマニズム」である。ヒューマニズムによって、弱い個体も淘汰されずに生き残れるようになったのが現代社会であり、現代文明である。しかし、人数が多く、資源は希少であるから、「居場所」(物理的な縄張り、社会的地位、精神的な拠り所)を奪い合う競争になる。それが生きづらさを生んでしまうこの社会になんとか適応しようとするための文化が、オタク文化だと考えているのだ。

「弱者は、自分の場所を確保する戦闘能力において当然劣っているわけであるから、いっそうおしのけられ、疎外されやすくなっていくわけだ」(p58)「それでもそういう弱者でも、生きて行かなくてはならない」「ほんとうの間引きならばそれで淘汰されてしまっておしまいなのだが、この象徴的間引きは、間引きされてもなおかつ生き続けて行かねばならない」(p60)。「おタク族は要するに『自分の場所』を現実の物質世界に見出せなかった疎外されそうな個体が、形而上世界のなかに自分のテリトリーを作り上げる事で現実世界の適応のなかにとどまったのである」(p62)、「実際にはない『自分の場所』を、虚構の、形而上世界の中においてそれを自我の根拠としたうえでの現実への適応」(p63)した。それを「二重の適応」と中島は表現している。

興味深いことに、中島は「おタク」と暴走族にも類似性を見出している。「自分の居場所を失ったがゆえに」「疑似社会としての仲間とのつながりを社会に優先させることによって生き延びた集団」(p64)という共通点があるからだ。とすると、浜崎あゆみの「居場所がなかった」に共感していたような、ストリートに出てくるギャルや、家出少女たちと、「おタク」には、同じ現代の居場所のなさへの適応の方法論であるという点において、共通性があることになる。「おタク」と彼らの違いは、居場所を「虚構空間のなか」に見出そうとする点にある。「かれらの欠落を埋めてくれるまぼろしの場所を探していた」(p70)のだと。

求めているのは「安全で何も身構えなくてよい、自分がまるごとうけいれられていると感じることのできる場所」(p77)である。彼らは、旧来の教養主義的な成熟パラダイムにおけるような自我を形成するのではなく、「サンゴのような共生の生物のように」「仲間の自我との集合体」を作り上げ、「疑似社会」を作りあげる。その特徴は、「『彼らと適合しない現実があるならば、現実に適応しようと自分を変えるかわりに、なんらかの方法でその代替物をつくりあげてしまう』という傾向」であり、「自分を受入れてくれない現実のかわりに疑似現実を作りだし、そのなかに満足して生きている」(p78)。

興味深いことに、中島は、「おタク」の集団としての性質を論じる際に、「フェミニスト」を似たものとして描いている。「現代のフェミニストたちは抑圧され、弾圧される存在としての女性と弾圧する悪の権化としての男性というグループを想定し、人間をそのふたとおりだけに分けてしまう」(p90)が、白人女性と黒人男性などの場合に、男女の「差別と抑圧」だけでなく白人と非白人も生じるが、「こういう観点からはフェミニストたちは決して差別の問題を語ろうとはしないだろう」(p91)(☆5)と言っている。現在の言葉で言う、「インターセクショナリティ」の問題を提起しているのである。その他の例として「公害病の被害者が家庭において女性を抑圧する男性」であったりするケースが挙げられるが、それらは「しばしば『見て見ぬふり』にされたり、無意識に抑圧されて気付かれないことになったりする」。その理由は「どんな人間も、自我を守るために自己正当化――それは本当の意味の自己についてだけではなくて、自我を守ってくれる彼の所属集団にも敷衍されるものだが――を行なう習性をまぬがれることはできないから」(p91)であると言う。

だから、自分の所属するグループの立場からのみ物事を見ようとし、反対の立場の人間に対する想像力がなくなるのではないかと中島は懸念し、それが現代社会の問題であると述べている。「なんらかのグループのなかに所属しながら、それの成立の基盤をゆるがせるような可能性のある視点を持込む行動は、そのグループにとってはグループとしての自我への攻撃であり、裏切行為にほかならないのだから」(p91)と言う。

宮台真司は、自我≒自己を守る機能を〈自己のホメオスタシス〉と呼び「〈自己のホメオスタシス〉のために虚構を利用する者は、『オタク』と呼ばれて差別され」、現実を憎みハルマゲドンを待望したが、そのオタクの一部がオウム真理教としてハルマゲドン=地下鉄サリン事件を起こした後に、ハルマゲドン待望が馬鹿げたものになったと述べている。そして、「〔虚構の時代の〕前期にはオタク差別があったが、後期にはオタク差別が消えた」(『オタク的想像力のリミット』p37)、その分水嶺は1996年頃だとしている。

そのような〈自己のホメオスタシス〉=適応を維持するための文化としてのオタク文化においては、知識やモノや集団が自我を守るための盾となる。その自我を脅かすものは、集団的な否認の対象となりやすい。客観的な現実や社会における事実や真偽よりも、自我を脅かすかどうか、気持ち良いか否かが判断の原理になってしまう「疑似現実」を集団的に作り上げ、維持しているからだ。これはおそらくポスト・トゥルース現象とも関連性があるだろう。

「適応の方法のためのオタク」の集団において、「オタク差別」であると感じているものの中に、自我が脆弱であるがゆえに、〈自己のホメオスタシス〉を集団的に守るために過敏に反応し錯覚し現実を否認しているものもあるのではないかと、SNSにおける状況を見ていると感じてしまう。第二回目の記事へのぼく自身への反応の中には、陰謀論的に相手(筆者)の意図や内面や党派性を読み取り、事実ではないことを流布しているケースが多く見られた。フェミニスト相手の場合なども、同様の現象が観察されることが多い。「オタク差別(広)」は問題であり、その被害や傷付きに同情し共感しケアの対象にするべきであるということは言を俟たないが、このような被害妄想的で、被害の認知や脅威の錯覚ゆえに正当化された攻撃や暴力の側面は肯定することが難しい。反差別団体のメンバーなどによって「オタクは差別主義者」「ミソジニスト」などと誤って結びつけられやすいのは、オタクの中の一部、「適応の方法としてのオタク」における、さらに一部の集団が持っているこの側面故ではないかと思われる。

「オタク」と「弱者男性」「弱い」「暗い」などのステレオタイプが結びつきやすいのは、このような「適応の方法としてのオタク」文化をより強く必要とする者は、その社会における弱い立場、脆弱な自我、か弱い生命力を持つ個体である場合が多いからである。栗本も繰り返しているように、このような適応の方法が悪いと言うのではなく、時代と社会環境の変化に伴う必然的な適応の形態であることも理解する必要がある。そして、「適応の方法のためのオタク」は、生きるためにあとから獲得した文化やライフスタイルであるので、生得的な障害などとは異なり、差別問題として扱うのが難しいのである。

多くの者が、単なる選択可能な趣味や遊びと、「オタク趣味」が異なるのだと主張し、簡単に捨てたりできないのだ、「宗教」に近いのだと言うのも、この性質故であろうと思われる。それは適応のために必要なものなのだから、強制的に捨てたり辞めたりさせようとすると、不適応になってしまいかねない。そして、適応のための文化としてのオタク文化を必要とする理由は、それぞれである。それこそ、障害がある、虐待を受けた、競争や教育が苛烈である、生まれつき身体が弱い、貧困である、などなど、多種多様な理由がある。この中には、バックグラウンドとなる原因を理由にすれば、「差別」問題として扱うことも、救済されることも可能な人々もいるだろうと思われる。そして、この「適応の方法のためのオタク」は、「憧れの対象としてのオタク」や「普通の趣味としてのオタク」や「シリコンバレーの適者としてのオタク」などと比較した場合、マジョリティや強者ではない者が混ざっている可能性が高い。だから、オタクはマジョリティで強者である、として十把一絡げに批判してしまうと、このような脆弱性を抱えた層がダメージを受けてしまうという問題がある。

「オタク差別」とは何か

さて、以上、Xでの議論を参照し、男性学と、「オタク差別」を考える上で必要だと思われる範囲で、「オタク」についての先行研究を参照し、分類してきた。

そこでは、「自己言及としてのオタク」「テイストとしてのオタク」「セクシャリティとしてのオタク」「侮蔑語としてのオタク」「憧れとしてのオタク」「普通の趣味としてのオタク」「シリコンバレーの適者としてのオタク」「適応の方法としてのオタク」という切り分けを提案してきた(岡田斗司夫や東浩紀、森川嘉一郎らの「オタク」論については、拙稿「オタク文化とナショナル・アイデンティ」『現代ネット政治=文化論』所収、で詳しく論じたので、ここでは繰り返さない)。

狭義の「オタク差別」は存在しないが、広義の「オタク差別」と当事者たちが感じるような経験は、当然存在している。それは、現代の拡散した「オタク」概念では捉えきれないものであり、狭義の「差別」の問題としても扱いにくいものであった。では、「オタク差別(広)」と人々が認識しているものは何なのか。

卓越を巡る象徴闘争、階級差別・身分差別の残滓、世代間闘争などと解釈するべき方向性がひとつ。もうひとつは、セクシャリティを巡る覇権・従属の問題として認識する方向性。こちらの場合、LGBTQなどの運動を参照し、狭義の「差別」を解消していく方向の議論も可能かもしれない。そして、オタク・ノーマライゼーション以降に「侮蔑語としてのオタク」が、「普通の趣味としてのオタク」などから分化したのだと思われるのだが、その具体的な意味内容は判然としない。「シリコンバレーの適者としてのオタク」を議論する中で、それが自閉スペクトラム症と関連するかもしれないことを指摘した。自閉スペクトラム症に限らず、先天的な脳神経、後天的な成育歴に原因がある何かを「オタク」と俗称しているのであれば、その原因となった「何か」に対する差別解消や支援の枠組みが利用できる可能性がある。

そして極めて扱いが難しいのが、「適応の方法としてのオタク」である。「適応の方法としてのオタク」は「結果」であり、その背景には無数の脆弱性、弱者性の存在が推測されるのだが、レッテルを貼る側も自認する側も結果としての「オタク」に注目するばかりで、どうしてオタク文化を用いて適応しなければならなかったのかの背景を無視しがちな傾向が出て、話が拗れるのではないかと思われる。そうなってしまうのは、ある種の現実の否認、現実の重要性を心的なレベルで低下させ虚構を重要視する「二重の適応」であるので、そのきっかけになったトラウマ的な出来事は否認・抑圧されやすくなる心的構造になっていることも要因の一つだと推測される(「男が弱さを認める」ことが難しい問題と、おそらく部分的に重なっているだろうと思われるが、ジャニーズ問題を踏まえると、女性の場合にも同様の問題があるのだと考えられる)。このような集団において「オタク差別」と考えられているものの一部には、脆弱な自我による現実否認、被害的な知覚による錯覚、陰謀論的な認識が含まれていると考えられる。ジャニーズファン(ジャニオタ)の一部が、ジャニー喜多川による性被害について「性被害はなかった」「韓国の謀略」と主張しているのを参照すると、このような集団の性質において、男女の差は本質的ではなさそうである。

次回、この分類を踏まえた上で、「男性性」について掘り下げていき、そしてジェンダーを巡るネット内外の社会的対立についての考察を進めていこうと思う。

 


☆1 「オタク」という言葉に「女性が入っていない」ことを「女性差別」だとする意見もXでは見受けられた。田中東子も『オタク文化とフェミニズム』で、「『オタク文化』という言葉がこれまで無意識のうちに『男性オタクの文化』として流通してきたことへの静かな異議申し立てである」(p9)と書いてある。「おたく」は、そのカテゴリ創出の時点では、男性だけを意味していなかった(コミケの参加者は女性が多かった)ことは確認した通りだが、八〇年代から九〇年代にかけて、「おたく」は男性のことを意味することが多くなっていく。その理由の一つは、宮﨑勤の連続幼女殺害事件である。その事件により、「おたく」にはネガティブなイメージ、ロリコンのイメージ、男性のイメージが付いたし、女性たち自身もその呼び名を忌避したのではないかと思われる。オタクの象徴闘争が勝利し、ノーマライゼーション以降の観点から見れば、女性が排除されているように見えるが、それは遠近法的倒錯と言うものだろう。
例えば、1991年に刊行された中島梓(=栗本薫)『コミュニケーション不全症候群』の中で、「おタク、という概念はいまのところ男の子に限られる。じっさいにはコミック・マーケットで主導権をとっているのは時として女の子のマンガ・パロディ・マニアであって、女性だけのサークルも多い」(p105)とし、やおい(今のBL)少女たちを分析しているのだが、そこで彼女は「美少年を愛好する少女たちをして『女宮﨑』の女おタク、と誹謗する論調の揶揄にみちた」(p107、108)記事が出たことに怒り、「『女宮﨑』『女おタク』という概念が出てくること自体、現代日本のマスコミが、まったくこの問題について何の理解も知識も、また正当な関心さえも持ってはいない」と述べているのだ。女性がオタク扱いされることに、今でいうBL的な作品を書いてそのようなファンもいる女性作家自身が怒っていることに注目してほしい。
しかし、そう怒りつつ、彼女は「女おタク」がいるとしたら、男性のオタクがどう違うのかを検討している。その差は「社会性、行動性が高い」「必ずグループを作」ること、である。ここで栗本は「オタク」の特徴として、社会性が低く、コミュニケーション不全で、孤独である、という「人格類型」を元に考えているので、女性の場合は該当しないと考えているようなのだ。その「人格類型としてのオタク」の性質ゆえに、女性はオタクに該当しないと考えられていた時期があるのだと推測される。ただ、彼女が「おタク」ではないとしている、コミックマーケットに参加し、二次創作のBLマンガを売り買している女性たちは、現代の用語法で言えば間違いなく「オタク」であろう。ここでも、「オタク」の定義のブレによる混乱が発生しているのだと考えられる。
☆2 園康晃は「『おたく』の概念分析」(『社会にとって趣味とは何か』所収)において、「中森は『おたく』カテゴリーを自らに適用することなく、自らを明示されない『観察者』として『観察対象』である異様な『彼ら』に『おたく』カテゴリーを適用している」(p246)と書いているが、しかし果たして本当に「観察者」としてだけ書いているのかは疑問である。末尾で、読者に向かって「あなた」の意味で話者が「おたく」を使うことで、自身も「おたく」に含まれていると表現しているとも考えられるからだ。自身を含む集団をも、突き放し、観察対象にし、俯瞰的かつ自虐・自嘲的に眺めるシニカルな視線もまた「おたく」という定義の始まりから存在していたのだ。それも含めて人格類型としての「おたく」の特徴であると理解した方がいいのか、それとも、八〇年代的な認識・レトリックの流行の問題と見做すべきなのかは、判断が難しいのだが。
☆3 アンドルー・ポター、ジョセフ・ヒース『反逆の神話〔新版〕: 「反体制」はカネになる』によると、かつてはブランド品やファッションなどで行っていた「差異化」のゲーム(自分は人と違う、という提示)は、SNS以降は、SNSなどで自己をアピールできるようになったので低調になったと分析している。代わりに自己を差異化するために「美徳シグナリング」を利用するようになったと彼らは論じているが、「オタク・ノーマライゼーション」以降の「オタク」や「推し」も、そのような自己を差異化し、キャラクター付けする装飾のひとつとして使われるようになっている、ということなのだろう。それは、象徴闘争において「オタク」がプラスの価値を持つように覇権が移動したことを意味するのではないだろうか。
☆4 とはいえ、議論の混乱を呼ぶ理由のひとつは、今ではかつて正統文化・高級文化とされていたものの地位が低下し、教養主義の圧力も低下し、国家も承認した結果、オタク文化自体が卓越した地位へと象徴闘争や商業的価値で勝利し、文化的な覇権を握りつつあることである。その立場になっている以上、他のジャンルへの「象徴闘争」において、強い側、加害する側になりかねないという地位の逆転がある。
もうひとつの理由は、「文化的オムニボア」と呼ばれる現象である。先進国ではどこでもその傾向があるが、日本のオタク文化の場合は特に、階級や階層との関連が薄くなっているのである。つまり、地位において上位の者も享受する文化なのである。高地位の者は下位文化・大衆文化など様々な文化を享受するが、下位にある者は上位文化・高級文化を享受しない傾向が、統計的に確認される(詳しくは北田暁大+解体研『社会にとって趣味とは何か』参照)。
☆5 栗本が「フェミニスト」と名指している存在は、実際のフェミニスト一般とは異なっているだろう。『コミュニケーション不全症候群』自体が、ダイエットに女性を駆りたてる圧力への批判、美の規範性に対する抵抗、「やおい」と呼ばれた今でいうBL好きの女性たちについての言及などが多く、栗本自身が今の基準であればフェミニストに分類されるだろうとも思われる。