例えば、技術文書を読む場合、論文調の文書を読むより、話しかけるような文書(例:結城浩さんの著作等)を読む方がわかりやすく感じるのはなぜでしょうか?(少なくとも私はそう感じます。)
前者は要点のみを凝縮し、冗長さやノイズがなく、字数が少ない、後者はその逆だと思っています。そのため、無駄が少ない前者の方が後者より、優れた文書だと思うのですが、わかりやすく感じません。本件について、科学的に説明できる方、お願いします。
結城浩さんの文書を読んだことがないので、的はずれな回答かも知れませんが、
わかりやすい文書として一般的に言えることを私の考えで書いてみます。
まず、文書というものは誰に対して(どんな人が読むことを想定して)書かれたものかによって、その性質が決まります。
例えば、技術文書というのはある程度その技術に対してバックグランドを持っている人が読むことを想定して書かれたものです。従って、知識レベルの低い人が読んでも、うまく理解できない点が出てくる可能性があります。これに対して、一般向けに書かれた文書は、何も知らないことを前提に書かれているので、理解しやすいのだと思います。
技術的には、一般向けの文書では、
より身近な具体例が書かれている、
難しい部分はブラックボックスとして扱われている
などのくふうがされているのではないかと思います。
頭の良い人が書いているから。
スポーツで、優秀なプレイヤーが優秀な指導者になれる例は少ない。
同じ理屈で、優秀な研究者が優秀な技術文章を書けないのではないかと思います。
論文を書く人は文章を書くことを専門とする職業ではないのです。(専門は研究。研究内容で勝負です。)
結城浩さんの文章がなぜわかりやすく感じるのかと言うと、彼は科学文章を初学者にもわかりやすくわかるように執筆する職業の人(=テクニカルライター)だからです。
私が思うに、頭の良い人がわかりやすい文章を書けないのは、頭の悪い人がつまずいてしまうところを頭の良い人はつまずかないので、文章にそれが反映されず、理解を促す情報が少なくなってしまうからでしょう。どう思います?
(1)論文調の文章は、単語や言葉遣いがとっつきにくい
(2)話しかけるような文章は、感情にも訴えかける
(3)話しかけるような文章の方が理解を促す情報が多い
(4)話しかけるような文章の方が理解する順番と似ている
以下、詳細
(1)論文調の文章は、単語や言葉遣いがとっつきにくい
論文調の文章に出てくる単語はあまり慣れていないので、例え知っていたとしても、その単語の意味を頭に思い浮かべるのに、一瞬頭脳のパワーをロスしてしまいます。また、慣れていないことによる緊張感だけでも頭脳の働きを鈍くさせる可能性があります。
(2)話しかけるような文章は、感情にも訴えかける
人間は、本能的に論理よりも感情の方を優先させます。話し言葉の方が感情面に訴えかけるので、インパクトがあります。
ただし、(1)と(2)は個人差があると思われます。そこで、もっと本質的な違いはないか考えてみました。
(3)話しかけるような文章の方が理解を促す情報が多い
物事を理解することは、物事を「区別」し、区別した物事どうしの「関係」を把握することだと思います。さらに、しっかりと理解したと実感するのは、「既に知っていることとの関係」や「自分(←読者)との関係」が分ったときだと思います。
例えば、「a1→a2→C→B」とだけ言われるよりも、「a1とa2は似ているけれども違います。そして、普通に考えるとB→Cだろうけど、C→Bです。これを知ってると使い回しがききます。」と言われた方が分り易い。
(4)話しかけるような文章の方が理解する順番と似ている
話し言葉で書こうとすると自然に、人間の理解し易い順番になり易いと思います。
わかりやすい回答ありがとうございます。特に、(3)について、ハッとさせられました。私が思っていた「点と点が線でむつびつく」感じは、そう説明できるんだな、と。
そして、確かに、話しかけるような文章は、読者が疑問に思うだろうことを細部におりまぜながら書かれることがよくありますね。これについて、よいことだと思いながらも、簡潔さが失われてしまうという欠点も感じ、悩みどころだったんですが、それが解消されました。
人間がものごとを理解するときには「論理」での理解と「類似」での理解という二通りの方法があります。
「論理」での理解には、共通のプロトコルを決め、冗長さやノイズといったものを省いた表現が向いています。これにより共通の文化的背景、暗黙知を持たない者同士でのコミュニケーションが成立します。
「類似」での理解は、比喩や例示などを使い、「類似による思考(注1)」という人間の脳の仕組みを刺激するような表現が向いています。これは共通の文化的背景を要求しますが、ある表現がさまざまな連想を引き起こし、それらの連想も含めて、ものごとを伝えるという行為がなされるわけです。
「論文調の文書」は「論理」による理解を、「話しかけるような文書」は「類似」による理解を、それぞれ促しているのではないでしょうか。そして、自分がどちらの理解の仕方がしっくりくるかによって、わかりやすさが変わるのではないでしょうか。
私は、人間は基本的には「類似」の理解が支配的なはずだと考えていますが、それには実は、真に精確な理解ではなくひょっとしたら著者との共通認識のズレによる誤解があるかもしれない、という欠点があります。それを補うのが「論理」の理解だと思います。
またこの「論理」と「類似」の二項対立ですが、
・前者はアメリカ的な合理主義(すべてを明文化する契約社会)
・後者は日本的な集団思考(あうんの呼吸で察しあう社会)
といった比喩だとわかりやすいかもしれません。
(注1)共立出版株式会社 認知科学モノグラフ1 「類似と思考」 鈴木宏昭
なるほど。わかりやすい文書は「類似」から「論理」の流れで書けばよいわけですね。
「類似」の欠点については、私も思い当たる点が多々あります。あることAについて説明するとき、例えBがわかりやすいかな、と思うんですが、それらが「類似」しているのは、Bの一側面だけであって、他は全然似ていないから誤解しないで、ってときが。ここで誤解を生まないよう「論理」で補強すればいいんだなぁ、と感じました。
>前者は要点のみを凝縮し、冗長さやノイズがなく、字数が少ない、後者はその逆だと思って
>います。
情報量の違いではないでしょうか?
前者は、一見情報密度が高いように見えますけど、理解するには情報が不足していると。
後者は、技術的素養がある人が読んでも、ない人が読んでも理解できるという点で万人向けだと。
技術的素養がある人は、必要ない情報を飛ばして流し読みすればよいですので。
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結城浩さんは、技術的な素養がある人で説明がうまいからというのもあると思います。
外国本を単に直訳されただけの本では、幾ら口語調でかかれていても内容分からないと
思います。イラストをいれても(^^;
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あとは、心理的な効果でしょうか?
仮にですが、文語調で書かれていたら、頭の中で口語に変換しないと理解できないとか
よんで、頭の中でなにかの変換が生じるものは、分かりにくいと感じるのではないでしょうか?
要点だけかかれていても、無意識に補完できる人はいいですが、出来ない人は補完(変換)しないと
理解できないので、わかりづらいということになろうかと思います。
たとえば、常用漢字以上のめったに使わない漢字が多用されている文章だと、頭の中で変換しないと
読めないので、ないよう以前に、難しい文章というイメージになると思います。
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文系か理系かとかそういう素地によって、どういう文章が分かりやすいかとか言う違いはあると
思います。技術文書は一般に理系の人間が読みますから、文系の人が読んだら分かりにくいかも
しれません。理系の人間からみたら、文系の人間の書く文章は回りくどいと感じるかもしれません。
理系の人間は技術文書を読むときに、文章にそって思考できるけど、
文系の人間は、文章と思考との相性が悪くて、脳で変換しないと解釈できないとか。
>技術的素養がある人は、必要ない情報を飛ばして流し読みすればよいですので。
飛ばし読みができない人に配慮する、ってことも、わかりやすい文書を書くには重要そうですね。私はいつのまにか飛ばし読みができるようになっていたので、気づかなかった点です。
>文系か理系かとかそういう素地によって、どういう文章が分かりやすいかとか言う違いはあると思います。
これについて思うのは、オチ(結論)を先に持ってきた方がいいのか、後に持ってきた方がいいのか。私は前者がいいと思うのですが、人によっては、なぜそんなことがいきなりいえるんだ、という印象を持つ人がいるらしく、悩ましいところです。相手次第といったところなんでしょうねぇ。
下でコメントをいただいたように、kshさんと同意見ですが、
脈略のないところからでてきたものが一致するということは
やはりそれが真理に近いんでしょうね。
逆に納得できました。ありがとうございます。