シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

『東京タラレバ娘』という神経症的葛藤

 

東京タラレバ娘(1) (KC KISS)

東京タラレバ娘(1) (KC KISS)

  
 スピード感と明るい筆致で麻酔をかけながら、えぐるようにメスを入れる漫画だ。
 
 『東京タラレバ娘』に出てくる主人公・倫子の生きざまを眺めていると、私は懐かしさを感じる。「あー、こういう女性っていたよね」的な懐かしさである。しかし、懐かしさを感じること自体、彼女達のマズさを暗示していると思う。
 
 彼女達は、花盛りだった十代~二十代の頃の価値観や人生観のまま、三十代を生きている。自分は人生の主人公であるべき・仕事も恋もできるシティガールであるべき、そして文化的にも優れた女性であるべきだし、それに釣り合った男性をみつけるべき……といった具合だ。
 
 作中、倫子の幻覚として「タラ*1」と「レバ*2」が何度も登場する。「人生のif」を語る空しさを滅多切りにする「タラ」と「レバ」だが、と同時に、倫子達の囚われている「べき」と現実のギャップを語る存在としても働いている。仕事・結婚・文化・レジャー、あらゆるものに「べき」がついてまわった結果として、彼女達の許容できる未来はとても狭い。男性選びにしたって、彼女達のストライクゾーンは狭い。なぜなら、沢山の「べき」をクリアした男性にしか恋心を感じなくなっているからだ。
 
 ストーリーの都合もあってか、それでも彼女達は恋をする。恋ができるだけマシなのかもしれないが、でも、うまくいかない。旧態依然とした「べき」に束縛された彼女達の恋愛は、時代遅れの装備で戦いに挑む兵隊のようだ。そのうえ、恋愛に挑むための準備や訓練もおざなりにしていたから、ここぞという場面でも上手くリアクションがとれない。婚活会場では年下の女性達に気後れしてしまう。
 
 
【『タラレバ娘』達が背負っている「べき」の正体は】
 
 
 では、「タラレバ娘」が背負っている「べき」の正体は何だろうか。

 もちろん、いろいろなエッセンスが含まれるだろう。だが、敢えてひとつのキーワードに集約するとしたら、私は「少女」を挙げる。
 
 彼女達は「少女としての正解」に束縛されている。
 
 “誰かを愛するのではなく、誰かに愛されたい・自分を幸せにしてくれる男性に巡り合いたい”。だから彼女達の結婚観は「いい男に愛されて幸せになる」的な発想をどうしても越えられない。誰かを愛するでもなく、誰かを幸せにするでもなく、「少女」を幸せにしてくれる男性との出会いを待ち望んでいる*3。そんな態度で男が寄って来るのは何歳までなのか? という疑問を彼女達とて持たないわけではないが、少女じみた性根は簡単には捨てられない。
 
 第三巻で描かれる、倫子とバーテンダーとのやりとりにしてもそうだ。倫子が「幸せになりたい」と願っているのは確かに伝わってくるが、倫子がバーテンダーを「幸せにしたい」と願っているそぶりは乏しい。倫子は、あのバーテンダーのことが本当に好きなのだろうか?
 
 誰かに愛されたい・自分を幸せにしてくれる男性に巡り合いたい――このような幸福観と恋愛観を持っていて構わないのは「少女」のうちだけである。いや、今日の日本社会では、かつて「少女」と呼ばれていたような年頃でも、そのような幸福観や恋愛観を弄んでいる猶予など無いのかもしれない。実際、19歳のマミは少女などに囚われない男女交際をやってのけているわけで。
 
 なるほど、倫子らが「女子」を名乗っているのも理解できる。彼女達は少女の幸福観や恋愛観から、いまだに意識改革できていない。価値観や人生観もそうなのだろう。メンタリティが「少女」のままだから「女子」が卒業できない。だから三十を過ぎても「女子」などという言葉を使ってしまうし、そのような自分自身に疑問も感じないのである。これでは、KEYに「少女漫画」と揶揄されるのも仕方ない。
 
 タラレバ三人娘も、生物としては確実に歳を取っているし、仕事のキャリアも積んでいる。文化的な身振り手振りも、年齢相応のものを身に付けているだろう。だが、社会的なエイジング感覚が「少女」のままだから「女子」という言葉を捨てられない。そして、進んでしまった現実と自己イメージとの齟齬に苦しまざるを得ない。
 
 倫子みたいなタイプのアラサー・アラフォー女性が「女子」という言葉を手放せないのは、自意識に「少女」精神が残っているから……というのが、この漫画から獲得した私の新発見だった。
 
 
 【「自由」な彼女達の神経症的葛藤】
 
 
 それにしたって、現に年を取り、自分自身をとりまく状況が変わってきているなら、「少女」としての自意識を脱ぎ捨てて、もっと自由に生きてみたって良いのではないか?

 花の大東京のシティガール達は、本来なら、田舎で育った娘っ子よりもずっと「自由」で「進歩的」であるはずだ。ところが『東京タラレバ娘』の三人娘はそこのところが顛倒していて、そこいらの田舎娘やマイルドヤンキー女性よりも不自由な人生選択しか自分自身に赦せなくなっている。
 
 倫子達に埋め込まれた価値規範やロールモデルは、雑誌やテレビによってインストールされた「少女かくあるべき」「自立した都会の女性かくあるべき」に痛ましいほど束縛されている。確かに、彼女達は(旧来の地域社会などにありがちな)家父長的な抑圧からは自由ではあろう。だが、なんのことはない、その精神は別種の抑圧、あるいは別種の「かくあるべし」と命ずる内心の声に束縛されているのである。
 
 かつて、(古典)神経症と呼ばれる心の病、いや葛藤状態がありふれていた時代があった。
 
 古典的な神経症とは、家父長的な抑圧に基づいた「かくあるべし」をタイトに内面化し過ぎて、それに束縛されるあまり、人生の生き幅が狭められたりメンタルヘルス上のトラブルが生じたりするような状態だった*4。内面化された家父長的抑圧こそが問題だったから“エディプス神経症”と呼ばれることもある。
 
 これに対し、倫子達は家父長的な抑圧とはまったく異なった「かくあるべし」を強固に内面化し、それに束縛されることで自らの人生の生き幅を狭めてしまっている。

 彼女達は、古典的な神経症には該当しない。だが、「少女としての正解」「自立した都会の女性」といった「かくあるべし」を強固に内面化し、それに束縛されているさまは、東京というフリーダムな街ならではの神経症的葛藤のようにみえて仕方ない。さしずめ、彼女達は“少女神経症”といったところか。

 昔の人は、「家父長的抑圧がなくなれば子ども達は自由になれる」と考えたらしく、実際、家父長的抑圧が緩和されて古典的な神経症が減ったのは事実である。だが、今にしてみれば呑気な考え方だったと言わざるを得ない。父がいなくなっても、よしんば母がいなくなってさえ、なにかが強固に内面化されれば人間はそれに束縛されるし、状況や人生に合わせて人生のギアチェンジをし損ねれば、神経症的葛藤は顕れるのである。
 
 私は、『東京タラレバ娘』に「少女」や「自立した都会の女性」にまつわる自縄自縛をみずにいられない。本作品が示唆しているように、たとえ自由な街に住んでいても、価値観や人生観の融通が利かないのなら、その人は不自由な人である。そして、一度タイトに内面化されてしまった価値観を塗り替えるのは思うほど簡単ではない。
 

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

 

*1:喋るタラの白子の幻覚

*2:喋るレバーの幻覚

*3:どうやら、それが彼女達の定義するところの「恋」のようである。

*4:ちなみに私は、神経症をわざわざ“精神疾患”と呼ぶのは好きではない。理由のひとつはアメリカ精神医学会のDSM-5に神経症の記載が無いせいでもある。が、もうひとつの理由は、神経症的な内面化の問題は程度の差こそあれ、いつの時代の人間にもみられるものだからだ。