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なぜマツコデラックスのセクハラは許されるのか?

 

 

はじめに

一昨日テレビでおしゃれイズムを観てたら、マツコデラックスが藤木直人にめちゃくちゃセクハラしてて、正直げんなりしました。

ロケ中ことあるごとに藤木直人に抱きつくマツコ、「ダメとわかってるのにー」と言いつつも藤木直人の尻を触るマツコ、きわめつけは仰向けの体勢になる筋トレマシーンを藤木直人に試させた場面で、ハァハァと息切れした藤木直人に上からかぶさる姿勢をとって「疑似体験できたわ」と喜ぶマツコ。

上田晋也がそのつど「やめろ!」的なツッコミを入れて笑いに変換させてたんですけど、最後のは「今、あんたとのセックスを疑似体験したわ」って意味なんで、上田晋也のツッコミ力を持ってしても、私はセクハラを目の当たりにした時の「うげぇ」感が拭えませんでした。

「なにをいまさら。マツコってもともとそういうキャラじゃん」と言う方もいらっしゃると思いますが、ここ数年のマツコの露出頻度はすごいです。

もうテレビで見ない日は無いんじゃないかという勢いで出てるので、毎回ではないにしてもマツコが男性タレントとか素人男性の身体に無遠慮に触れる場面は、けっこうよく目にする光景になってるんですよね。

だから「数が少なきゃしていい」って事でもないんですが、頻繁に見るからよけい目に余る状態で、私はげんなりしてしまったんです。

 

そして、げんなりついでにふと疑問が浮かびました。

それは「なんでマツコのセクハラは今のテレビ界においてもこんなにオープンに許されているんだろう?」という疑問です。

というのも、最近は何かあると速攻SNSで叩かれるという背景もあって、テレビを作る人やテレビに出る人から「迂闊なセクハラが無いように気をつけます!」という雰囲気がビシバシ伝わります。

そのおかげで昔のテレビに比べたら、意味のない水着姿の女性アシスタントも見ないし、大物男性司会者が女性タレントに気軽にエロいことを言う光景も、ちゃんと激減してます。

つまり「一億総セクハラ注意時代」とも言える現在日本なんですが、その中でマツコのセクハラは取り残されたかのようにオープンに行われているように思います。しかもあまり叩かれてない。

私はなんだか急にこの現象が不思議に思えてきました。

なので今日はそのことを書きます。

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前はマツコが好きだった

この話をする前に、はじめに断っておきますと、私はマツコをテレビでよく目にするようになった当初から数年間は結構マツコのことが好きだったんですよ。

マツコのテレビ初出演は2000年で、私が好きになったのは多分2005年あたりだと思います。

今でこそマツコはすっかりお茶の間の人気者の座に君臨していますが、その頃はまだ違いました。

特に私の周りの少し年配の人にはマツコの歯に衣着せぬ物言いや「ゲイの女装家」という部分に露骨に拒否反応を示す人がいて、職場である介護施設のテレビでもマツコが映ると年配のスタッフや利用者さんが「この人下品だから嫌い」とか「男だか女だか分からん、気持ち悪い」と言ってチャンネルを変えたがる事がよくあったのを覚えています。

私は基本「性別の枠から外れる人間の言動は、ハナから受け入れない」という姿勢は偏見的で嫌なので、マツコの言うことを聞きもせずにマツコが「女の見た目をしてるゲイ」だというだけで、年配の人に嫌われてることに少し同情的な気持ちがありました。

「マツコ面白いのに、マツコ良いこと言ってるのに見た目とかオカマ(本人が自称する表現)だからってハナから拒否るのひどいよ」みたいな。

まぁ、私がマツコを好きになったのはそういう同情的な部分を一切抜きにして、単純に当時のマツコの言ってることには「そうそう!」と共感できる回数がすごく多かったからなんですが、ここ数年のマツコに対しては「共感から得られる好感」よりも、「その言動に引いてしまう感」のほうが上回るようになってしまい、好きだった人を好きじゃなくなる悲しさを覚えていたところでした。

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女のセクハラはギャグ?

で、本題の疑問 なぜマツコのセクハラはオープンに許されているのか?について考えてみると、その理由はまず単純に「見た目が女性だから」というのが大きいと思います。

昔は男性から女性へのセクハラすら笑いにしていたテレビ界ですが、「もうさすがにそれは笑いにならない」という常識が一般化しつつあります。
しかしながら、女性から男性へのセクハラについてはまだその意識が適用されておらず、女性がセクハラしてる場面はギャグ扱いになることが許されているように思います。

マツコ以外にも大久保さんとか岩井志麻子先生が、男性タレントの股間を触る場面もギャグのひとくだりとしてよく見かけますしね。

 

しかしもちろん、女性だからってセクハラをして良いわけじゃありません。

世の中には実際に、女性からのセクハラに悩む男性だっているのですから、本来セクハラ問題とは、「被害者加害者の性別に関わらず深刻な問題として考えなければいけないもの」だと思います。女から男でも、男同士でも、女同士でもセクハラはセクハラ。

だから今の様に「女性から男性へのセクハラはギャグですよ」「女性だから、女性の見た目だからこれは問題ないんです」という常識でテレビが作られていく姿勢は、本来は感心できないことだと思います。多分今の段階でも不快な人はいるでしょうし。

もちろん、それはタレントだけの責任ではありません。

全てのテレビ番組には台本があり、彼女達も製作者側から「ここで男性にグイグイ絡んで、ひと笑いお願いします!」みたいに、そういう役目を求められるからやっているんだと思うので、演者だけの責任とは言えないのです。

でもマツコについては、あそこまで売れていて弁の立つ方だから「私はしたくないの。100%テレビにやらされてるのよ」という言い分は通らないんじゃないかと私は思うので、やはり多少は本人がしたくてしてる言動なんじゃないかと思うんですよね。

そうなると、「セクハラしたい人がセクハラしてる場面がそのままテレビで放送されてる」ってことなので、その頻度の高さも手伝って私は不快に思ってしまいます。

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「特別枠」が意味するもの

さて、ここまでは テレビを作る側の話でしたが、ここからはテレビを観る側の話をしたいと思います。

世の中には「同じ発言内容でも言う人によって周囲の反応が違う」ということが実によくありますよね。

分かりやすい例で言えば、ものすごい美人が「やっぱ彼氏はイケメンじゃなきゃありえない。」と言うと周囲も「こんだけの美人ならまぁそうだよなぁ。」と多少納得するのに対して、不美人が言うと「お前が高望みすんな!」とヤジが飛んでくる、みたいなことです。

私はそれもルッキズムという容貌差別の範疇に入ることだと思うので、自分は極力しないように注意しているところなのですが、容姿以外の、職業とか生活態度とか、その人の持つ要素を全て気にせずに、いつも発言内容だけに反応しているかと問われれば、自分は出来ていると思いませんし、周りの人を見ていても、それが出来ている人はほとんど居ないように思います。

つまり、「同じ台詞でも相手次第で許せる場合と許せない場合がある」というのは人の道理なのかもしれません。

 

ではここで改めて「なぜマツコのセクハラは許されてるのか?」と考えてみますと、マツコのセクハラが人々に怒られないのは、観ている多くの人の心の中に「マツコは特別枠」という意識が働いてるからじゃないかな?と私は推測します。

それで私は、マツコが「特別枠」となる理由について、観ている人が全員「マツコの言うことは特別共感できるから、マツコが特別好きだから多少の嫌な部分も気にならない」という意味での特別扱いなら問題には思いません。

それは「えこひいき」ではあるけど、愛情由来のえこひいきを完全にしないのは自分にも無理だし、そういう不条理なところもあるのが人間だと思うからです。

 

でも、そういう理由ではなく、人々がもしマツコのセクシャリティを理由に特別枠扱いしてるのだと仮定したら、そこに私は抵抗を感じます。

これがどういう抵抗感なのかということは、次で説明します。

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抵抗感の正体

 

私は以前、誰かが「男が言ったら叩かれる発言はオカマに言わせりゃカドが立たない。」と言っているのを聞いた事がありました。

確かに観察してみると、女性は男性から「あんたブスだな」と言われると怒ったり悲しくなったりするけど、オネェという立ち位置の人に「あんたブスね」と言われても笑って済ませてる様子が見受けられます。

これは私の勝手な推測ですが、多くの女性が「ブス」と言われてムカッとくる度合いは「男性>女性>ニューハーフ」という順番なんじゃないでしょうか。

 

私もこのことについては今回初めて意識したのですが、意識してみると、新たに「なんでニューハーフの人の言葉は聞き流せるのだろう?」という疑問が浮かびました。

もちろん、そうなる原因が「個人的にそのニューハーフの人を特別好きだから」という理由なら「えこひいき」なのでいいのですが、先程の「男が言ったらダメなことはオカマに言わせりゃカドが立たない」という言葉を踏まえてみると、私はそれがやはり「発言者が既存の性別外で生きている人」だということに由来するような気がするんです。

つまり女性が「ブスだわねー」とか「女らしくしなさいよ」とニューハーフから言われた時、その女性は無意識だとしても心の根底には、ニューハーフの人に対して「この人は望む性別に生まれなかった可哀想な人だから」とか「この人は、女として正規に生まれついたくせに女らしくしてない女に対して『せっかく生粋の女なのにもったいない!』みたいな悔しさがあるんだな」と同情を感じて、それが理由で許している。という現象が起きているんじゃないか、ということです。

私が抵抗を感じるのは、その同情が実は差別的なもののように思えるところなんです。

 

だって、その同情って子供に「バカ」と言われても「子供の言うことだから」と気にしないのと同じ構造で、つまり、ニューハーフの人のことを、「可哀想な人だから」と自分より一段下に位置付け「大人なのにまともに数に入れない」ことのように思えるからです。

私は、男や女という既存の性別に縛られず生きる人を心から応援したいけど、そういう人をあえて「普通の人とは違う苦労をしてるんだから応援してあげましょう」みたいに特別扱いするのは、なんか違う気がします。

私は、彼ら、彼女らが社会に求める、ジェンダーレスという概念は「普通とは違う性別の人にも優しくする社会」なのではなく、そもそもの「男に生まれて女を愛して生きる男性、女に生まれて男を愛して生きる女性だけを普通とする常識」が取り払われた社会だと思います。

だから、セクシャリティが原因で「特別枠」とすることには「普通ではない可哀想な人だから特別に優しくする」みたいな、実に上からの施し感がしてしまうんです。

本当にフェアに生きてる同士なら、ムカつくことを言われたらムカつくものだし、セクハラをしてたら「ダメだよ!」と怒られるものだと思います。

それを、セクシャリティが既存の男女じゃないからといって「この人は仕方ないよ」と見逃すのは、優しさではなく、「本気で相手にしない」という、1番酷な事なんじゃないかと私は思います。

その酷なことが人々の中で無意識に行われてるから今マツコが言う「ブスばっかりね」といった侮辱語も、マツコがするセクハラも、すべてギャグで済まされてるんじゃないかという気が私はします。

 

これが、今回考えて一応出た私なりの「マツコのセクハラが許されてる理由」です。

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マツコを女叩きの道具にしてない?

あと最後についでだから書きたいことがあります。

私は先の「男が言ったら叩かれる発言はオカマに言わせりゃカドが立たない。」発言に見られるように「マツコの意見はあまり叩かれない」という部分に便乗して、メディアもマツコを「女叩きの道具に使ってるんではないか?」という疑いを持ってます。

マツコは女性に対してキツい意見を言うことがままあります。
夏目ちゃんが泣いた「女は出産年齢を考えたらタイムリミットがあるのに今の女は結婚先送りで自由に暮らしてていいと思ってるの?」みたいな意見とか「インスタやってるのはみんなブス」「今のアイドルはブスばかり」「オルチャンメイク流行でブスが増えた」といった一連の「こういう女はブス」という意見ですね。

こうしたマツコの発言は、一部の男性にとって「思ってたけど言ったら叩かれるから我慢してたんだよ!マツコが言ってくれてスカッとした!」と喜ばれる内容だと思うので、「マツコならば叩かれない」という利点を逆手に取り、いつもそのまままメディアで流れているような気がしてならないのです。

もちろん、マツコがそう思い、そう発言するのは自由なんですが、普通の男性タレントが言っていたら番組制作スタッフも「この発言はちょっとアレなんでカットで…」となるような審査が、マツコに対しては行われていないんじゃないか?と思えるほど、マツコは女性に対して侮蔑的な発言も取り上げられているように思えます。

もしそうなら、先ほども書いたように、それは本当の意味で人間としてマツコの意見を支持してるのではなく、マツコの『オカマ』という立ち位置をいいように利用してるだけのような気がします。

だから、テレビを作る人も「マツコの意見だからみんな許すだろう」ではなく、マツコの意見だろうと「これは傷つく女性が多いだろうから流さない方向で」みたいな審査が行われるほうが正しいんじゃないかと思います。

まぁ、これは単なる私の妄想で、ちゃんと審査された上で今の状況なんだとしたら、もう私は「そうですか」とマツコの出ている番組を見なくなるだけのことなんですが。

ただこれは前々から思ってたことなのでついでに書かせてもらいました。

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最後に

私はマツコを見ていると時々悲しくなることがあります。

それはマツコが「こんな男だか女だか分からない人間をこうしてテレビに出させていただけるなんてありがたいことですよ」と、必要以上にへり下り、自分を卑下したことを言う時です。

好きだった頃から今も同じように私は悲しくなります。

だってそれは「男だか女だか分からない人間は日陰にいるべきなのにテレビまで出させていただいてありがたい」という風に聞こえてしまうんですもん。

だから聞くたびに「そんな事ないよ!男だか女だか分からない人間とかそんなことは気にしなくていいよ、マツコ面白いんだから、才能あるんだから、『男だか女だか分からないからどうしたっていうの?』くらい堂々としてていいのに!」という切ない気持ちになります。

 

あと、マツコは「アタシなんてどうせ独りでのたれ死ぬのよ」とか「こんな人間好きになる奴どうかしてるでしょ」みたいに、ひどく自尊心が低いようなこともよく言います。

私は、それがたまたま本人の生まれついた性格なら仕方ないと思うけど、マツコがこれまでの人生の生きづらさからそんな風に自虐的になっているのだとしたら、やはり今の社会がセクシャルマイノリティの人の自尊心を奪う仕組みであることを改めて感じ、悲しくなります。

だから、マツコがテレビで生き生きとした姿を見せてくれることには、本来私は応援したい気持ちがあるんです。

 

でもマツコはある意味シンボル的な立ち位置にいるので、マツコの言動はその一つ一つが、「ああ『オカマ』の人達ってこういうもんなんだな」と判断の材料にされる部分があると思います。

もちろん、そういうのはマツコ一人を勝手に代表だと思いこむほうがいけないんですが、それでもやはりマツコの影響は大きく、マツコが常に男の尻を触りたがるのを見て、どこかのゲイの人が「お前俺の尻狙うなよ笑」みたいな傷つくギャグを言われることだってあると思うんです。

だから、マツコにはマツコなりの好きな活動をして欲しい気持ちがある反面、度の過ぎたセクハラはやっぱり許せないと思います。

 

しかしこうしてマツコについて書いてみると、私はやはりマツコを嫌いになりきれない自分がいることに気がつきました。

だっていつもなら嫌な発言を同じ人から2、3聞いたら私はとっととその人に見切りをつけてしまいますもん。

でもやっぱりそれが出来ないのはマツコのなんらかの魅力に私が魅せられてるからなんだと思います。

確かに私がマツコを好きになった頃、マツコが言ってた「誰でもキラキラした生き方に憧れてるわけじゃないんだよ!」みたいな考え方は今も同感ですし、マツコの一定時間内にいくつも笑いどころを作れるトーク力は本当に凄いと思います。

だから私は今のテレビ界で、マツコに対して「マツコだから無罪放免」という歪んだ評価がなされるのではなく、マツコが時に正しく批判され、時に正しく評価されることを願っている、もしかしたらただのマツコの一ファンなのかもしれません。

 

長くなりましたが、お読みいただいた方はありがとうございます。

ではまた。

 

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