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「女らしさ」ってなんですか?

 

こんにちは。

昨日3月8日は、国際女性デーでした。

というわけで、今日は1日遅れてしまいましたが、この機会に私が皆様にぜひ読んで頂きたい文章を紹介します。

それは与謝野晶子さんの「女らしさとは何か」という作品です。

与謝野晶子の「作品」というと短歌を思い浮かべる方が多いと思いますが、こちらは大正から昭和にかけて発行されていた「婦人倶楽部」という雑誌で1921年に発表された彼女の随筆で、今で言うコラムかエッセイといった文章です。

「へー与謝野晶子って、そんなのも書くんだ。」と思った方、驚くのはまだ早い!

この文章が凄いのは「女らしさとは何か」というそそるタイトルもさることながら、その内容!

例えば一部分を抜粋すると、

我国の男子の中には、まだこの点を反省しない人たちがあって、いわゆる豪傑風を気取った前代の男子の悪習を保存し、自分自身は粗野な言動を慎まないのみならず、その醜さをかえって得意としながら、唯だ女子にばかり、愛と、優雅と、つつましやかさとを要求します。

ってな感じで、当時の男尊女卑社会に対する痛烈な批判が綴られているんですね。

もう、読んでて同感な部分が多すぎて「晶子!スタバ行ってちょっと話そ!」ですよ。

この文章が100年近く昔に書かれたものなのに、現代にも通じる内容なのは、実はちょっと悲しいことでもあります。

でも悲しいからといって目を背けていても仕方ないので、私はこの作品を皆様に読んで頂きたいです。この作品は埋もれさせておくにはもったいなさすぎます。

青空文庫でどなたでも無料で読めますので、是非読んでください。

(青空文庫とは、著作権切れの過去の名作を無料で電子書籍化したサイトです。合法です。)↓

青空文庫 Aozora Bunko

この作品のページ↓(上部右にある「いますぐXHTML版で読む」をクリックすると、ファイルダウンロード無しでそのまま直で読めてラクです。)

図書カード:「女らしさ」とは何か

 

さて「読んで頂きたい」とは書きましたが、こちらの作品、やはり100年近く前の文章なので、人によっては少しとっつきにくいかな、と思います。

私が10代の頃なら少しとっつきにくく感じてたと思います。

でも私は特に若い子に読んで欲しいんです!

そこで今でこそフェミニズムに興味を持っている私が「もっと若い頃にそういうことを知っていたかったよ!」と思う後悔をふまえて、多くの人に届くように方法を考えました。

今日はこの場を使って、この作品を私が勝手に少しばかり噛み砕いた表現に書き変えて載せたいと思います。

現代の若い子に気軽な気持ちで読んで欲しいから!

これを読んでから与謝野さんの原文を読んでもいいし、原文を読んでからこれを読んでもいいし、とにかく一人でも多くの方にこの作品が知って頂けたらという思いで書いてみますので、よろしくお願いします。

【ルール】

内容は変えずに現代口語版にする感じです。読みやすいように節分け、節ごとのタイトルは私が勝手に足します。太字強調部分の選択も私が勝手にします。

 

でははじまりはじまりー。

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「女らしさ」ってなんですか?

by与謝野晶子

 

はじめに

日本人って、昔から仏教とか儒教の教えを叩き込まれてますよね。

んで、「世の中の物事の移り変わりは早いもんだ」とか「毎日新しい心に入れ替えて生きよう」みたいな大事なことを学んできたけれど、どうもそれを狭い視野で解釈してるせいか、全然活かせてない気がします。
「万物流転」(物事が移り変わっていくこと)に関しては、ドーンと構えて「そういうもんでしょ!」と思えばいいのに、どうも世の中にはそれが出来ない人ってのがいるみたいなんです。
最近は日本にも外国から新しい情報がどんどん入ってきてて「世の中変えていこーぜ!」って流れなのに、そういう人達って、カビの生えたような古い習わしばっかし守ろうとしてて、なんか後ろに目が付いてるみたいな感じ。
目の前にある現実と向き合うことをサボって、先のことを見通すのも怖がってるみたいな。
しかもそういう人達って、バリバリの保守派の中にいるだけじゃなく、一見「進歩的な考え方じゃん」ってグループの中にも実は混じっていたりするから厄介なんです。

(桜島注・「そういう人達」には呼称を付けたほうが読み易いので今後はそういう人達を「古石頭」と書くことにしますね。)

それで、私がこのごろ気に食わないのは、古石頭がよく「女性の中性化」って言葉を使って今話題の「女性の解放運動」に反対しているってことなんです。
だいたい古石頭って、はなっから女が人間的に進化することが気に入らないみたいなんですよ。
しかも奴らは「人生は決まったルールとか法則に従って生きるもの」っていう古い考え方に囚われてるから、それを守るためにわざわざ他人の嫌がる言葉を掲げて女を威嚇して、女のリーダーが出ないようにしたりもします。

そんで世の中の流れが良いほうに向かっててもそれをかき乱すようなこと言ったりして、とにかく女性の解放運動にこれ以上みんなが賛同しないように圧力をかけてるんです。
私はそういうのって、卑劣なやり方だと思います。
だからそれについてちょっと言いたいことを書かしてもらいます。

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「女らしさ」ってなんですか?

とりあえず、古石頭の主張をまとめると「女が男と同じ高レベルな教育を受けたり、男と同じ仕事できるようにしたりすると、女性特有の『女らしさ』とゆう性質が無くなって、女でもない男でもない、よくわからない変態人間が出来るからよくない」ってことらしいです。

でもこれ、「は?」って感じじゃないすか?
まず聞かせて欲しい。

これって何を根拠に言ってるんでしょう?
一般女子に中学レベルの教育しか受けさせない上に、女は市町村議員になる権利さえ与えられてないこの国で、何を根拠に勝手にそうなると決めつけてるんでしょうか?誰かその、変態人間とやらを観たんですか?
勝手に決めつけで言ってんじゃないよ!って私は思います。


でも、それよりももっと古石頭に聞きたいのは、そもそも女は本当にあなた方が言う「最上の価値を持つ『女らしさ』」ってのを持っているのか?ってことです。
奴らは「女らしさ」ってやつを女の性質の一番の項目に挙げていて、ほかの性質はその下に従ってくっつけてるだけです。
だから、ある女性がどんなに優れた沢山の性質を持ってても、彼女にただ一つ「女らしさ」という部分が無かったらそのせいで、古石頭は「彼女の人間的価値はゼロ。彼女は独立した人格者ではない。」とみなしてきます。

 

ここで私、聞きたいんですけど、「女らしさ」って、そんなに最高に良いもんなんですか?
「女らしさ」って、そんなに女の人格全体を支配します?
そもそもその「女らしさ」の正体っていったい何なんですか?

 

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「男のすること・女のすること」に分ける必要はない

 

日本って、女が大股で歩いたり、活発に動き回って遊んでるとすぐ「女らしくない」って責められたり笑われたりします。
つまり、女は内股でちょこちょこ歩き、人形みたいにおとなしくしてんのが「女らしさ」の一つの条件になってるんですね。

でも日本ではそうでも外国の女性はどうでしょう?
外国の女性はことごとく大股で颯爽と歩くし、欧米では戦後、女子学生も男子と同じ体操着でスポーツをするようになっていますが、欧米では彼女達に向かって「女らしくない!」という非難の声は上がっていません。
ってことは、古石頭がありがたがってる「女らしさ」ってもんは、世界共通のものではなく、日本人だけに通用するものってことじゃないですか?
古石頭は「男のやることを女がやると、女らしさを失う」と言いますが、人間の活動に「男のする事・女のする事」みたいに、「先天的に決まっているもの」があるんでしょうか?
私は女が「妊娠する」という一点を除けば、男女が性別によって決められている宿命が別々にあると思えません。

 

政治や軍事は男の分野とされてますが、日本にも過去には女帝や女性政治家はいましたし、先の戦時中は弾丸製造などの働き手に多くの女が駆り出されました。

でも彼女達は「中性化した女だ!」と非難されていません。

だからここにきて今更「男子のすることを女子がすると女らしさを失う」というのは的外れな意見に思えます。

それに、もし男女の性別によって歴史的に定まった職業の領域が分けられて固まってるなら、男が服職人や料理人や洗濯業者となるのも女の領域を侵すものとして「男子の中性化」が論じられなければならないはずじゃないですか?
それこそ紀貫之だって「女が書く」とされていた「日記」を書いてたんですから、同じ理由で「男らしさを失った人間」として批難されてないとその理屈は通らないのに、彼は歌人として、また国語で文章を書いた先駆者として尊敬されているのはどういうわけでしょう?

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「人間らしさ」を男女不平等に言い換えた言葉が「女らしさ」である。

 

古石頭達は「女らしさ」とは「愛と、優雅と、つつましやかさとを備えていること」だと言い、逆に「女らしくない」というのは「無情、冷酷、生意気、半可通、不作法、粗野、軽佻等を意味する」だとも言います。
でも、私思うんですけど「愛と、優雅と、つつましやかさ」って、男にも必要な性質じゃないすか?
「愛と、優雅と、つつましやかさ」ってのは、「特に女にだけ」求めるべきものじゃなく「人間全体に共通して」欠くことの出来ない人間性そのものなんじゃないでしょうか。
だからそれを備えていることは「女らしさ」でもなければ「男らしさ」でもなく、「人間らしさ」と言うべきなんじゃないでしょうか。

人間性なんて、男女の性別によって違う性質のものじゃないですから、もしそれが欠けてる人がいたら「人間らしくない」として、男女にかかわらず批難されるものなんじゃないでしょうか。

でも昔から男はそれが見過ごされて、女だけが「女らしくない!」って言葉で厳しく批難されます。

それって不公平過ぎると思いませんか?

 

この国の男の人の中には、まだこの点を分かってない人達がいて、彼らは昔の豪快な武将にでもなったつもりか知りませんけど、自分自身は粗雑な言動をしているのに、女には「愛と、優雅と、つつましやかさ」を求めてきます。

また、さっきも言ったような「無情、冷酷、etc」の欠点は、男でも許しがたい欠点なのに、女にばかりそこを責めます。

そんな人達の様子からは「女には俺達に都合よく、性的玩具や炊事マシンとしての役目を負わせたい。柔順で無気力な立場に置いておきたい。」って男のワガママが見え見えなんです。

 

こんな風に考察してみると、古石頭の言う「女性だけが持っていて、それが人間的価値の最高標準となるべき『女らしさ』」なんてもんは、この世に存在しないただの奴らの幻想じゃん、って私は思います。

 古石頭が「女らしさ」と言ってるものは、人によっては「一地方的なもの」でもあるし「時代によって変化するもの」でもあるし、ようするに「決して私たちの生活を支配するような権威を持っているものじゃない。」ってことです。

だから「女らしさ」は「女子特有のものでなくて、人間全体に一貫して備っている人間性そのもの」だってことを私は言いたいです。

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女にも「教育と労働の自由」を。

 

私は人間性っていうのは「愛と、優雅と、つつましやかさ」に限らず「創造力と、鑑賞力と、その他の重要な文化能力」とかも含んでいると思います。

この人間性は誰にでも備っているけど、「教育と労働」があるとさらに円満に引き出されるような気がします。

だからこそ私は普通の人々にも「高等教育を受けることの自由」と、「職業選択の自由」がないといけないと思うし、

古石頭が女への高等教育を拒み、労働区域の制限をかけようとするのは全く正当な理由のない迷惑行為だって思います。

男になら「人間性の啓発となる教育と労働」なのに、女にとっては「逆に人間らしさを失くす結果になる」なんて矛盾する理屈は通らないですから。

 

私のこんな意見に対して、古石頭達は現在の女教師や女学生や職業婦人に共通する生意気な態度や粗野なところを挙げて、「これだから女はダメだ!」って言ってくるかもしれませんが、でもそれって逆に古石頭の墓穴を掘ることになると思いますよ。

だって、現在のそういう女性達は、確かに人間性の不足している所が多少あるかもしれないけど、それって、結局は「彼女達に人間らしい教育があまりに与えられず、人間らしい労働があまりに狭くしか許されてない。」が原因だと思いますから。

試しに女に「男性と同程度の教育」と、「地位のある立場でその手腕を思う存分振える職業に就くこと」と、明治以来の男に与えて来た「激励と設備と年月」を与えてみてください。

日本女性の人間性のポテンシャルの高さはきっと驚くべきもので、決して欧米の女性に劣るものではないはずです。


現在女性にまだ粗野さや生意気さが残っているように見えるのは、男子の中学卒業にも当らないような程度の教育でストップしていて、一番生意気な年齢からそれ以上に人間性が育つ仕組みじゃないからだと思います。
女性の職業範囲が少しずつ広がっているといっても、まだ女は小学校の校長にさえなれないし、どこへ行っても「女性である」って理由だけで男の下に付くようにさせられています。

今の女性は「実力が優れてても、男性の下に立つことしか許されない」という有様だから、女性自身もその人間性を鍛える機会を失っているのかもしれません。

だから私はその制限をとっとと取り払って欲しいと願っています。

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「子供話は女に任せる」って風潮やめませんか?


さて、好き言わせてもらってますが、こんな私の主張に対して、私は「古石頭がこんなことを言ってくるだろうな〜」ってことも想定してます。

それはきっと

「子供を生み、育てることは女性でなくては出来ない。したがって『女らしさ』の主要条件は母となることである。
そして女子解放運動は、女性のその母性を失わせるから良くない。
これからの新しい女性は母になることを回避してしまう。」 

ってな感じのことだと思います。

でもこの意見に対しては私も言いたいことがあります。

それは、そもそもこの「『母になる云々』の話を『女らしさ』で語る前提やめません?ってことです。


ちょっとややこしい書き方しちゃいましたけど、つまりどういうことかと言うと、確かに、女でなければ妊娠することが出来ないのは事実として認めます。
でもそのせいで「生殖のことは女性にお任せ」と思うのは大間違いだってことです。

だって、そもそも妊娠は、男の協力なくして出来ません。
そして子供が生まれてからも、育てて教育していく中には父母両者の愛情、父母両者の労力を合せる必要があるんです。

なのに昔からそこについて「父性」ってものがあまりにいい加減に扱われてきてると思います。
だから女にだけ重荷となる母性を課して、「育児は女だけの任務」と誤解されてきてるんだと思います。

本当はこの事もまた、男女に共通した「人間的活動」の話です。

もちろん、実際の育児の手間だけを考えて「男性には軽く、女性には重大な任務である」と決めるのもよくないです。
人の親になることは、父母両者に取って共に重大な任務でしょう。
だから育児を母性任せにして「女らしさ」の主要条件とするのはおかしいんです。

人がたとえ男女で父と母に分れたとしても、親としての精神は男女同一で、「親をやる」ってことは男女どちらにとっても人間性の現れるところですから「女らしさ」という言葉を使って「女に特定した話題」みたいに扱うのは変だと思います。

だから親業について語るなら、そもそも「女らしさ」なんて言葉を出さずに

男女両者を統一した「人間性の表現」もしくは「人間的活動」という言葉を持って表すべきだと私は思います。

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 親になりたい欲求は「女性解放運動」では削がれない。

 

さて、そこを踏まえた上で古石頭の言う「『女子解放運動』が、女性の母性を失わせる。」という理屈について反論してみると、私はその意見が全く根拠のない、ただの思い過ごしだと断言します。


なぜなら、女性の活動を自由にすることは、女性が古来からの奴隷的位地から抜け出し、独立した一個の人格として、あらゆる「人間的活動」を完成しようとする自己改革の動きだと思うからです。

つまり、人間的活動の結果、女性は生殖に対しても回避するどころか逆に愛と聡明と勇気とに満ちた、より完全な母となることを熱望するようになるものだと私は思います。
古石頭は「母性を失う」というような言葉をやたら使うけど、「親となること」の欲求は、昔から人間の内部に備っている最も強烈な本能の一つでもあって、つまり人間性の内容として重要な位地を占めているはずです。
だから教育が進歩すれば、それはますます「動物的な親性」から「人間的な親性」へと進化して行く気がします。
昔に比べて現代の父母が、どれほど子に対する愛情が深まっているかは、皆さんもご存知でしょう。

だから私は女性が自由になるための活動をしても「そのことで母性がなくなる」なんて理屈は、実に的外れだと思います。

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結婚、出産しない男女が増えたのは、「別の社会問題」のせい

 

さて母性について書いてきましたが、ここで私はさらに声を大にして言いたいことがあります。

それは「人間は必ずしも人の親になると定まっていない」ということです。

既に言ったように、人間には親となることへの熱烈な本能があるはずだから、高度の教育によって人間性を精錬された男女は、最も理想的な父母になりたいという意欲も沸いてくるものだと思います。

でもたとえ大多数の男女がその本能に従って親になるとしても、今の時代、世間にはいろいろの事情で結婚をしなかったり、結婚をしても子供を生まない男女だってあります。

その理由は恐らく「社会経済の不公平さから」だと思います。

不公平な社会の中で、資本階級によって搾取されてしまった無産階級の生活は、子供を育てるどころか、結婚をするのも難しい場合があります。
現に結婚が難しい人は年々増えていて、多数の男性が自分一人の生活さえいっぱいいっぱいで、とてもじゃないけど妻子を養う経済的余裕が無く、やむをえず結婚をしないでいる人もいるんです。


だから「女子解放運動が母性を失わせる」っていう批難は、本当の社会問題である「経済の不公平」に気付かせない為に話をすりかえをしているだけなんじゃないかと私は思います。

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 そもそも皆が自由に生きていい。


さて、そんなわけで経済的な理由で結婚や出産を諦める男女が多いのは確かですが、私が思うに、もし仮に経済的に問題のない新しい社会になったとしても、「人間は必ずしも結婚して親とならねばならない」なんて事はないと思います。

この先、もっと皆が好きに「人間的活動」に励むようになって、それに参加する自由と機会が万人に与えられる社会になったら、女も適材適所で生きる方が絶対良いですよね。
特に私の期待している新社会では、恋愛が結婚へのステップになるだろうから、恋愛対象をうまく見つけない限り、結婚から遠ざかる男女が出てくるのは当然のことだと思いますし。
(でも男女交際がもっと自由な新社会では、恋愛対象を慎重に自分で選択できるから、恋愛や結婚から遠ざかる男女は極めて少なくなるんじゃないかと想像します。) 

 あと、社会には昔から何らかの活動に専念して、わざと家庭を持たない男女もいますが、そういう人達も個人の自由意志に任すべきだと思います。

周囲がそういう人たちに無理に「結婚しろ」だの「子供を作れ」だのと強要することはもう辞めてほしいです。
その人たちは、家庭の楽しみ以上に、自分の好きなことをして生きていきたいと思っているんだし、自由にさせてあげることこそ、その人たちの人間性が完全に表現されるんだから周囲がむやみに邪魔しちゃいけないですよ。
私達の社会は、世界中のそういう人たちの貢献や功績があってこそ文化の飛躍をしてきたんだから、世界人類の中にそういう人たちが存在することは、非難するどころか逆にありがたく受け止め、肯定するべきことだと思います。

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まとめ
以上は本当に私の勝手な考察だけど、こうして詰めて考えることによって私は、古石頭の言う「女らしさ」というものが特に女性の上に存在しないものってことを改めて知ることが出来ました。
「女らしさ」というものは、要するに私に言わせれば「人間性」の一部に過ぎません。

「女性を男性と差別し、女だけの生活の原理のように決めつけて、それが備わっていることが女性の最高の価値だ」なんていう戯事は、全くの幻想だと分かりました。
私は、私達が「女らしさ」という言葉から解放されることは「女が機械性から人間性に目覚めること」だと思います。

それはつまり、「人形から人間に帰ること」を意味します。
もしこのことを古石頭が「女性の中性化」と呼ぶなら、私達はむしろそれを名誉に受けとめようじゃありませんか。
「女らしくない」という一語は、昔から、どれだけ女性の活動を圧制して来たか分かりません。
習慣というものは根強いもので、今でも「女らしくない」と言われると、一部の女性はヘビでも投げつけられたように恐縮してしまいます。
でも現代の女性の大多数は、もはや「女らしくない」という言葉なんて恐れない存在です。
それは、もっと恐ろしい言葉に通じることを彼女達が直感しているからかもしれません。

もっと恐ろしい言葉とは「人間らしくない」という言葉です。

「人間らしくない」とは、人間性の破滅を意味します。

私はそれが何よりも現代人にとって、恐ろしい結果であると思わずにはいられないのです。

おわり。
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いかがだったでしょうか。

時代を隔てているせいか、考え方の違いのせいか、与謝野さんのお話の中にはいくつか私の考えとは異なる部分もあります。

(「親になる欲求は人間に備わってるから、女性は完璧な母親になりたがるもの」とか「自由恋愛の時代になったら結婚したがらない男女は少ないはず」とか)

でも全体的な「自由を求める為の主張」は同感できますし、「人々が生殖を避けるようになったとしたら、それは女のせいじゃなく社会の仕組みが悪い」って部分なんて、現代を見透かされてるようで先見の明を感じます。

そしてなにより特筆すべきは与謝野さんの頭の柔らかさ!
特に「出産育児話は女限定の話題じゃないでしょ」とか「本人の好きなことやって生きていきたい人には、無理に結婚を押し付けなくたっていい」という考え方なんて、現代ですら出来ない人もいますもん。
固定観念がガチガチに固まってて、女性が「女の幸せは結婚」とか「結婚したらさっさと子供産まないと!」と言われるのが常の時代に、ちゃんとそれを「うぜぇ」と思う感覚があるのがすごいです。

そして、思うだけでなくそれを発信してたんですから、本当に頭が柔らかいのに心は強くて、まさにハイブリットな人です。

与謝野晶子・ハイブリット・晶子と呼びたい!

 

もし与謝野さんやその後の誰もが「女子解放運動」を起こさなければ、現代の私達の暮らしはもっと窮屈だったと思うので、ずっとこういう声をあげてきた方々に私は感謝してもしきれません。
ありがとう与謝野さん。


と言っても昨年の日本の男女平等ランキングは144国中114位で、まだまだ下から数えたほうが早く、先進国の中ではダントツ最下位です。(与謝野パイセンに会わせる顔がないですね…)

女性に対する性犯罪の被害も後を絶ちません。

さらに世界に、未だ家畜のように娘の婚姻をやりとりする常識だったり、誘拐婚のように女性の人権が全く無視された婚姻方法が残る国もある、ということにも私は胸が傷みます。

 

国際女性デーは昨日で108回を迎えました。

くしくも煩悩の数だけ年月を重ねた今、一人でも多くの方が、我が国や世界で不遇な状況に耐えている女性の身になって未来を考えることが出来ればいいなと思い、今日はこのような話を書きました。

 

与謝野晶子の原文ファンの方、勝手にすみません。

長々とお読み下さった方、ありがとうございます。


ではまた

 

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