1994年にスーパーファミコン用ソフトとして第一作が発売されて以降、来年にはシリーズ25周年を迎える『実況パワフルプロ野球』(以下、『パワプロ』)。
最新作『パワプロ2018』では「VRモード」が実装されるなど、シリーズを重ねるごとに新たな要素が追加されているが、第1作目からずっと変わらないものがある。
それは、実名のプロ野球選手に“能力データ”が設定されていることだ。
自分がひいきにしている選手の能力が低いと「もっとすごい選手なのに……」とグチりたくなるし、能力が高く設定されていても「わかってないな〜」とひとこと言いたくなる「選手の能力データ」は、開発チーム独自の査定によって設定されているとのこと。
この“能力データ”は、プロ野球界でも、選手が冗談交じりに「自分の能力に納得がいかない」と不満を語るケースもあるようだ。
では実際、プロの視点から『パワプロ』の能力データを見た場合、どのように感じるのだろうか。『パワプロ』における自分やライバルたちの能力データは、どのくらい信憑性があるのだろうか。
この疑問をぶつけるに、最も適切な人物とは誰であろう──そう考えたとき、野球界におけるデータのプロとして真っ先に浮かんだのは、プロ野球界のレジェンドにして「ID野球」の元祖・野村克也氏だった。
テスト生としてプロ入り後、戦後初めて、かつ捕手として世界初の“三冠王”や、歴代2位の“通算本塁打数”、“安打数”、“打点数”など、さまざまな記録を打ち立ててきたプロ野球選手である。
現役時代は王 貞治や長嶋茂雄を筆頭に、レジェンド級ライバルたちと切磋琢磨し、監督としてもプレイングマネージャー含め4球団で指揮を執り、多くの選手を育ててきた経験がある。
特に1990年から1998年までヤクルトスワローズで監督を務めた際には、データ重視の「ID野球」を提唱。4度のリーグ優勝と3度の日本一に輝き、一時代を築いた名将だ。
このスワローズ黄金時代は、『パワプロ』が誕生した1994年と、奇しくも同時期。野村氏と『パワプロ』に数奇な運命を感じさせることからも、『パワプロ』の能力データを語るには、うってつけの人物だといえよう。
とはいえ果たして、野村氏にゲームの話が通じるのだろうか……。恐る恐る企画の趣旨説明をすると、どうも雲行きが怪しい。
「『パワプロ』に収録された能力値データを評論していただく企画です」と伝えると、「時代遅れのじいさんだから、ゲームには縁がないから」とお得意のボヤキが炸裂。
続けて「……帰らせてもらおうかな」とおっしゃる野村氏に、あわてて質問を矢継ぎ早に投げかけたところ……なんとそのひとつひとつに、丁寧に返答してくれたのである。
その結果、予定を大幅に超えて、約2時間半に渡る取材となった。
野村氏は『パワプロ』に収録されている、王、長嶋や稲尾、江夏といったライバルたちや、田中将大など教え子の能力データをどう分析するのか。また、最新作では収録されていない、ご自身の能力を設定するとしたら、どんな数値にするのか。
こういった野球の話に加えて、幼少期の思い出や昨年末に急逝された妻の野村沙知代さんのエピソードなど、多岐にわたるテーマで話を伺った。
込み入ったゲームの設定を説明するのはなかなか難しく、「能力データを見ていただきながら、その選手に関する記憶とデータとの乖離点を語っていただく」という形になってはいるが、レジェンド・野村克也が、『パワプロ』のデータについてあれこれボヤく一部始終をご覧いただきたい。
帰ろうとする野村氏を引き止めたのは、教え子・田中将大の話題だった
──今回は、『実況パワフルプロ野球』というゲームに関するインタビューとなります。よろしくお願いいたします。
野村克也氏(以下、野村氏):
……こういう、ゲームなんていうのは、私にはまったく縁がないけど……。
──この作品は、友人と試合で対戦したり、ペナントレースを戦ったり、練習プログラムをこなしてオリジナル選手を作ったりして、野球を存分に楽しめるゲームなんです。
野村氏:
……時代遅れのじいさんだから、こういう新しいものは、よくわからないね。
──そしてこのゲームには、プロ野球選手が実名で登録されていて、さらに各選手の能力がデータ化されているんです。その能力データは、開発者独自の査定で決められているんですけれど……。
野村氏:
…………。
──本日は、この選手の能力データを、ID野球の提唱者である野村さんはどう見るのか? ということをお聞きしたいと思っております。
野村氏:
……帰らせてもらおうかな。
──いやいやいやいやいやいや、そうおっしゃらずに!
こういった選手のデータを把握しておくことは、野村さんが現役と監督時代に重要視していた「準備野球」にもつながると思うのですが……?
野村氏:
……まあ、“備え”の必要性は、選手たちにうるさいほど説いてきたけど。
──野村さんが世界の盗塁王・福本豊さん【※】と対戦する際、試行錯誤をした結果、現代でも使われている“小さなモーションで投げる「クイック」投法”を考案するなど、長きに渡って相手のデータを把握して、その対策をする野球を続けてこられましたよね。
※福本豊
1947年、大阪府生まれ。1968年にドラフト7位で阪急ブレーブスに入団、守備位置は外野手。不動の1番バッターとして活躍。通算1065盗塁、シーズン106盗塁(ともに当時世界記録)、13年連続盗塁王など、盗塁に関する記録を総なめにしている。中曽根康弘首相から国民栄誉賞の打診をされたが、「立ちションベンもできんようになる」と辞退したエピソードが有名。
野村氏:
あの頃は、そんな言葉はなかったけどね。福本の時代は、“覗き”の全盛期だった。昭和40年代は、サインを覗くことが流行った時代なの。
阪急(ブレーブス)【※1】に、(ダリル)スペンサー【※2】って選手がいてね、彼はそういったスパイ行為というか、相手のクセを見つけるのが得意な選手だった。
それをチームメイトがマネしたんだろうね、阪急が野球の質が明らかに変わった。その少し後には日本シリーズ3連覇しているから。
※1 阪急ブレーブス
オリックス・バファローズ、オリックス・ブルーウェーブの前身球団。親会社は阪急電鉄で、1936年に阪神電鉄の大阪タイガーズに対抗するため、阪急職業野球団として結成され、1988年にオリエント・リース(現オリックス)に身売りされるまでの名前。1967年からパ・リーグを3連覇、1975年から日本シリーズを3連覇するなど、一時代を築いた。
※2 ダリル・スペンサー
メジャーリーグのニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)、セントルイス・カージナルスなど数球団を渡り歩いた後、1964年に阪急ブレーブスに入団。1965年には野村氏と三冠王争いを繰り広げた。「巨体で体当たりするラフプレーが彼の代名詞。本塁に突っ込んできたときは恐怖だった」(野村氏)
──そういったデータを読み解く野球をされてきた野村さんに、『パワプロ』に収録された、かつてのライバルたちや教え子、ご自身のデータについてぜひ語っていただきたく思っています。よろしくお願いいたします!
野村氏:
……。
「守りの野球」のために、マー君を育てた
──ではさっそく……たとえば、楽天時代の教え子・田中将大投手【※】。
※田中将大
1988年、兵庫県生まれ。駒大苫小牧高校時代には「怪物」と呼ばれ、早稲田実業の斎藤佑樹との対決が話題となった。2006年に4球団競合の末ドラフト1位で東北楽天ゴールデンイーグルスに入団。2013年には開幕から24連勝の世界記録、初のリーグ優勝、日本一に輝き、MVP、沢村賞を獲得。2014年にニューヨーク・ヤンキース入団。3年連続で開幕投手を務めるなどの活躍をしている。
球が速くて、スタミナもある。下方向の変化球も曲がり幅が大きくて、牽制がうまい、守備の打球反応が良い。ただ、たまにコントロールが乱れてホームランを打たれてしまうこともある──というデータになっています。
野村氏:
マー君、牽制がうまいとは思わないけど。
ただ、彼は良いチームに縁があったね。入団したのが、楽天という“できたて”の、選手がいないチームだった。
プロ野球レベルのピッチャーは岩隈(久志)だけだったもん。当時マー君を一軍からスタートさせたときは、新聞記者からもずいぶん反対されたよ。「やっぱり二軍からやらせたほうがいいんじゃないか」って。
でも、ダントツ最下位のチームの監督をやらされたんで、“勝つ”なんてことは、はなから頭にない。それよりも、「いかにしてチーム作りをするか」だった。それには、まず投手陣からキチッと作っていく。
だって野球は、原理は簡単なスポーツだから。0点で抑えれば100%負けない。10点取っても、11点取られたら負けるのが野球。
V9時代の巨人【※1】でも、O・N(王 貞治と長嶋茂雄)が目立ったけれど、じつは“守って勝つ野球”だったから。
20勝投手が何人も揃っていたし、やっぱり野球は“守って勝つ”のが基本ですよ。あのチームの要は、堀内(恒夫)【※2】を中心とした投手陣だったからね。
※1 V9時代の巨人
読売ジャイアンツが1965年から1973年まで9年間連続でセントラル・リーグ優勝、日本シリーズを9連覇していた時代のこと。王貞治や長嶋茂雄といったスターなどが在籍していた巨人の黄金時代として語り継がれている。
※2 堀内恒夫
1948年、山梨県生まれ。1965年に第一回ドラフト会議での1位指名で読売ジャイアンツに入団。ルーキーながら開幕13連勝、44イニング連続無失点(新人として歴代1位)を記録し、16勝2敗で新人王と沢村賞をダブル受賞。1972年には26勝で最多勝、MVPを獲得。日本シリーズに強く、MVP2回、通算11勝(日本タイ記録)。V9時代のエースとして活躍。投手として史上初の3打数連続本塁打を打つなど、バッティングの能力もあった。2004年から2年間、巨人の監督を務めた。
通算成績:203勝139敗、6S、防御率3.27、勝率.594
──堀内選手は、データでは“コントロールはそこまで良くない”と設定されています。
野村氏:
“コントロールのピッチャー”という印象はないね。やっぱり「球威」。変化球も、“タテに大きなカーブ”とか、いろんな種類を投げていたよ。
──野村さんは、“守りの野球”のために、田中投手を育てる決心をしたんですね。
野村氏:
まあ、まだ彼は若かったけど、光るものはあったし。ふつう監督やコーチは、ストレートの速さを基準に選手を判断することがほとんどなんだけれど、マー君にはスライダーに惚れたんだよ。
このスライダーを中心に考えてピッチングすれば、プロでも通用するなと思った。そして、それはズバリ当たりましたよ。
スライダーに惚れてローテーションピッチャーにしたっちゅうのは、珍しいよね。俺の監督経験では、マー君とヤクルトにいた伊藤智仁【※】くらいだよ。
※伊藤智仁
1970年、京都府生まれ。1992年のバルセロナオリンピックの日本代表に選出され、1大会27奪三振のギネス記録を作り、銅メダル獲得に貢献。同年のドラフトで三球団競合の末、1位でヤクルトスワローズに入団。松井秀喜をおさえて新人王を獲得するも、度重なるケガに悩まされ、実働7年で引退。そのスライダーはプロ野球史上最高と言われることも。
彼と出会ったのは18歳、高校生のとき。ドラフトでスカウトがいろいろ悩んでいたから、「マー君、行ってくれ」と。やっぱり将来性を感じたし、プロらしい雰囲気もあった。
──田中投手といえば、やはり2013年のシーズン通して24勝0敗1Sというすさまじい記録が印象的でした。
このゲームの能力のひとつに、所持しているピッチャーの登板時、打者がよく打ってくれる(味方のパワーが+5される)という「勝運」という特殊能力があります。
ゲームでの田中投手は所持していませんが、実際の田中投手は「勝運」を持っていましたよね。
野村氏:
それはあるね。根拠はないけど、彼は何か持ってた。だから「マー君、神の子、不思議な子」って言っていたけど。
──もしかすると、この能力の上位互換として「神の子」というのがあっても面白いかもしれませんね。
野村氏:
リードされたまま降板しても、なぜか点が入って勝つこともあったね。1年目から先発で使っていて、4回続けてノックアウトされたのかな。「ムリかもしれない」と思いながら、使い続けて、育てようとした。
そんなマー君は、稲尾(和久)【※】と重なる部分もかなりあった。60年間プロでいろんな選手を見てきているけど、稲尾は文句なく“コントロールナンバーワン”ですよ。コントロールといえば、稲尾だね。
※稲尾和久
1937年、大分県生まれ、2007年没。高校時代は無名ながら、1956年に西鉄ライオンズに入団後、1年目から21勝をあげて新人王を獲得。2年目から3年連続30勝を達成、1961年には42勝をあげた。1958年には11ゲーム差から逆転優勝、日本シリーズでは巨人を相手に3連敗した後に稲尾が4連投、4連勝で日本一に輝いた。5戦目には自らサヨナラホームランを打ち、地元新聞に「神様、仏様、稲尾様」と見出しが踊った。
コントロールといえば、稲尾和久。彼はボールと会話をしていた
──田中投手のどんなところが、稲尾投手と重なったのでしょうか?
野村氏:
ものすごい球を投げるわけじゃないけど、「コントロール」と「配球」で活路を見出すピッチャーだから。
でもね、大勢ピッチャーがいるなかでも“アンパイアを自分のペースに巻き込んでいく”というのは、稲尾だけ。
──“ペースに巻き込む”とは、たとえば「少し際どい球でもストライクとコールさせる」ということでしょうか。
野村氏:
外角低めにズバーンと投げて、審判が「ストライク」と言うでしょ。そうなると、「次はこれでどうだ」って、ひとつずつ外にはずしていくの。
それでも球威があってキレもいいから、審判もつられて手が上がっちゃうんだよね。キャッチャーも「バーン!」と良い音で捕るから。
浜崎(忠治)さんっていう、ジャッジが甘い審判がいたんだけど、稲尾が先発で球審に浜崎がいたら、試合が始まる前から勝てる気がしない。「もう、今日は負け」ってなもんで。審判に「外れてますよ」って言っても「入ってます」と言われちゃう。
──このデータでは、「ピンチ」にも「左打者」にも強かった、とあります。
野村氏:
コントロールが良くて自由自在にボールを操るから。それはピンチにも強いし、強打者にも強いよね。
だって、1年に42勝もするんだよ。あれはすごいよな。審判を自分のペースに巻き込んで、もう「ボールと会話してる」って感じだったね。
──変化球はスライダーとシュートの数値が高いです。
野村氏:
基本的には横の揺さぶりで勝負していたね。みんな、稲尾のひとつの球種を褒めるけど、俺は“ペア”の使い方が重要だと思っているんですよ。
「内角・外角」でワンペア、「高め・低め」でツーペア。あとは「速い・遅い」、「ストライク・ボール」。この4ペアの使い方。彼は唯一、この4ペアを使いこなしたピッチャーですよ。
オールスターではバッテリーを組むでしょ。あのときは、もうびっくりした。「ノムさん、外角低めを見ておいて」って言うから、ミットを構えたら「大丈夫、そのへんでいい。動かさないで」って。
そこにバーンと来る。すごいな、と。的当て投法だよね。球がびっくりするほど速いとか、そういうことじゃない。
彼から学ぶことは多かったけど、“ピッチングはスピードよりコントロールだ”って概念は、その筆頭だな。
──その「ピッチングはスピードよりコントロール」という概念は、監督になってからの指導にも反映されていたのでしょうか?
野村氏:
150キロのど真ん中と、130キロの外角低め。どっちが打たれるかってそんなことも考えたけど、やっぱり130キロの外角低めの方が打たれない。そんな話はしたよね。
ピッチャーはみんな速い球を投げたがる。バッターはホームランを打ちたがる。それはもう、諦めろと。
「球が速い」、「遠くへ飛ばす」──そういうのは天性だから努力してできることじゃないけど、コントロールは努力すれば良くなる。努力してできることを課題にして練習していかないといけない。
コントロールが良い東尾 修は、ビーンボールを武器にしていた
──同じように、球はそこまで速くないのに配球で活きたピッチャーはいましたか?
野村氏:
東尾(修)【※】は、球そのものは遅いんだけど、何が良いって「ビーンボール(故意にバッターの頭付近に投げるボール)」。
※東尾修
1950年、和歌山県生まれ。1968年にドラフト1位で西鉄ライオンズに入団。「黒い霧事件」で主力が抜けたチームを支え、1975年に23勝で最多勝を獲得。西武ライオンズになってからは、大胆な内角攻めを中心にした「ケンカ投法」で連覇に貢献。1983年には最多勝と最優秀防御率、MVPに輝いた。コントロールの良さに定評がある一方で、与四死球リーグ1位を二度獲得、通算与四死球は歴代1位。
彼とは最後に西武で一緒になって、同じチームでやっていたときに聞いてみたんだよ。そうしたら、「自分は体も小さいし球も速くないから。荒れ球というか、『油断したら頭を狙われる』というのを武器にしないと生きていけない」って言ってましたよ。
バッターが「ええかげんにせえよ、コラ!」と怒鳴ったら、また投げてくる。ホームランを打ったら、次は頭に来るんじゃないかと思って、腰が引けちゃうんだよね。
──「投げてくるかも」という幻影が手強いんですね。それを表す能力「内角攻め」がついています。でも、意図的に危ない球を投げると、報復を受けたりしますよね。
野村氏:
両軍入り乱れての乱闘は、もうしょっちゅう。東尾は稲尾の影響も受けてるんじゃないの。同じチームだしね。
スピードがないからコントロールを磨いて。インコースの使い方も上手いし。
──コントロールは良いのに、ビーンボールを涼しい顔して投げるあたり、度胸があるからピンチにも強く、「ポーカーフェイス」となっています。