Far East Frontier Blog
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カオス*ラウンジは日本現代美術の優等生であり、pixivは悪い場所の現在形であること。

戦後の日本において、問題は吟味され、発展してきたのではなく、忘却され、反復されてきたということ、そして、いかなる過去への視線も、現在によって規定され、絶え間なく書き直されている以上、過去を記述する条件として現在を前提にせざるをえないということを挙げておく。
(P25)


日本・現代・美術日本・現代・美術
(1998/01)
椹木 野衣

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 たまたま『日本・現代・美術』を読んでいたらカオス*ラウンジが炎上したんですが、果たして今回の騒ぎに乗っかっている人でこの本を読んでいる人はどれくらいいるんだろう、という感想を持ちました。
 日本の美術界が歴史を忘却した「悪い場所」であり、海外と隔てられた「閉じられた円環」を形づくっていることを指摘した本書は美術界では大変評価の高い1冊ですが、この本を読むとカオス*ラウンジが如何に日本の戦後美術の寵児か(もちろん悪い意味でも)ということが分かるし、彼らの活動、および騒動のことごとくに前例があることが指摘できます。そして冒頭の言のように、それすら忘却されている現状があるのです。

パクリ

絶対的な価値の根拠から切り離された近代人の本性を、その「彼方」としての「ポストモダン」状態にまで推し進めることによって、すべての人と事象とを問わず、本物(オリジナル)とか偽者(コピー)とかいった不毛な二元論を超え出た怪物(シミュラクル)に「生成変化」させることを提示し、そのためにはあらゆる現象が、自在に採取(サンプリング)や分断(カットアップ)、そして反復(リミックス)できる原子素までに一様に分解されることを提案した
(P18)


 椹木はこのような概念を「シミュレーショニズム」と呼びますが、これは10年代の私たちにとっては直感的に理解できるでしょう。つまり二次創作のことです。ニコニコ動画などでは、主に東方やボーカロイドのキャラを媒介とする二次創作が盛んに行われていますが、これらは初音ミクなどのキャラを核としながらも、ただのオリジナルのコピーに留まらない多様な魅力を発揮しています。カオス*ラウンジの想像力はこうしたデジタル世代の複製文化――ニコニコ動画やDJのサンプリング――に根ざしており、それに染まった人間の在り方を現代アートに提示しているわけです。

 今回、梅ラボがpixivの他人の作品を無断で素材として使用し、さらにそれにpixivの組織的関与が疑われて炎上しましたが、その結果カオス*ラウンジ作品の「踏み絵」や「水掛けアート」などにも飛び火して非難が集まりました。これらの非難は概ね「他人の作品を切り刻むなんて許せない」「作品に愛がない」「ただのコピペじゃないか」といったものですが、ある意味その反応自体は想定内といえます。むしろ一般人が現代アートを観たときのテンプレといえる。

現代美術の無根拠性

近代において芸術は、キリスト教美術がそうであったような意味では、価値を決定する根拠を喪失している。根拠を喪失しているとここでいうとき、わたしが含めていっているのは、芸術が成立するための根拠それ自体を問うことが近代芸術の条件であるのはもちろんのこととして、それに加えて、体系の体系性は根拠に据えた前提の絶対性にあるのではなく、いかなる恣意的な前提もそれを扱う一定の手続においては十二分に根拠足りうるという、形式化の問題が前面化したということである。
(P38)


 価値の自明性に疑いを差し挟まないことが近代以前だとすれば、それ以後の社会は複雑化していると言えるでしょう。美術においては写真の登場や、デュシャン、ピカソ、ポロックらの活躍が大きな転換点となりました。その転換とは総じて「がんばって絵を描くことには意味がない」というものです。リアリズムの追求ということであれば写真のほうが遥かに優れているし、デュシャンは工業製品の便器ですら美術館に飾ればアートたりえてしまうという「アート」の枠組みそのものを問いました。ピカソはキュビズムで現実的な遠近法を放棄して平面に立体を描き、ポロックはキャンバスに絵の具を垂らすことで「描かないで」表現しました。このように「根拠それ自体を問うこと」が現代アートという「ゲーム」(村上隆)の条件となっているわけです。こうしたゲームのプレイヤーとしてはカオス*ラウンジは優等生であり、かつpixivの萌え絵と違ってアートマーケットで作品を発表するという手続きを踏んでいるので、(ゲームの前提自体がアレだとしても)現代アートたりうるのです。

 したがって同人界隈の「他人の作品を切り刻むなんて許せない」「作品に愛がない」「ただのコピペじゃないか」というカオス*ラウンジ非難は、カオス*ラウンジ単体にとどまらず現代アート界全体に対する嫌悪の表明となるでしょう(この関係はリニアであり切断はあり得ない)。しかしそれは諸刃の刃であることを非難する側は自覚したほうがいい。なぜならば、それらが根拠とする日本近代美術や日本近代文学、オタク文化といったものが、もとを辿れば近代化の折にフェノロサや北村透谷らによって強引に作り出された(起源の捏造)、あるいは敗戦後の欧米化のなかで奇形化した「滅茶苦茶、ばらばら、アンバランス」なものであり、その無根拠さを忘却した欺瞞こそを現代アートは攻撃しているからです。したがってそれらが体現する「美」というのも客観的には無根拠であり、現代アート同様に手続きの問題に還元されてしまうのです。

美とは忘却に基づくものだといってよい。多様の物事が生起する共生状態を忘れること、おのれの内面のとば口に刻まれた深い分裂の傷を忘れること、自分が生まれ、食らい、死ぬ場所が群島であるということを忘れるまさしくそのとき、それら「醜」の要素に代わって「美」が立ち現われるのだ。いずれにせよそれは、トンネルを抜ければそこに、別の人、別の文化、別の言語ではなく、雪国という仮想現実(ヴァーチュアル・リアリティ)を捏造してしまう「美しい日本の私」を生み出すことになるだろう。
(P73)

根拠を要することなく生きていくことが近代人の条件であるというのは嘘で、正確にその条件とは、根拠を要することなく生きていくことが近代人の条件であるにもかかわらず、だれもそのような宙づりに耐えることができないという二律背反なのである。
(P19)



犯罪性とアート 赤瀬川裁判
 同人界隈の狭い見識はさておき、カオス*ラウンジの作品には著作権侵害の問題が残ります。これについては赤瀬川原平の「千円札裁判」が先例になるのではないかと思われます。
 椹木によれば、1960年代に赤瀬川が千円札を印刷したものをアート表現として用いたものが裁判沙汰となり、最終的に最高裁で上告棄却され有罪が確定しますが、この裁判では芸術と法律の位相が争点となりました。結局「『本件模造紙幣』がどのような芸術的評価をうけようとも、それは『既に犯罪既遂後のいわば情状というべきもの』で、『仮に本件模造千円札の製造行為が芸術行為であるとしても、憲法の保障する自由は無制約ではなく、その濫用が禁止された公共の福祉の制限下に立つものである」として、つまり芸術であろうがなかろうが犯罪は犯罪なので有罪となったわけですが、逆にいえば当たり前ですが、犯罪性の有無が芸術性の有無を規定するわけでもないでしょう。

 そもそもなぜ現代アートが犯罪まがいの事件を起こすのかといえば、それは制度としての美術館を否定しているからです。この頃の赤瀬川らは「反芸術」と称して街頭でのパフォーマンスを繰り返していましたが、それは美術館というシステムを批判したという意味でデュシャンの問題系に連なるものだし、安全な箱庭の中で起源を忘却した「芸術」に対するアンチだったのだと言えるでしょう。そのため彼らの活動は街頭に出て、しかもいかにもそれらしくイーゼルを立てることでも、ハナから芸術と程遠い無差別テロを行うことでもなく、その中間領域の微妙な「偽札」や「清掃」などのどっちとも言い難いパフォーマンスを行うことによって、いまだ不確定な芸術/非芸術の境界をめぐる「不在の芸術」を探求していました。椹木によればこうした赤瀬川の活動は、デュシャンの文脈に加えて偽札などに顕著なように、国家による権力の無根拠さ(紙幣制度自体が国家という幻想に担保されている)すらも指摘するものだったのです。

 そしてこれらの赤瀬川の活動とカオス*ラウンジの活動は完全にオーバー・ラップするものです。「アーティストではない(ギークだけど)にも関わらず、アートに目覚めてしまった」という彼らの活動は、美術館ではなくネットを基盤にしているという意味でも、著作権という権力の欺瞞を指摘していると言う意味でも、(それが犯罪であろうがなかろうが)「不在の芸術」を探求していると言えるでしょう。

騒動とアート
 今回の炎上のような「祭り」をカオス*ラウンジはくり返してきていて、それ自体「炎上マーケティング」じゃないかと揶揄されていますが、同時代を生きる村上隆やChim↑Pomなどの活動を見ても、既存の体制の欺瞞を指摘するという性質上、ことあるごとにあちこちで問題を起こすというのは現代アーティストの宿命のようです(福嶋亮大はレディー・ガガをコマーシャリズムを批判するアーティストとしてカオス*ラウンジと比較した)。

 こうしたアーティストの騒動性というのは、近代における日本の芸術黎明期にまで遡れるといいます。日本の前衛芸術はのちの昭和のテロリストたちと同様に、大正期の民衆運動の中から誕生したのではないかと椹木は指摘します。この両者に共通するのは、「上から」のお仕着せの芸術や国粋主義への抵抗として下層中産階級による民衆運動が組織され、そうした民間芸術団体や右翼が「騒動(ハプニング)」を武器としたという点です。そしてその根底に流れていたのが、近代に抵抗する前近代的な仏教思想と、それが近代をすっ飛ばして超国家的な共同体(大東亜共栄圏?)を志向するウルトラ・モダニズムだと言うのです。日本のダダイズムは起源において、このように前近代と後期近代(ポストモダン)が近代(モダン)をキャンセルして結合するという奇妙な誕生の経緯を持っていました。
 このねじれは、騒動性とともに日本の前衛のなかに受け継がれていきます。たとえば戦後の前衛の祭典として名高い「読売アンデパンダン」は、反芸術の実験場として破壊の限りを尽くしたとされますが、それを読売が支えきれなくなって中止になると同時に反芸術の熱も霧散してしまいます。つまり本家フランスのアンデパンダンが近代の超克を目的として継続していったのに対し、日本のそれは結局は近代資本の制度に甘える前近代的な群衆に過ぎなかったという指摘です。

 このような状況は、東浩紀が「動物化するポストモダン」として指摘するように現代においても簡単に指摘することができます。pixivというシステムに依存しながら、ひとたび問題が起こると文句を垂れながら右往左往する「群集」はこの国の民衆像として非常に既視感を覚えるし、またカオス*ラウンジもこうした悪い前衛性を「閉じられた円環」の中で繰り返している――その意味で忠実に「日本的」であると感じます。

本来ならば人のまねをしてでも、近代芸術の原理を地道に習得し、その内部から作品を再構成すべきところを、いきなり近代の超克を使命としていいわたされた若者たちにできることといったら、あらゆる総花的なアイディアを総動員して繰り広げられるテロリズムの文化形態のほかに、いったいなにがあっただろうか?
(P197)



まとめ
 村上隆のカオス*ラウンジに対するテクニカルな批判はこの点につきるように思います。つまり、日本の前衛の悪癖として見られる近代を経ていないが故の適当さと、それに伴なうクオリティーの低さです。昨今の村上はクオリティー重視であり、本人が渡米して変わったと言うように日本の前衛の文脈とは離れているように思います。

 今回『日本・現代・美術』を読んでみて、指摘した点以外にもカオス*ラウンジに共通する点がたくさんありました。出自から考えても黒瀬陽平はこの本を重要なテキストとして参考にしていたように思えるし、天井桟敷を例に出していたことからもこうした日本的前衛を目指していたのではないかと感じました。
 その試みは半ばまでは成功したのではないかと僕は思いますが、著作権問題で躓いて赤瀬川と同じ運命を辿ることになったというのは皮肉といえば皮肉です。
 「仁義」とか「倫理」とか僕は大嫌いだし、そういう批判はナンセンスだと思うのですが(だってそういうこと言うヤツが倫理的だった例しが無い)、そういう日本的大衆の残念さに日本の前衛自体が立脚している構造的問題があるんだな、とこの本を読んで感じました。


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 ZUNがこの件に関して少しだけ言及しているのですが、既に指摘もあったようにこれにはカオス*ラウンジと東方同人を選別して切り分け、東方同人だけを保護するという意図を感じて何だかなぁ…と思いました。
 僕はそれよりも歴史を忘却した「悪い場所」の表現としてはこちらのほうが好きです。

幻想郷は外の世界の恩恵に身を委ねているから自由気ままに暮らせているのだ。その事は、外の世界の品を扱っている僕だからこそよく判る。
 自分たちは幻想郷に閉じこもりながら、外の世界から都合の良い物だけを受け取り、自立している振りをしている。それは、もし外の世界が滅べば幻想郷は道連れになってしまうという事を意味している。その上、幻想郷にいては外の世界に影響を与えることも出来ない。幻想郷に住む者たちが外に出て行かず小さな場所で生活しているのは、それが一番楽である事が判っているからだ。

(『東方香霖堂』)


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  • [ネタ] 今日のカスウジカオスラウンジ雑感
  • ・カオス*ラウンジは他のコミュニティから収奪を行うが故に非難される http://anond.hatelabo.jp/20110802212441  オタクがオタク論が好きなことにつけいり、話をすり替えるいつもの手。ケツを拭けないガキが現代アートを言い訳にしてるだけなことに変わりは無し。 ・カオ
  • 2011.08.03 (Wed) 10:10 | ( ’-’)ノにゃんこい!は来るよ