Far East Frontier Blog
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岡田麿里脚本のノれなさについて ―アニメルカ、girl!、とらドラUST―

 先期・今期はすっかり岡田麿里無双でしたが、そんなアニメも最終回を迎え、ここらで岡田脚本作品の印象についてまとめてみたいと思います。

 とらドラUST
 とらドラ!ファンUST ―竜虎並び立つか?― A

 とらドラ!ファンUST ―竜虎並び立つか?― B

生ぬるい世界
 岡田脚本について先に僕が考えを語ったものとして、nakaiya1546さん、teramatさん、kei_exさんと一緒にやった「『とらドラ!』UST」がありますが、ここではおもに2つの主張を展開しました。

1.『とらドラ!』の世界は現実より生やさしい。
2.少女漫画的な関係性の物語に「成長」は無い。


 これは『とらドラ!』についての印象でしたが、概観しておおむね岡田脚本全般に当てはまる特徴だと感じます。1について、「生やさしい」というのは実感で言えば、現実の難易度が5くらいとすれば『とらドラ!』の世界は難易度3ぐらいで回っているという意味ですが、それは例えば、クラスがみんな仲良しでスクールカーストが無いことや、体育祭や学園祭がたいそう盛り上がっていることなどが指摘できます。こうした特徴は現実の隙間風が吹く教室ではなく、漫画やアニメの定番をなぞっているという意味で「まんが・アニメ的リアリズム」などと呼ばれるものです。

 『花咲くいろは』でも主人公の緒花は祖母の旅館で働くことになりますが、彼女は旅館(会社)の慣習には従わずに個性を発揮し続け、それが作中では賞賛されます。また物語もご都合展開や従業員の逸脱行動が目立ち、トラブルが頻発します。とても現実ではこんな旅館はありえないし、仕事に対する姿勢としても色々間違っているでしょう。
 『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』では、主人公じんたんのもとに幽霊となっためんまが現れたことをきっかけに、かつての幼馴染たちが「超平和バスターズ」を再結成する顛末が描かれますが、この物語自体がある種叶うはずの無い彼らの「願望」を描いたものであり、「生やさしい」世界観を自演的に構築したものでした。

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アニメは嘘と相性がいいっていうか、嘘がないとむしろリアリティがなくなるジャンルだと思うんですよね。なにしろ20分という短尺なので、全体構成の中だけでなく各話単体を考えても、確実に快感を覚えてもらえるポイントを配置しなくちゃいけない。

(『アニメルカvol.4』岡田麿里インタビュー)

 こうした「生ぬるさ」の遠因を僕は岡田のこの発言に見出します。「嘘」というのはおそらく現実離れしたドラマティックな展開のことであり、「リアリティ」というのはそれに伴う自意識的な没入――感動――のことでしょう。物語制作の現場では、よくこのような感情のダイナミズムをグラフに表して、振れ幅の大きいものが良いと言われたりしますが、この「感情のダイナミズムの表現が巧い」というのが岡田の一般的な評価であり、たとえば『とらドラ!』での亜美×実乃梨の雪山対決から大河の告白、最終回へと続く一連の流れなどがそうでしょう。山本寛はこのような脚本の特徴を「キャラクターの心情が『飛ぶ』」として高く評価しています。
 しかし、山本が岡田を買った『フラクタル』は不振に終わります。それは『フラクタル』の物語構造と岡田の脚本の特長がマッチしなかったことが一因だろうと僕は考えます。つまり、現実離れしたドラマティックな展開に感動させるには、視聴者のキャラクター達への没入(感情移入)が必要で、さもなければ生ぬるいという印象に傾き「チョロい話だ」という評価になりがちです。したがって、視聴者の没入を誘うテーマ設定が必要だったと思われるわけですが、『フラクタル』はそのような話になっていなかった。

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「成長」の困難
 感情のダイナミズムで表せば、『とらドラ!』『花いろ』『あの花』といった作品には「成長」というわかりやすいテーマがあり、始点、終点、傾きが概ね決まっていました。それは脚本如何ではなく企画の段階の問題です。脚本家とは水先案内であり、岡田の才能というのはいわば「この2点間にいかに美しいグラフを描くか」というグラフ屋の問題に収斂していたと言えるでしょう。
 だが『フラクタル』はそう単純ではなかった。この作品は山本の「もうアニメは駄目かも知れない」という危機感に端を発しており、物語が無い(日常系、キャラ消費)、あるいはあまりにも容易く物語が成立してしまう(まんが・アニメ的リアリズム)状況へのカウンターとして企図されています。つまり「売らんかな」ではない野心的な作品だったわけですが、そのため東浩紀が原案として提示した世界観は「成長とは、少女をレイプすることである」というような「やさしくない」ものとして描かれ、主人公のクレインですらそれに没入できず煩悶とする様子が描かれる。いわば始点はあっても終点がなかなか定まらず(というか分かりやすい終点をこそ否定して)、岡田がいかに感情のダイナミズムを描こうともそれが迷走して、カタルシスを得られにくい構造になっているわけです。僕はこの『フラクタル』の物語の不可能性への挑戦は先進的でよいテーマだと思っていますが、岡田の持ち味の爆発力とは合わず、キャラ消費という時代の流れを(狙ったけど)掴みそこねたのだと感じています。

 「成長」というのは現代では難しい問題です。社会全体が緩やかに衰退に向かっている日本では、少年漫画的な成長物語自体がある種流動性を免れた、箱庭的な状況でしか成立しえないものになっています。それは必然、外への疎外を暗黙のうちに孕んでいます(「日常」が送れるのはホワイトカラー核家族だけである)。
 こうした中でよりシビアになるのは成長以前にそれを可能にする人間関係の問題であり、これをテーマにしたのが『放浪息子』です。よく言われるように、『放浪息子』の性倒錯というのはそれをアイデンティティとして形成してしまったガチなものではなく、まだ異性装にあこがれる程度のファッション的なものです。思春期の自我の発達に伴う自分の輪郭の不確定さが精神の放浪として描かれますが、それは学校という箱庭においてのみ可能なぼんやりとした悩みであり、作中で登場するトランスジェンダーのカップルのような社会的な傷を引き受けた者とは隔てられています。

 ここにおいて立ち上がってくるのが2の問題で、つまりこういった少女漫画的な(山なしオチなし意味なしの)関係性の物語において成長は可能なのか、可能だとすればどういう形をとりうるのかという問題です。

ヤマカンのやらおん!化
 『花咲くいろは』にはサブキャラクターとして山本寛に似た人物が登場します。彼には小説家として大成するという大望があり、破天荒な言動をとるわけですが、緒花はそんな変わり者の彼にも分け隔てなく接します。彼女は対照的に日々の生活のことで頭がいっぱいなキャラクターですが、それでも地に足のついていない彼をそれなりに受け入れる。つまりこれは、岡田からフラクタルで失敗した山本への「そのままのあなたでいいのよ」という包摂のメッセージにも読めるわけです。
 宮台真司などが指摘するように、一般に男はイデアリスティックに理想を追い求める傾向があり、女は今ここを楽しむ傾向がある。山本にはアニメ業界を変えるという個人的な理想があり、なりふり構っていられないわけですが、それが滑稽でやらおん!などに晒されてしまっているわけです。つまり成長を志す者が嘲笑を受けてしまっている。しかし嘲笑の中にもそんな滑稽さに愛らしさを感じている者は少なからずいるはずで、それは日常やお笑いを楽しむ女性的な感性に通じているように思います。岡田の仕事に対する女性的な考え方が『花咲くいろは』には出ているように感じます。

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腐ィルター的ドグマ
 女性的といえば、腐女子を批評した同人誌『girl!』に「腐ィルター」という象徴的なトピックがあって、受け攻めの好みによる個人的な価値判断によって二次創作の絵柄や性格、関係性までもが細分化するという事例です。これがもし男の子的価値観だったら一次創作に照らし合わせて最も妥当なものが議論されるだろうし、事例は戦国ものだったので史実から正統性が検証されたりするでしょうが、女性の場合検索避けなど個別化の方向に向かいます。つまり客観性や正統性へは注意が向かわず、もっぱら好みや多様性が尊重される傾向があるのです。
 こうした傾向は「文化系トークラジオLife」で鏡リュウジが指摘したマイスピという占いサイトなどにも見られます。つまり「占いは信じるが、どの占いを信じるかは数ある選択肢の中から私が決める」という男性から見ると理解に苦しむ(どうせ自分で決めるなら他人に占ってもらう意味ないじゃん)事態が展開しているわけです。僕はこうした女性性の特徴を社会的コンテクストの否認と個別の価値判断による細分化として見出します。鈴木謙介的に言えば生理的に受け付けるかどうかという問題。そして少女漫画には友達の彼氏や父親、先生から果ては同性愛まで多様な恋愛が描かれています。

みのりん問題
 こうした女性的な感性を踏まえたうえで顧みられるべきなのが、『とらドラ!』の、とりわけ櫛枝実乃梨の振る舞いです。僕の回りでは通称「みのりん問題」と呼ばれています。
 作中での実乃梨の振る舞いは「つじつまの合わないもの」として総括できます。竜児の好意を意識しながらもはぐらかし続けてきた彼女は、終盤に亜美にその事実を指摘されると今度は自分を棚にあげて大河に自分の気持ちをはっきりさせるように迫ります。それは自分に気兼ねして竜児のことが好きと言えない大河に、そんなままではいけないという親友としての思いやりの末の行動でしたが、まぁお前は素直になったのかという話です。この実乃梨の言動に客観的な理屈を付けることは不可能でしょう。結局、彼女は大河のことをそれだけ大事にしていたということなのでしょうが、竜児からしてみれば櫛枝実乃梨攻略というのは、自分とは関係ないファクターでハナから無理ゲーだったわけです(少年漫画的な成長の否定)。

 村上裕一は『アニメルカvol.4』所収の「ノスタルジーの文法」において、大河―実乃梨―亜美の関係を少女から女へのグラデーションで整理しています。それによれば、大河は少女でありイノセンスな感情を司っている一方、亜美は女として振る舞っている。彼女は恋愛関係のもたらす偶有性のアイロニーを理解しており、他者を蹴落とす罪を引き受けて生きている。しかし実乃梨は両者の中間的な存在であり、女に目覚めながらも少女の側に留まろうとしてみんな仲良しの仮面を演じていた。亜美にはそれが苛立たしかったわけです。

 最終的にこの物語を実乃梨の視点から見ると、それはおそらく失恋と、かけがえのない箱庭の喪失になります。言い換えればそれは自分の限界を知り、わきまえるということでもある。そしてこれこそが女性的な価値観における「成長」ではないかと僕は思うのです。言うなれば『とらドラ!』では「分かり合えた」という成長と「分かり合えなかった」という成長が同居しています。『放浪息子』では二鳥が「わきまえる」というのがアニメの結論でした。
 個人的には、わきまえて個別性に落ち着いたその後――『放浪息子』の千葉や、『花咲くいろは』の緒花の母や『あの花』のめんまの母が絶対的他者として立ちはだかった場合のオニババ的女性性について興味があります。それは島宇宙化した世界でどう振る舞うのか、という現実の問題に直結しているからです。

ノれる話
 岡田脚本ではありませんが、そういう意味で『魔法少女まどか☆マギカ』はやっぱり良かった。あれは少女趣味的な女の子の世界を現実に(伊藤剛的に言えばキャラをキャラクターに)ぶつけているからです。

 表題にした「岡田麿里脚本のノれなさ」とはそういうことです。つまり岡田個人の資質というよりは構造的な問題。人によるでしょうが、僕にとって学校的箱庭というのは遠い日の花火なので、もうあまり感情移入もできません。僕はやっぱり自分の身に迫る内容の作品が好きです。『花咲くいろは』は好きなところもあるんですが、もうちょっとハードに作ってほしかったかな。
 震災以降、物語の表現が変わらざるを得ないみたいな話がありますが、それは箱庭的日常系作品については圧力がかかっているので当たり前です。これほど物語に社会性の要請が高まっているのは近年なかったと思う。ただそれは、物語にどうリアリティを取り込むかという『東のエデン』的なラインにはあまり影響はなかった気がします。日本の衰退は規定路線だからです。『電波女と青春男』は、そうした傷を負った人々の日常を上手く描いていて今期ではいちばん好きでした。日常系作品にはキャラ消費をどうこの現実にぶつけるかということを期待したいです。
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