読了―
自分が相手に対して不信感を持っている時、劣等感を持っている時
相手の短所ばかりが見えてしまう時、
自分は悪くない 相手の所為だ と思えてしまう時、
自分だけが特別不幸な思いをしているわけではないという事
相手も自分に対して"そう"思える条件を満たしているという事。
思春期の青少年にありがちな、否、遍く人間が持ちえる迷妄な感情。
例えば、他人に対して「気が利かない」「けちだ」「かまってくれない」等という感情を抱いたとき
自分はその人と同じような行動をとっていないと言い切れるだろうか。
自分も同じような場面を作り上げたことが過去にもあるはずである。
そして同じように「気が利かない」「けちだ」「かまってくれない」と思われていたに違いない。
重要なのはそれに気づけるか否かである。
気づけない人間はいつまでも自分が優れていて他人は自分に対して害を与えてばかりだと思い込むことだろう。
この作品を読んで作中の登場人物達を愚かだと履き捨ててしまう人間程、
自身に対する特別扱いに気づいてはいないはずである。
気づけ。
不幸自慢、最近は特にいい年した大人程そういった傾向にあるように私は思う。
少女は
人の死を身近に感じることで、以前の死から遠い世界より
"高い"世界に上れるのだと思い込む。
蓋し身近な死を体験すれば、ただ人が死ぬだけの小説や映画で涙を流すことは無くなるだろう。
だが、それがなんだというのだろう。
私も、あの類のモノに「感動した」と軽々しく言える人間というのは
死を自分とは全く関係ないものだと考え、
自分よりも弱い人間に対し同情し蔑む意識を持っている人間なのだろうと思う。
しかし、自分には独特の死に対する価値観があり、
それはある事柄によって得たものなのだと俯瞰するような人間が優れているとは思わない。
安易な自己陶酔である。
"終章"でもそれが読み取れる。
「ここでは、いったい誰に合わせればいいんだろう」(p.64)
作中では"迫害"と称して所謂いじめを示唆する言葉がよく出てくる。
実際に"迫害"が行われている場面などは無いのだが、
敦子が"迫害"を恐れて周りに合わせようとする描写は
中高生、特に女子中高生の"集団行動への依存""同調行動"をよく表している。
夏を終え、過去のしがらみから解放された2人ですら、
最後には紫織への"迫害"に加担する形となっている。
紫織が三条・星羅等の人間と関わっていた事や死を悟ったなどと誇示していた事など
2人が紫織を嫌う理由はあっても助ける義理など無い。
しかし、本当にそれでよかったのだろうか。
「死は究極の罰ではない。それなら、死とは何だ。」(p.102)
人の死、この作品のテーマの一つである。
そもそも、互いに想い合っているにも関わらず擦違う事となってしまった2人が
「人の死ぬ瞬間を見たい」
と思うようになったのは友人の自殺を自慢げに語る紫織を見てから。
人の死に触れることで何かが得られるのではと、根拠も理由もなく、
2人は夏休みを使ってそれぞれの場所へ行く。
そこに見られるのは死への憧れなどではなく、単純に10代のフットワークの軽さ
行動の単純さ、ただそれのみで、「死とは何なのか」の答えなど結局最後まで明かされない。
明かす必要も無い。2人も夏が明ければ自分たちが人の死を見たいなどと躍起になっていた事など忘れ
修学旅行に思いを馳せている。
最後まで人の死というくだらないものに拘泥する自分に恍惚とした人間がどうなったか
"遺書"を見れば明らかだ。
本人にとっては大事なのだろうが、呼んでいる側からすれば本当にどうでもいい無意味な事でしかない。
全ては生きている人間の為にしかない。
追記―
この作品を読んで
単純に文章が陳腐だとかそういった感想しかでない人間は、
批判することでしか主張を確立できないような中二病的な人間ではないか。
確かに私も最初は読みにくい文章に戸惑ったが、読み手がちゃんと文章を読んでいれば
近年文学界を跋扈する安易な恋愛小説などとは違って陳腐に見える文章の奥に一定量の作者の知性が感じられるはずである。
最初から最後まで全ての登場人物がつながりを持っている点など、作者が物語を作るにあたって推敲を重ねているのも見て取れる。
人の短所しか述べられない人間など、作中前半部の相手を羨む事しかできなかった少女と同じである。
読んでいてなぜ気づかないのか。
気づけ。
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◆◆読書メーター◆◆
【アニメ版】魍魎の匣 全13話
【文庫版】鉄鼠の檻
【文庫版】文庫版『絡新婦の理』
京極夏彦 湊かなえ 姑獲鳥の夏 魍魎の匣 狂骨の夢 鉄鼠の檻 絡新婦の理
前4作まで読了―
表紙絵から谷崎潤一郎の『刺青』を彷彿したが、全く関係なかった。女郎蜘蛛であることより、蜘蛛の巣に意味があったようだ。
エンターテイメント性の高さを評価すれば、『魍魎の匣』と同じかそれ以上。『魍魎の匣』の加奈子も事件の背景の一つに密接に関わるので、『魍魎の匣』の続編としてのアニメ化も是非やってほしい。刑事・木場が主ストーリーに入り込む事で推理小説的エッセンスが加わり、物語としての面白さは格段に上がる、そして現れては消える犯人・関係者、エンターテイメント性の正体はそこにあるのではないだろうか。もちろん百鬼夜行シリーズは「推理」という要素を重要視しない、犯人の推理ぐらいはできるがトリック(と呼んでいいのかは疑問だが、それ以外の語彙が無いので・・)に関しては推理のしようが無いだろう。
終盤、次々と人が死んでいく場面では『姑獲鳥の夏』を思わせる。今作冒頭部にあるように、(また前4作でも述べられているように)京極堂は自分の関わる事件で人が死ぬ事を好まない、もちろん大抵の人間は人が死ぬ事など好むわけは無いが、彼の場合はその言葉が持つ「呪」で人の生死に大きく影響を与えすぎる。それゆえにいつも事件には関わろうとせず傍観者を決め込むわけだが、最後には事件に関わり、幾人もの関係者が命を落とす。
冒頭部(作品内の時系列では最後となる)では彼の持つ矛盾を"蜘蛛"に指摘される。
他者によって自分の持つ矛盾を再確認させられた京極堂が今後の作品ではどう動くのか、それもまた興味深い。
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【アニメ版】魍魎の匣 全13話
【文庫版】鉄鼠の檻
京極夏彦 姑獲鳥の夏 魍魎の匣 狂骨の夢 鉄鼠の檻 絡新婦の理
ここにきて雑司ヶ谷の登場人物が再登場、新キャラは今川。今後も登場の可能性があるのか?結構萌えキャラだと思います。長々続けた割にオチがアッサリめ。『姑獲鳥の夏』『魍魎の匣』では作中に堂々とタイトル名の妖怪が登場するのに対し本作『鉄鼠の檻』では鉄鼠が誰なのか具体的な記述はない。実際に京極堂によって憑き物落としをされたのは常信だけで、彼は最重要人物の一人ではない。仁秀老人が鉄鼠と解釈するのが自然だが、関口はじめ寺に入った総ての人間を「檻の中の鼠」に例える事も出来る。エンターテイメント性は他の作品に比べ低いが、それ以外の点での「価値」は非常に高い作品。また、一般人が「禅」を理解(と言っていいものか)するのには一番簡単で面白い参考書であるといえる。
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