心のノート
2006-10-17
今日は結局体が動かず、会社をお休みさせてもらいました。無理して会社に行ってだらしないとこ見せるよりはマシかと。
体のだるさなんて、誰にもわかってもらえないもんね。
夜になって少し調子よくなったので、今日のお話。
ここ最近、「言うこととやることが違うこと」について
ちょっと考えてたんですけど、
いつも行っているブログで、それに似た感覚の記事を見つけました。
「ノート見るな!」(やなせ「365日坊主」)
やなせさんは現役の高校生。
とても高校生とは思えない鋭い切り口の文章をほぼ毎日書いてて
「頭いいなあ。天才だなあ。」なんて、いつも感心しきりなんですけども。
「強くなりたい」とか、「優しくなりたい」とか、
歌やブログなどの「みんなの目に触れるもの」の中で
簡単に言葉に出せる人が、どうも信用できない。
そういう人に限ってガッカリな行動を取ったりするんで、
「いったいこれはなんなんだ?」って思ったりしてたんですが、
この記事を読んで、なんかスッキリしたんです。
「自分の気持ちを文字で表現する」というのは、
「自分の気持ちをノートに記す」ということ。
「気持ちを記した言葉を人の目に晒す」と言うのは、
「ノートを提出する」ということだと思うんです。
この記事の中でやなせさんは
ノート提出させる先生に対して、その不条理を必死で説いているわけですが。
ノートなんて授業中のメモでしょ?
自分が解読できりゃ汚かろうが綺麗だろうがどうでもいいことだ。
それを評価しようってのがおかしい。
極端な話、100人が読めなくても書いた本人が読めれば
それで良し。
なのに、教師はノートを集めて評価する。
『字が汚い・見にくい・黒板を正確に写してない』そんなことで。
ひどすぎる! ノートは人それぞれである。
ただのメモなんだから書く内容は違うに決まってる。
自分の知っている事、分かっている事、教科書に書いてあるもの。
これらは書かなくていいはずだ。
(中略)
貴重な時間・希少な紙・大事な体力・大切な鉛筆
これらを無駄にしてまでやることはあるのだろうか?
それでいて、黒板に書いたことをノートに写さないと、減点だ。
僕の考えで言うと、逆じゃないだろうか。
ノートが綺麗→減点
ノートが汚い→加点
これは書き間違いではない。
だって、ノートを書かないってことはそれだけ優秀ってことだ。
ノートを書くってことはそれだけバカってことだ。
まさにそのとおりなんです。
「知ってることは、ノートに書く必要のないこと」。
当たり前のこと、分かりきってることなんて
歌にする必要もないし、ブログに書く必要もない。
つまり、自分にとって「当たり前でないことが言葉になっている」わけで、
「強くなりたいです」「優しくなりたいです」的なことを
公の場で言える人というのは、
それだけそれが「当たり前じゃない」ということなんです。
さらに、やなせさんはこう続ける。
ある掲示板の教師の書き込みだ。
>経験的に言えば、ノートに使う色が多い生徒は成績が悪い。
>書くことで満足してしまうから。
書くことで満足はいけない。
あくまでも手段だ。
憶えたと思ったら書かなくて良い。
知ってたら書かなくて良い。
教科書に書いてあれば書かなくて良い。
めんどくさかったら書かなくて良い。
「書くことで満足してしまうから」というのは、
まさに僕が感じてた違和感そのもの。
書いたことで、書いてある素敵な言葉たちを見て、
自分が「こんなこと思ってる人間なんだ」と、
自分の言葉に酔いしれる。
そして、美しい言葉を言える自分を見て欲しい。
その言葉が立派だからといって、その人を信用してはいけないと思う。
間違っても「素晴らしいことを言ってる」=「素晴らしい人」ではない。
「素晴らしいこと」を記す意味、もう一つの可能性。
それは…
「自分なんてとってもダメ人間ですから」と言いつつ
「ノートを取る側」ではなく「教壇に立って黒板を書いてる側」、
つまり「先生になりきってること」です。
本当にダメだと思ってるなら
おとなしく生徒として授業を受けるべきでしょう。
最後に、こんな引用。
重要なのは「結果」であり、「過程」は人それぞれ。
…まさしく。
重要なのは「行動」という「結果」。
どれだけ素晴らしいノートを取ろうが、
テストで0点を取るような人間であれば、そんなノートは何の意味もない。
それどころか、きれいなノート自体が「恥」になる。
要するに
「素敵な言葉を並べる人には気をつけましょう」
ということで。
ホストとかに引っかかっちゃダメですよん。
参考記事:
「当たり前」を言葉にすること(2006.9.30)
ステッカー(2005.12.15)
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