PV幻想の崩壊という意味合いもあるのでしょうね
ちょっと旬を逃した感がありますが、8月6日のニュース。
マードック氏は決算発表後の電話会見で「質の高いジャーナリズムは高くつく。内容を無料で提供することは、資産を切り売りしているのと同じことだ」と語り、世界の主流となっている新聞社系Webサイトでの記事の無料提供を見直すと明言した。
また「有料化の先陣を切ることで読者の減少に見舞われようともかまわない。もしわれわれが成功すれば、世界中の新聞が追随するだろう」とも述べ、傘下にもつ英国の高級紙タイムズや大衆紙サンなど、すべての新聞を来年夏までに有料化するとした。
紙媒体の発行部数は、欧米の新聞はかなり少なく、ひとつひとつの新聞のターゲットがかなりセグメントされているので(参照)、この出来事を日本の新聞にそのままあてはめることはできませんが、この試みがうまくいくと、やがては日本の新聞社系Webサイトも同じような流れになるのかもしれません。
ほんの少し前までは、わりと牧歌的に、紙の新聞は消え、すべての新聞はPCで読まれるようになると言われてきたような気がします。そして、PCで読まれるという言葉が想定するイメージは、無料で、ということでした。そこに、有料というイメージはほとんどなかったし、また、多くのネットユーザーからは望まれていない雰囲気がありました。
新聞社をはじめとする多くのニュース系Webサイトはコメント、トラックバックなどの双方向機能を強化し、PVの拡大に躍起になりました。なぜPVを上げようとするのか。それは、収益性という視点で見れば広告のクリック数を上げるためです。サイトの広告媒体の価値は、概ねPVとの相関で語られます。多くの人に見られている媒体は、それだけ価値が高く、よってその媒体にある広告枠も価値が高い。つまり、それは「広告モデル」を基準にした考え方です。
この「広告モデル」は、マスメディアと同じように、ネットメディアでも同じように成功すると思われてきました。だからこそのPV獲得施策だったわけで、上記の牧歌的な未来イメージも、じつは、意識するしないにかかわらず、この「広告モデル」を前提に話されてきたのだと思います。Web2.0的言説を支えてきたもの。それは、案外、この従来型、しかも、PV至上主義的な「広告モデル」だったのかもしれません。
そのPV至上主義的「広告モデル」の雄として、Google、Amazonが語られてきたし、ネットサービス各社がPV拡大のために取り組んできた動機は、構造的にはテレビ局各社が視聴率に躍起になっていることと同じで、このニュースの意味は、こうした「広告モデル」が、少なくともインフラ化していない、もしくは検索エンジン、あるいは物流センターを核とした配送システムといったインフラを持たない各Webサービス単体においては成り立ちにくくなってきた、という意味合いで捉えるべきなのかもしれません。
なんとなく思うのは、このまま紙媒体の苦戦が続くと、ネットでのニュース配信はいつか有料に移行するかもな、ということですね。ネットの新聞サイトの広告は、他のポータルへの配信も含めて、PVでも広告媒体の量でも価格でも、わりと飽和点に来ているのではないかという印象を持っています。となると、今のようなネットの新聞サイトは今のままで持ちこたえられるのかな、と思ったりします。
半年前のエントリでも書きましたが、このままではいかないだろう、という感覚を私は持っています。もちろん、「広告モデル」が崩壊するわけでもありませんし、「課金モデル」が主流になるわけでもないだろうな、とも思います。例えば、報道であれば報道というコンテンツが必要とする収益をどこで最適化するのか。その部分で言えば、今の状況で言えば、PVが増大すれば、ロングテール理論のもと、広告収入も安定していき、従来通りコンテンツが成り立っていく、みたいな、これまでのWeb2.0的な流れ一本では最適化できないのだろうな、ということがわりあいはっきりと見えてきたのが、今、という情況なのかもしれません。
私は、従来型のマスメディアにおける広告という分野で長年飯を喰ってきました。私たちと言っていいのかどうかはわかりませんが、少なくともこの広告業界は、ひとつの見当違いをしてしまった過去があります。それは、インターネットというものをメディアであると思ってしまったことです。だから、広告業界はインターネットにメディアをつくることから逃げてしまった、もしくは、出遅れてしまった。戦後、あれだけマスメディアの成長に寄与してきた経験があるにもかかわらず。
そんな従来型広告業界の目線からは、ひとつだけ見えることがあります。それは、非常につまらない言い方になってしまうけれど、「バランス」ということで、ひとつひとつのメディアに求められる「バランス」のために日々の仕事の継続の意義があり、その均衡がメディアをつくってきているということで、その均衡は、コンテンツ制作者、視聴者、社会の3者の力関係の均衡です。また、もうひとつのレイヤーでは、質と量の均衡があり、その2つの均衡の余剰価値としての広告であるということ。また、その戦後からの歴史は、今の言葉になぞらえると、PV至上主義の成功と失敗の歴史でもあります。また、日本のメディア史というのは、きっとその繰り返しの歴史でもあるのだろうとも思います。
私は広告コンテンツを作る制作者ではありますが、あえて言うと、だからこそ、このブログでは意識的に、広告の下部構造としてのメディアを自分なりに考えてきました。その考察から、なんとなく見えてきたのは、日本の広告業界の良質的な価値は、そういう余剰価値としての広告というスタンスで、メディアにかかわってきた、という部分であろうということでした。余剰価値としての広告の価値をつくるために、回り道をしてでもメディアを育てようとしてきた。「損して得とれ」ではないけれど、そんな戦後の広告業界というのは、世界的に見てもたいしたものだな、という思いが私にはあります。
けれども出遅れてしまったからこそ公では発言しないことでもあるのでしょうし、発言すれば既得権益層だと言われそうでもあるし、また、今の情況で、ほんとうに答えが見えないということもあるのでしょうし、あまりよくわかっていないということもあるにはあるのでしょうが、まあ、わりあい身軽な私のような者がこうしたニュースに反応してブログで何か書くということも、なにかしらの必然があったりもしたのかな、とも思っています。
では、引き続き、よいお盆休みを。本日は、私ものんびりお休み中です。
■関連エントリ
・広告代理店って、何を代理しているのだろう。(1)
・広告代理店って、何を代理しているのだろう。(2)
・広告代理店って、何を代理しているのだろう。(3)
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