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2007年11月 7日 (水)

別にキザなことを書くつもりはないけど、いろんな意味で、広告と恋愛は似ていると思います。

 広告は愛だ。とか。広告は企業から消費者へのラブレターである。とか。そんなことを書くつもりはありません。当方のリアルな姿を知る人が見たら、何をかっこつけてんだよ、なんて言われそうだしねえ。なんか、ブログではぜんぜん違うんだね、ふふふ、ってのがありありと思い浮かぶし。

 ということで、なぜ恋愛と似てるか。まあ、結論から言えば、理屈じゃないってことですわ。例えばね、ある人を好きになって、いろいろと考えるよね。その人は何が好きなのか。その人に恋人はいるのかいないのか。自分はその人にふさわしいのかどうなのか。あらゆる状況を考え抜いて、ああ言われたらこう言う、みたいなこととか、ああしてこうしてああなって、みたいなことをシミュレーションして、でもって、告白する。でも、いくら考えたこところで、理屈とか関係なしにふられる時はふられますわな。あいつより絶対俺の方がいい、あらゆるところで秀でている、なんて叫んでみても、しょうがないわけでさ。

 でね、わりと若い人なんかは、特に考えすぎるタイプというか、文学とかを読んで頭で恋愛が分かった気になっている青年なんかは、現実の恋愛がうまくいかずに悩むんでしょうけど、それは、考えすぎるからだと思うんですね。考えを過信するんですね。かつての私なんかは、まさにそんなタイプですわ。もうね、典型的。とほほ。

 広告のコミュニケーションも、インタラクションであると『場、表現、インタラクション』というエントリで書きましたが、インタラクションって、発信側と受信側の非対称性が前提ですよね。非対称ということは、未知な部分を持った相手なわけですよね。恋愛と一緒なわけです。どう反応するかなんて分からない相手なわけですよね。それが、生きている感情を相手にするってことだと思います。

 マーケティングでターゲットを詳細に分析して、こうしたらああして、ここでエンクローズして出口ふさいで、きっとこの時はブランドに夢中だから、ここでベネフィットを教え込んで、みたいなことを一生懸命考えますよね。それはすごく大事なことだと思うし、それをやらないのは怠慢以外の何者でもないと思うけど、消費者には奥の手があるんです。将棋盤をひっくり返すという奥の手があるんです。ゲームから降りる権利を消費者は持っているんですよね。これを考慮に入れないあらゆるマーケティング理論は絶対に消費者に裏切られます。

 最近はあまり言われなくなったけど、いわゆるマーケティングでガチガチに固めて、ベネフィットを見事なアイデアでわかりやすく斬新にメッセージする広告が、マーケッターや制作マンの期待に反して、たいしたスコアを取れない原因を「知的嫌悪」というワードで表現したりします。知的嫌悪というのは、理屈はわかった、ベネフィットも理解した、つまり、知的には了解したという上で、これは嫌いだ、ということを表す言葉。つまり、積極的に嫌いという意味ですね。そして、嫌いという心理は、やがて無視という行動につながっていきます。

 糸井重里さんが「ほぼ日」の「今日のダーリン」で、飽きるということを飽きずに考えてきた、とダジャレ半分で書いていました。以下、一部引用します。

ってことは、ふつうにしてたら「飽きる」
ということなんですよね、人は。
ふつうにしてたら、人の興味は「飽きる」に向かう。
そのほうが自然なのだとしたら、
その自然について、もっと理解していたいです。
でもね、「飽きない」が自然で
「飽きる」が不自然だというふうに、習ってこなかった?
だから、「飽きる」を軸にした思考が育たなかったんだ。
などということを、ぼくは何十年も‥‥
(もうオチ、わかったよね?)
飽きずに考えてきたんです~~っ!
「飽きたってやる」もあり「飽きずにやめる」もありうる。

ほぼ日刊イトイ新聞』11月05日「今日のダーリン」より

 ほんとそうだと思います。人間は飽きる生き物だし、嫌う生き物なんですね。で、飽きるも、嫌うも、理性ではなくて感覚なんですね。当然、はまるも、好きも、感覚ですけど、こちらはポジティブな心の動きだから理論化が簡単。でも、その逆作用である、飽きるも、嫌うも、理論化は困難で、それは、好きになるという心理プロセスを精緻化した理論を、いとも簡単に裏切るんです。

 よくね、若いコピーライターの人が感銘を受ける言葉に、前段に書いた「コピー(広告)とは企業から消費者へのラブレターである」というのがありますよね。こう書くと、コピーライターは、すごくいい気分になるんです。でもね、あえてネガティブなことを言いますが、そうして一生懸命に書いたラブレターが「このラブレターきもい」って簡単に言われちゃうのも広告コピーであるんです。残酷だけど、それが広告の現実です。糸井さんが書いていた飽きるということに関して言っても、面白すぎるものは、すぐ飽きる、というのも現実であって、特に長く運営していくキャンペーンなんかでは、じつは、この設計というか頃合いがいちばん難しいと思っています。

 じゃあ、どないせえっちゅうねん。その答は、ケースバイケースなんでしょうね。きもい、うざいと言われないために、そのときそのときで考えていかないといけないし、考えすぎて、こちらの考えを過信しすぎてもいけないし。私なんかは、何年経っても、いまだに、どないせえっちゅうねんの連続です。ほんと広告って難しいなあと思います。

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コメント

こんにちは~
わたくしはCRじゃありませんけど、このお話、すごーくよく分かります。腑に落ちる感じ。
話変わって、もし息子がいたらぜひアドバイスしたいと思っていることがあります。「好きな子に、きもい、うざいと言われても『好きだ好きだ』といい続けろと。あいつより絶対俺の方がいい、あらゆるところで秀でている、なんて叫ぶな。自慢するな。相手を大事だと思う気持ちと、それを伝え続けることが一番重要なのだ」と。
思うに、わたくしが好きな広告と言うのはたいてい、企業が真摯に生活者に「あなたのためにベストを尽くします(尽くしています)」というメッセージだったりします。

投稿: tom-kuri | 2007年11月 7日 (水) 11:10

十年ひと昔前、eメールのマーケティングを始めたとき、eメールでプロモーションするのを説明するのに、「eメールで生活者に恋文(ラブレター)を書くのです」と企業担当者に話していました。
いまや、eメールのプロモーションといえば、スパム汚染で惨憺たるものですが、根本はこの心を失いたくないなと思っています。
その時から、CMはどうなんだろうとずっと気になっていたので、今回の記事は、とても共感しました。

投稿: 喜山 | 2007年11月 7日 (水) 11:20

tom-kuriさま、こんにちは。
そうそう自慢がいちばんいけませんよね。でも、自意識がじゃまするんですよねえ。ついつい自分語りやっちゃいます。反省です。
広告は、いまは企業の主体性が感じられるものじゃないと届かないような気がします。いままでだと、この広告をつくっているクリエイターは、で届いてたけど、今は私=企業はというのが感じられないとしんどいかな、なんて思います。

投稿: mb101bold | 2007年11月 7日 (水) 14:16

喜山さま、こんにちは。
結局、eメールもウェブも地上波も新聞も、広告コミュニケーションということでは基本は変わらないと思うんですよね。ウェブ広告関連のことを最近考え続けていますが、今は過渡期だからいろいろ言われますけど、まあ、広告は広告だな、と思います。そして、広告は基本、恋文なんですよね。

投稿: mb101bold | 2007年11月 7日 (水) 14:28

いい恋愛を。

投稿: | 2007年11月 7日 (水) 16:56

そっちは苦手ですけど、がんばります。

投稿: mb101bold | 2007年11月 7日 (水) 20:34

mb101boldさん、こにゃにゃちわ。
最近読んだブ米に、
「あなたのことがもっと知りたい。」は恋で、
「あなたのことはもうすべてわかった。」は
別れ。

というのがあって、広告って
「あなたのことがもっと知りたい。」と思ってもらい続けることがキモなんだ。と思いました。

企業のイメージ広告なんかは、これなんですよね?きっと。

投稿: ggg123 | 2007年11月 8日 (木) 09:49

ggg123さん、どうもです。
「あなたのことはもうすべてわかった。」が別れ、というのは言いえてますね。
そうなるとブランドは消えていくんでしょうね。熱しやすく醒めやすい恋か、長くつづく恋か。
最近はでもPOSシステムとかの関係で、長くつづく恋は成立しにくくなってますね。それも、なんか似てるなあなんて。

投稿: mb101bold | 2007年11月 8日 (木) 14:44

はじめまして

「広告」というビジネスに約二十年関わって約十年位前に、広告業界から足を洗ってマーケティングの仕事に転職しました。

今でも「広告」という言葉を目にしますと、反応してしまいます。深く関わって自分の成長に様々な影響を与えたからだと思います。

「広告」から足を洗おうと思ったのは、多分自分の場合、それが「片想い」であることを誤魔化せなくなったからだと思います。

自分が生活者を思い広告を造る程、生活者は広告に対して冷静であるというギャップが増えていったように思いました。

広告という形式は、現代社会に不可欠の様式でありながらも、ロスの多い形式であることに企業も生活者も気づいていて、広告に携わる人々もまたそれを知ってる難しい時代に「広告」は直面していると思います。

人は誰もが「恋愛」できるのではなく、恋愛の才能のある人が恋愛できると思う自分は、アンチ・ロマンであっても「広告」を今は生活者として注目しています。

考えさせられる記事を読ませていただきました。拙いコメントで失礼します。

投稿: チャーリー | 2007年11月10日 (土) 10:47

チャーリーさま。

現代という時代は、おっしゃるとおり、広告にとって非常に難しい時代なんでしょうね。

私は社会人としてバブルを体験していない世代で、広告の良き時代を経験したひとつ上の世代と違って、良き思い出だけで生きていくわけにもいかず、その分、広告に懐疑的にというか批評的になってしまいます。

広告は望む望まないに関わらず変わっていくと思います。であれば、良い方向に変わっていく道はないかと思いながら、悪戦苦闘する毎日です。

コメントありがとうございました。業界の先輩の言葉として、胸に迫ってきました。今後ともよろしくお願いします。

投稿: mb101bold | 2007年11月11日 (日) 02:49

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日々漠然と感じるもどかしい想い。 考えても考えても正解にはたどり着けない。 っていうか正解なんてないんだろうし。 例えばね、ある人を好きになって、いろいろと考えるよね。その人は何が好きなのか。その人に恋... [続きを読む]

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