あまりにも「値ぶみカメラ」が酷かった事について

「藤子・F・不二雄のパラレル・スペース」の第1回「値ぶみカメラ」を見ました。
僕は「てれびのスキマ」を更新する際に決めていることがあります。
それは、何かを批判しない、ということ*1です。
個人的には、ネット上で交わされる批評に価値がないとは思いません。
けれど、ネットの表現において、単なる批判ではなく正当な批評として受け取られるには、相当な技術と説得力が必要で、僕にはそれがあるとは思えないからです。


それでもなお、先日放送された「藤子・F・不二雄のパラレル・スペース」の第1回「値ぶみカメラ」の酷さには目をつぶれません。正直、ここまで観ていて不愉快な気持ちになった作品は久しぶりです。
単なる駄作ならいくらでもあるし、何かの作品を観るという行為は、そういった駄作も含めて観ることこそが、良い作品に出会った時の喜びを増すものだから全然構いません。

例え、どんなにつまらない映画があったとしても、批評するオレよりも映画のほうが上だ! 
もし、映画がウンコでも、オレはそれをエサにしてしか生きていけないハエなんだ。批評することは簡単だけど、創ることは難しいぜ!

というエガちゃんの言葉*2もあります。
たとえ、駄作であっても、作り手がある想いをこめて作ったものなのだから、それを尊重し、「ああ、つまらないな」と思ったとしても今回のように不愉快になることはあまりありません。
けれど、この作品には、作り手のそういった誠意が全く感じられませんでした。
作った本人は「実験的」だとか「新しい表現」だとか思っているのかもしれないけど、「原作どおりのコマ割りを再現」*3なんてのは、漫画原作を映像化する際、誰もが一度は思いつき、すぐさまそんなもの巧くいくはずがないと一瞬で気付く、小学生以下の思いつきだと思います。
これって、たぶん「私は原作をリスペクトして尊重していますよ」っていうポーズだけで、結局は原作はもちろん映像表現そのものに対しても侮辱している行為だと思います。
gryphonさんも引用しているこのドラマに対する演出家・箭内道彦の言葉「出た人が楽しければそれで良い。観てる人は関係ない」というのが、もし失敗作であることを自覚しての苦し紛れの言葉でなく、この作り手の本音であるとするならば、もう二度とプロの世界で作品を発表しないでほしいとただただ願うのみです。


予告を見る限り、この演出方法がシリーズを通してのコンセプトではないと思うので、演出家の変わる次回以降は、きっとこんな気持ちになることはないでしょう。
けど、なんでこれを第1回にしちゃったの?
これのせいで、第2回以降の視聴者はかなり減ることは確実じゃないか……。


最後に大根さんのブログから「橋本忍と、師である伊丹万作との【原作物を脚本化する】ことについての会話」を孫引きします。

伊丹「原作物に手をつける場合には、どんな心構えが必要と思うかね」
 瞬間だが私は正座のまま両腕を組んだ。
橋本「・・・牛が一頭いるんです」
伊丹「牛・・・?」
橋本「柵のしてある牧場みたいな所だから、逃げ出せないんです」
 伊丹さんは妙な顔をして私を見ていた。
橋本「私はこれを毎日見に行く。雨の日も風の日も・・・あとこちと場所を変え、牛を見るんです。それで急所がわかると、柵を開けて中へ入り、鈍器のようなもので一撃で殺してしまうんです」
伊丹「・・・・・」
橋本「もし、殺し損ねると牛が暴れだして手がつけられなくなる。一撃で殺さないといけないんです。そして鋭利な刃物で頚動脈を切り、流れ出す血をバケツに受け、それを持って帰り、仕事をするんです。原作の姿や形はどうでもいい、欲しいのは血だけなんです」

*1:ちょっとした不満とは思わず書いてしまうことはあったかと思いますが。

*2:「江頭2:50のエイガ批評宣言」より

*3:もしかしたらこの演出が何か深い意味があるのかも、と微かな希望を持って最後まで我慢して見たら、もっと不愉快な映像が付け加えられていてさらに怒りがこみ上げてきた。