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メタユートピア/ゾーニング/テクノロジー

以下現在書いている原稿用のメモ。

メタユートピアとゾーニング

メタユートピアという言葉がある。ロバート・ノージックによる論が有名であるが、リベラルな社会においては多様な価値が混在しており、人々は同じ価値を認め合うものどうしが自発的な共同体を作り、すみわけを行う。そしてそのことを認める包括的な社会の存在をメタユートピアと呼ぶ。
メタユートピアは、その表象に目を配ればゾーニングと大差なくなる。ゾーニングもまた、社会設計として同じ価値を共有するもの同士の結合とそうでないものの分離を容認する。

「公共性」論

「公共性」論

この本における稲葉のメタユートピア論によれば、両者における決定的な差は、管理人の有無と言えるかもしれない。ユートピアにはいざとなったら社会の全体性―生活世界に対する「システム」―にコミットする「管理人」たちがいる。ところがゾーニングには、どうゾーニングするかを決めるデザイナーはいたとしても、その後の全体性の確保については想定されていない。
稲葉は「公共性」を、生活世界とシステムの間の緊張関係だとしている。個人が自分の認知限界を超えて他者と協調し、不可視なシステムに再帰的にコミットしようとするためのその条件。だとするならば、メタユートピアにはごくわずかながらもそうした公共性を持った人間が存在するが、ゾーニングの思想において公共性を担保するメカニズムは、必ずしも自明ではない。

多様な価値の共存を認めることで、その先どこに行き着くのか。宮台真司はそれを「島宇宙化」と呼び、バラバラの共同体の間に断絶を見出した。一方で東浩紀は(『「公共性」論』における稲葉的解釈を挟めば)公共性の必要性そのものを梯子外しする。彼はシステムへの再帰的なコミットの必要性を疑う。すでにシステムは生活世界を十二分に侵食しており、再帰的ならずとも、「動物」的に生きようとも我々はシステムに「自然に」コミットしているのではないか、と。

宮台は共同体間の断絶を生み出すゾーニングを否定するが、少数のエリートによるシステムへのコミット、それによる社会全体の管理という図式は否定していない。一方で東浩紀はゾーニングをデザイナーが正しいデザインを行えば、という条件付で容認しているとも言える。

メタユートピアか、ゾーニングか。少数者によるシステムへのコミットか、動物によるシステムの回転か。
どちらが良くてどちらが悪いという話をするつもりは、ここではない。ただしどちらにも共通する問題が存在する。

ユートピアの破壊/からの離脱―公共性とテクノロジー

宅間守はユートピアの破壊者であった。小学校というユートピアを、自分の住むユートピアを抜け出し、破壊した。彼の住んでいたユートピアは、少なくとも彼にとっては不全を起こしていた。だが彼はそれをどうにかする手段―ユートピアのシステムへのコミット手段―を持っていなかった。本当に持っていなかったのかどうかはわからなかったが、真っ当な方法で社会に参与することを想定しなかった。代わりに、異なる価値を持つユートピアを、小学校という共同体を破壊する道を選んだ。
彼はユートピアの破壊者であると同時に、ユートピアからの離脱者でもあった。「脱社会的存在」である。この国がメタユートピアなのかゾーニングなのか何なのかはわからないが、宅間守はメタユートピアの管理人による手当てから漏れた者であり、動物として生きるにもまた満足し得ない者であった。

システムへのコミット手段を失い、かつそのことに気づいてしまった者。そうした者はその共同体から抜け出すか、自分の共同体に八つ当たりするか。宅間守はその両方を同時に選択した。だからこそ犯罪史上に名を残す稀有な存在となったのだが、たとえ両方の選択肢を一気にとらずとも、どちらかの方法で、システムへの再帰的なコミット可能性―「公共性」―の喪失を顕す者は多くいる。

こうした人間への手当てを、メタユートピアもゾーニングも、そのままでは解決できない。そこで投入されるもののひとつが、テクノロジーだ。

ただしこの記事のような使い方では、根本的な解決にはもちろんならない。「セキュリティ」は所詮共同体の壁を引き上げて、ユートピアの破壊者の矛先を別の共同体へと変えることしか出来ない。そして共同体内部からそれを破壊しようとするものには対処出来ない。あくまで宅間のように「抜け出し」「破壊する」二つの選択肢を取ったものにしか、効果はない。
必要なのは、「公共性」を喪失した人間への手当てであり、システムへのコミット可能性の提示、ないしは喪失感そのものの消去である。痛みの原因になっている病を治す薬の処方箋を書くのか、痛みそのものを麻酔で消すのか。
この国の社会の流れとしては、麻酔を打つ方向に向かっているように思われる。その一方で、処方箋を求める声も、次第に大きくなっているように見える。少なくともテクノロジーは今のところそのどちらにも大して寄与していないように思われる。痛がっている人間がどこかにいることを、我々に忘れさせようとしているだけだ。