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唐草銀河

あやとりゆめむすび


柘榴の帯~あやとりゆめむすび裂織(さきおり)~


             

 快いものがくるまれているのだとおもっていた。過去と未来、そして何よりも美しいものが、たとう紙に包まれてそこに在るのだと、ずっと信じてきた。
 風がすうと綾子の黒髪をさらう。
 薄青の空に鬼しぼ縮緬のような甍雲がこごっている。綾子は箪笥から取り出したたとう紙を畳において窓をしめた。
 正座をして衣装敷きのうえに改めて帯の入ったそれを置きなおす。ひと息ついて、長方形のたとう紙の下辺についている紐を片手でついと乱暴に引っ張りあげた。美濃和紙に切り込みを入れ、裏で留められた平紐は滅多なことでは外れない。だが、あまりにも粗忽なふるまいだ。蝶結びが解け、白い紐は結ばれていたところだけ細くなった元のかたちを保って蛇行している。
 それを見た綾子はふっと笑い、首の後ろの熱を逃すように襟足にかかる髪を手の甲で払う。ふだんは夜会巻にしたりお団子にしてまとめている。今日身に着けたのはボートカットのボーダーシャツに紺のカーディガン、したはジーンズだ。化粧もろくにしない。誰にも会わなければそんなものだ。
 十月も半ばを過ぎてすっかり秋らしくなり髪をおろしていても平気になった。今年は十年ぶりの冷夏だそうで着物で過ごしてもいくらか楽だった。とはいえ、毎年地球はどうなってしまうのだろうと思うほど夏は暑い。
 かるく頭をふってからあらためて居住まいを正し、今度はきちんと結び目の上にかるく左手を添えて紐をほどく。綾子は基本、片手でものごとをしない。そう躾けられたせいでもあるし、職業としての鍛錬でもあった。
 和紙のおもてには「御誂」と「様」いう文字があるだけだ。呉服屋の名前などは入っていない。これは結婚してすぐのころ綾子の義母が自分の帯を丸洗いして仕付け糸をしなおして贈ってくれたものだった。
 新品じゃなくて申し訳ないわと遠慮がちに口にした義母のぎこちない笑顔を綾子はよくおぼえていた。お下がりを、まるで嫁入り道具のようにきちんとしてくれた心遣いが嬉しかった。
 まだその当時、綾子は呉服会社の事務員で、今のように店長として着物で暮らしてはいなかった。それでも帯が増えれば着こなす楽しみはます。だからありがたく、大切に締めていた。
 黒繻子に柘榴の実の刺繍がされた名古屋帯は、いくらか時代を感じさせるものではあった。けれど綾子にはそれがかえってよく似合う。手の込んだ刺繍帯のこっくりとした色彩と黒繻子の艶やかさを綾子はとても好きだった。だからこそ、宝石に似た柘榴の粒が映えるよう全体の色数を極力おさえ、髪に挿す櫛はもちろん鼻緒の色まで揃えていた。
 綾子はきものを着ることを物語をまとうことだと教わった。着道楽の祖母が帯ときものの色味や柄をあわせながら、櫛や指輪に至るまで自分好みに語りおろすひとだった。
 きもの姿の格は帯が決めるということも、言葉ではなく、帯合わせのなかで気づかされた。結婚式やパーティーに参加するときの鳳凰の柄の袋帯、お茶席用の帯、近所にお買い物にいくときにさっと締める博多帯、のせる帯を変えるだけでまるで違う着物に見える驚きを、目の前でたくさん見せてくれた。
 義母もやはり着物が好きで、小紋に名古屋帯を締めて歌舞伎座や寄席に出かけた。背が低くとても華奢で、身幅の狭いきものを人形のように身につけていた。猫背のせいか胸前に皺が寄って余計に年をとって見えるので、綾子は補正パッド入りの肌襦袢をプレゼントしたことがある。
 受け取った義母は、あらあら、もうおばあちゃんなんだから花嫁さんみたいに晴れ晴れしくしなくてもと肩をすくめた。綾子が口をひらく前に、でもこれは有り難くいただくわね。さっぱりした笑顔でそう言った。
 綾子はおかげで店を任されてからお客に踏み込みすぎる失敗をしないですんだ。似合うように、もっと綺麗にという願望を誰もがもつわけではない。儀礼で仕方なく着るひともいる。少しでも好きになってくれたらと願いはするが、ひとにはひとの暮らしがあり、ものとひとが出逢う時機もある。
 義母はそれでも、あんまり古いものばかり着てたら役者さんに悪いからと、綾子の店で帯を仕立てたこともある。もともと口数の少ない質ではあるものの、贔屓の役者についてだけはいくらか熱っぽく語ることもあった。綾子もお芝居を観るのが好きだったので、いっしょに出かけたりもした。
 都会にひとりで出かけるのが苦手な義母は電車の乗り換えにも難儀するようだった。結婚をして、今までお友だちに連れて行ってもらっていた歌舞伎座へ綾子と行けるようになるととても喜んだ。綾子さんは明るくで華やかで一緒にいて楽しいわと何度も同じ言葉を口にした。
 義母は、きっと綾子さんは気に入ってくれるとおもうのよ、そう言いながら洒落た袋物やデパートで買った御菓子を渡してくれた。ときには庭に咲いた花木を新聞紙にくるんでもたされた。珍しくて可愛いからと園芸センターで苗を買ってきて次の年にはもう横文字の花の名を忘れてしまうくらいいいかげんなのに、庭に花を絶やすことはないのが義母らしかった。綾子さん、お花好きでしょと微笑んで、お花でも小物でも、きれいなもの可愛いものを見つけると綾子さんのために買ったり取っておくのと教えてくれた。
 柘榴の帯はだから、義母のいちばんの気に入りだった。
 綾子は四つ手とも呼ばれるたとう紙の、左右の部分をとめる紐もほどく。それから折り重なる部分を丁寧にひらく。上下左右にひらいた和紙のまんなかに名古屋帯の背が、うずくまっている。袋帯用のたとう紙なのでいくらか両端があまっているのに身をこごめたように見えた。
 名古屋帯は袋帯と違う畳み方をする。
 胴体に巻く部分が半分に折った形で仕立てあがっている。それゆえに袋帯とちがって四角四面にはおさまるはずもない。
 綾子は店長になるまで名古屋帯をあまり締めたことがなかった。全通の袋帯のほうが柄出しも楽で扱いやすいのもあった。しかし、いざ自分が売る側となって、年配者に馴染みのあるのは名古屋帯で、そうなれば使い勝手を知るためにも必要だった。
 店頭に立つようになると、押し出しがよく華美な装いの似合う祖母よりも、普段着の多い義母の着こなしのほうが参考になった。デパートの呉服売り場をふたりで冷やかしたりすることも楽しかった。
 春から義母とは一緒に出掛けていない。
 綾子はため息をつくかわりに柘榴の皮の部分を指先でそうっと撫でた。赤と朱、うっすらと卵色の混じった刺繍糸はゆびのはらに快い。黒地に赤い果実をうつす帯はきりりと着物姿を引き立てた。
 きれいでかわいいものが好きな義母は、自分のためにはもっと地味なものを選ぶ。これは婚家からの贈りものだそうだ。柘榴の実は子だくさんを意味する。結婚に相応しい祝いの品だっただろう。
 九月始めにこの帯を締めるのは結婚してからずっと変わらないことだった。それなのに十月になってもまだ、これを締めていない。きものの季節は遅れてはみっともない。だからいつも十一月半ばには仕舞いにしていた。
 綾子の手が、帯の背の山になった部分を撫でた。
 頬にかかる髪を耳にかけなおす。やはりまとめていなければ下を向いたときにうるさい。
 休日に帯の入ったたとう紙をひらくのは、もちろん着物の準備をするためだ。お店に立つのに同じ格好ではいられない。
 マンションの和室に正座して、二棹ある箪笥から天気予報と睨めっこして約一週間分の着物と帯を揃えるのは仕事ではなく趣味だった。
 今日はでも、ため息しか出てこない。
 明後日すこし気の張る相手と会う予定だ。養蚕教師をしている夢使い、名を大桑糺(おおくわただし)という。気の張るといっても嫌な緊張ではなく、出来得ることならこの相手にはよく思われたいという欲がある。
 年はおよそ綾子と同じ、四十過ぎにちがいない。結婚していないのは知っている。綾子が別居中なのも、知られている。
 だからどうというわけではないと自分に言い聞かせながら綾子は目をとじる。眼の裏にうつるのは紋付羽織袴姿の優男――大桑の姿だ。
 綾子は職業柄、女性に見られることに慣れている。もっと言えば、着姿を魅力的だと思われないで着物など売れないという割り切りもある。
 そして、たいていの女性がそうであるように、日常では同性の目を意識して服を着て化粧する。恋人や夫といった男性の評価を念頭に置いて装うことのないまま生きてきた。
 綾子は夫が浮気したと知ってすぐさま家を出たわけではなかった。和室のあるマンションを探すのに難儀した。ましてまだ正式に別れてもいない。半年も経つのに中途半端なままだ。
 さすがに義母からの電話は減った。涙ながらに謝罪をされても綾子は元に戻ることはできなかった。夫は綾子を冷たいと言った。俺が悪かったと口にしながらそう詰られて、綾子は言葉を失った。指先が冷たくて膝が震え、電話を置いた。泣きはしなかった。泣いてなどやるものかと歯を食いしばって家を出た。
 実家へも戻れず、懇意にしている夢使いをホテルに呼んだ。綾子の娘であってもおかしくはないほど若いのに、さすがだった。
 ふと綾子が、こういうときみんなお友だちに話しをするのかもしれないわねと呟くと、さあどうでしょうと小首を傾げた。距離のちかい親しいひとは案外黙って話しを聴けないものですよとこたえた。夢使いはそれが仕事ですからと営業スマイルと呼ぶには幾らか不恰好に微笑んだ。
 いっぽう大桑は、私みたいな人間をまともに取り合っちゃいけませんと口にした。
 大桑の前で萎れていたくなかった。着物姿を褒められたせいもある。同じ呉服業界にいるのだから目は厳しい。世辞は言われたくない。
 この季節、綾子にいちばん似合うのは柘榴の帯だった。さりげなく、それでいて印象に残る。格別に気を入れて装っていると思われることなく、背中を綺麗に見せる。
 大桑に気に入られたい、という欲目はあった。大桑は夢使いの商売だけでは暮らしていかれずに養蚕教師をしていると言っていた。ならば夢だけでなくその身をあがなうことはないのだろうと考えた。
 その想像自体が侮辱になるかどうか、綾子は深く問い詰めなかった。ひとは自分のもちものを、たとえば時間や能力や気持ちその他を、誰かや何かに売り渡して生きている。金銭の授受が伴うか否かは別にして、たとえ家族であろうとも、そうしてこの社会に居場所を得る――じっさい誰にもこんなふうに伝えたことはないけれど、大桑になら言えそうな気がした。
 綾子は子供を産めなかった。子宮内膜症で妊娠しづらく、これといって不妊治療などしなかった。夫もそこまでして、と言ってくれた。義母にも責められたことはない。
 義母は、息子の浮気の件で綾子が悪いと言わなかった。それでほっとしていたのも束の間のことで、泣きながら義父の浮気について話し出した。女同士慰め合うことを期待されているようで、生々しさに胸が冷えた。と同時に、冷たいと夫に言われた言葉が甦り、義母が泣きやむまで何時間も付き合った。慰めの言葉は出てこなかった。自分のことで手いっぱいなのだと正直に言いもしなかった。このひとも同じ女なのだと妙なしかたで納得し、綾子は一人住まいに帰ってすぐ、缶ビールをあけてグラスに注ぎもせずそのまま口をつけた。あっという間に空になった缶を音を立ててテーブルにおき、綾子は盛大なため息をついた。
 男児二人を育て上げた義母は、この帯をどんな想いで締めたのか、綾子はうまく想像できない。ひとつ確かなのは、お手柄だとみなに褒められただろう事実だった。
 それでも。
 娘が欲しかった、綾子さんみたいなお嫁さんが来てくれて本当に嬉しいと何度もくりかえした義母の言葉にうそはなかったとおもう。
 綾子の手が帯を撫でる。
 柘榴の実、宝石の粒のような光沢をよくあらわした刺繍糸、手仕事の濃やかさが胸に沁みる。
 頭をあげ、もういちど全体を見おろして自然と唇がほころんだ。
 たしかに昔のものだ。しかし、とても美しい。
 けれど、もう締めることはない。それでいて譲り渡すべき娘もいない。いつも口にする売り文句とまるで違う現状にうっすらとわらう。まして、それがよく似合うとわかって、夫以外の男と会うのに身にまといたくもないのだ。
 おそらくは、大桑と綾子は血が繋がっている。大桑と母のはなしをまとめると、綾子の曾祖母を寝取ったのが、大桑の先祖の誰かなのだろう。
 明治の終わり、百年も前のことだ。
 そしてこの帯も、半世紀以上前のものだった。それが和紙にくるまれてここにある。
 綾子はたとう紙の四つ手の部分を手に取った。
 はたりと下ろす。美濃和紙は彼女の手にそって平らになる。紐を結ぶ。はたり、ふわりと文庫をとじる。
 紐を結ぶ。
 御誂という文字を見る。宛名はない。
 綾子はふっと笑って立ち上がる。
 独りになる。そう決めた。
 明後日には間に合いそうにないけれど、これに代わる帯を自分の店で新調しよう。
 立ち上がって窓をあけた。風に流された雲がふうわりと、真綿のやわらかさで高い空を覆っていた。

                 了  




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