あなたは滅多なことでは人前で眠らないひとだった。もちろん気を張り詰めているのでみっともなく酔っ払うこともない。
母が妹の用足しに付き添い、姉と父が差し向かいで会話し、おれはあなたの弟子から話しを聞いていた。気づいたのはおれでなく、彼女のほうだった。
その視線の向こうに、今にもソファに倒れ臥しそうなあなたがいた。そういうあなたを教授が見守っていた。
おれは、それを見ただけで理解できた。何もかもをわかってしまった。それだけでなく、おれの気持ちまでも、あなたの出来のいい弟子には気づかれた。だから苦笑を浮かべたまま立ちあがる。
ソファの背後から肩をたたいた。あなたははっとして顔をあげた。おれが口をひらくより前に教授が親身な声で告げた。
「横になったほうがいいですよ」
あなたは教授には大丈夫ですとこたえたけれど、おれの母親には逆らえなかった。
「どうか私たちのことはお構いなく。こうして勝手にゆっくりさせてもらってますので、ご無理なさらないで」
ね、と同意を求められたおれは深々と幾度も首肯してみせた。おれと母の顔を見比べてのち、あなたはやけに素直に従った。お言葉に甘えさせていただきますとうなずいて、父と姉のところへ挨拶にいき、妹に声をかけ、それからじぶんの弟子に礼を言い、付き添ってくれた教授へ感謝の言葉を述べてそこを辞した。
おれはすぐさま後を追った。
あなたはパジャマに着替えていた。おれに背を向けたまま、雨戸をあけてくれないか、と頼んだ。おれは長らく閉めきったままであったであろう寝室の戸をあけはなった。
心地よい五月の風が通りぬけた。
おれは、あなたのほうを見たくてたまらなかったのを我慢して、窓の外を眺めた。数か月前と違う景色を。新しいビルが建ち、公園には躑躅が花をつけ、空の色がまるで違う場所を、それが見たかったかのような顔をして眺めた。あなたのたてる密かな衣擦れの音にばかり気をとられながら。
あなたはようやくじぶんのベッドに潜りこんだ。おれは何気ないふうを装ってそこにそっと腰かけた。
ただおれは、あなたの頭の横に両腕をついて見おろして、おやすみを言ってくちづけたかっただけなのだ。ほんとうに。
けれど、あなたはこちらを見あげ、その手をそっとさしあげておれの頬に触れながら口にした。
「お帰り」
あなたはやわらかく微笑んだまま、ここに帰ってきてくれて本当にありがとう、とほとんど息だけのような声で囁いた。
それから、ヘッドボードから赤い革のキーケースをさしだした。あのひとがおれたちに揃いでくれたそれ、あの日、あのテーブルに置いていったそれを受けとった瞬間、おれは、
おれは、
おれは、もう……
あなたの頬に、額に、その唇にとめどなく水滴が伝い落ち、濡らし続けた。雨みたいだとあなたが笑った。あなたはおれを、何か眩しいものを見るかのように目を細めて見つめていた。おれはただいまと返したいのにそれができず、喉奥から押し寄せる嗚咽に流されるまま泣いていた。
するとあなたの手が、おれの髪を優しく撫でた。おれが、あなたの髪を撫でたかったはずなのに。どうしてか今、あなたの長く繊細な指が、おれの癖毛をいとおしげに梳いていた。
おれはポケットにそれを仕舞い込み、ただいまを言いながらあなたの唇を吸った。おれの涙で塩辛かった。それに気づいたあなたは笑った。いや、笑いそこなっておれの愛撫に反応しのけぞった。あらわになったその首筋にかぶりつきそのまま抱きしめようとすると、おれの耳に掠れ声が流しこまれた。
今は眠らせてくれ。ひとの気配のある家で。
おれは思わずあなたの顔を見た。
あなたはもう目を閉じて、嘘偽りなく眠りに落ちていた。
その安らかな寝顔を見つめながら、なぜだか胸が痛くて、どうしたらいいかわからずにおれはあなたの髪を、枕に散ったそれを、眠っているあなたを起こすことのないようにそうっと撫でた。すると、ずっとそうしたかったのだと思い出した。あなたの持ち重りのする黒髪を、その一筋ひとすじを、この手でこころゆくまで撫でたかった。けれどそんなことをしていたらあなたが目を覚ましてしまいそうで、仕方なくおれはその一筋をすくいあげ、くちづけするにとどめた。
あなたの匂いだと、強く感じた。
この数か月、あなたの痴態をおさめた端末をあけ、くりかえしその声を、濡れた肌の熱を思い起こして自身を擦りあげながら、あなたの匂いを欲していた。
あなたがその手で奏でる香音というのがどんなものか、夢使いの素養のないおれには本当に理解することは不可能なのだろう。ただ、あなたや他の夢使いがそれに魅かれ、ときとして捕らわれ、深く溺れることもあるのは容易に想像がつく。その揺曳、たしかにそこにあった残存に想いを馳せるのはひとの性だろう。
おれはあなたと一緒に暮らし始めてからも、あなたを目の前にしながら、あなたの不在をばかり思い嘆くことがあった。
あなたは依頼のために夜にはいなくなってしまうから。独り寝の床にあなたを追い求め、狂おしく焦がれ、その熱をおさめることができないままに朝、帰ってきたあなたを襲うように抱いた。
あなたは、おれの気持ちを本当には知らなかったのではないか。そんなふうに考えて、おれは吐息をついた。
ふと目をやると、金と銀に煌めく夢秤がそこにあった。降りそそぐ陽光を受けて誇らしげなありさまで、おれたちを見守るような格好でそこに佇んでいた。
あなたに、話したいことが山ほどある。見せたいものも。
それに、
そう、それに。
何よりも、あなたと抱き合いたかった。
あなたが目を覚ましたら。
本当に今日ばかりはおれの好きにする。好きに、させてもらう。
おれはそんなことを独り勝手に誓いながら、あなたの額にそっと唇を落とす。
おやすみなさい、おれの夢使い。
あなたに、よい夢がおりてきますように。
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