モーリア王国で賢人宰相と呼ばれた男の残した覚書は、今ではオレのまとめた『随想集』としてだけでなく、全編詳細な注解つきで出版されている。オレはあれらを捨てるに忍びなかった。オレにくれたものならば、それをどうしようがオレの勝手だろうと居直った。ただし、オレが死んで百年たつまでは手を付けてくれるなと遺言した。
オレは『歓びの野は死の色す』を記した当時、まだ十五歳だった。その年で葬祭長になった。オレは《夜》をこの国にもたらした。死者どもを呼び寄せて語らせたのだ。
召喚師、霊媒師たるオレの名声は今後も衰えることはないだろう。詩人、小説家としてのそれよりは、また宗教家、国家元首としての評価よりよほど安泰だ。
まあ、それは致し方ない。
なにしろ〈死者の軍団〉などこの世界のどこの国も持ってはいないのだから。
オレが死者の軍団の統率者たる『騎士』を追い求めたはなしはもう何度もしたはずだ。
それはこの国の治世のためだけではない。
オレは、『騎士』にどうしても話したいことがあったのだ。
その前に。
そう、その前に。
オレのはなしは脱線しすぎるようだ。許してほしい。
賢人宰相と呼ばれた男が騎士に似ていることもすでに伝えた。今でこそ、ヴジョー伯爵家といえば丈高く白金の髪に淡い緑色の瞳の美丈夫と相場が決まっているが、それはもとはといえば女公爵エリス姫の側近となった知将アンリの血統だ。この血が、この国に残った。
それとは別に、『騎士』ルネの従弟の血統はモーリア王国へと流れたのだ。それが、賢人宰相の家へと伝わっている。
めんどうくさいはなしをしよう。いや、少しも面倒ではない。これは、オレの記した『歓びの野は死の色す』のなかにあっては非常に著名な、もっとも読まれ、ひとの口にのぼる小話なのだ。
知将アンリと呼ばれた男は帝都にのぼり、無事に伯爵の地位を授与された。寛大なことに、または皮肉をこめて、帝国皇帝アウレリウスは彼に、遥か彼方にある土地の「王」たることまで保証した。ちなみにそこは鳥首国だ。つまりはその土地を征服して「王」になればいいと唆したようなものだ。むろん、アンリは鷹揚にそれを享けた。こうした有名無実の爵位はいかにも古めかしい伝統と割り切ったのだ。
まあこのあたりはもう少し後に面倒くさいことが起きるのだが(なにしろ当時は伝説の国だった「鳥首国」は今となっては現実に歴として存在する国である)、それはまたべつのはなしだ。余裕があれば語ることもあろうが今は擱く。
さて、知将アンリはその地位と名誉をもってして主君たるヴジョー伯爵家の姫君を妻に迎えた。年は二十離れてはいたが互いに誰もが認める美男美女、祝いの宴はひと月も続き、一年後に姫君は玉のような男の子を産みおとす。そしてまた、ヴジョー伯爵たるその兄君も帝都から由緒正しい帝国貴族の妻を娶った。黄金の丘にある伯爵領は再び繁栄のときを取り戻すものと誰もかれもが喜んだ。
ところが、ここではなしは終わらない。
世継ぎの男児がうまれた後、アンリは皇帝の命令で帝都に居を構えることとなった。そんなおり、姫君について悪い噂が流れでた。男出入りがある、と。
噂がうわさのうちは気に留めなかった。だが、妊娠したとなればはなしは別だ。アンリは一年ほど故国の地を踏んでいない。
帰郷して、明らかに他の男の子を孕んでいる妻を問い質してみたが相手の名を言わない。言わないだろうことくらい予測は出来ていたがどうも様子がおかしい。堅牢な貝殻城郭に覆われた城へ忍んでくる男がいるとは想像しがたい。手引きした者がいるはずだ。でなければ内部のものか。城中のものたちがみな口を噤む。アンリは殺気立った。
誰もが黙して項垂れるなか、帝国育ちの姫君が口をひらく。
わたくしはこの城に嫁ぎ、処女のまま三年の日がたとうとしています。忌まわしきは、夫がわたくしの寝所にいちどもお越しくださらず、夜ごと別の方のお部屋へ忍んでいかれること。
アンリはおのれの直感を疑いのままにしておきたかったと嘆く。
すでにこのとき、姫君の兄である若きヴジョー伯爵は城を逃れていた。アンリはすぐさまこれを追わなかった。同時に姫君も責めなかった。幾人かの供をつけ小さな居城へと送るとし、子が生まれたら知らせよと命じた。
年若い姫君は夫へと、この子は殺させないと声を張り上げたが、アンリはそんなことはしないと返答した。だが、その子をおまえの手で育てることは許さないと続けた。そして、かつて妻だった女へと向き直り、おまえの愛した男はじぶんの命惜しさにこの城から逃げ出したのだから、わたしがこれ以上おまえを惨めにしてやる必要はない、さらにはじぶんではなくその子の命乞いをしたおまえを生かす必要もないが、殺してどうにかなるわけでもない。おまえはもう、わたしとは関係のない人間だ。勝手にどこへでも行けというところだが、おまえはいまだにヴジョー伯爵家の血を引く女だ。また面倒なことがおこると困る。だから離縁はしない。
アンリはさらに続けた。
わたしは私生児だ。同じ運命にうまれた子を殺したくはない。だが、母の愛などというものにその子を触れさせてやりたくもない。その子の将来はわたしが決めるのでなく、公爵にお任せする。
姫君は涙してくずおれた。
いっぽう、帝国から嫁いだ姫君はアンリの寛大な処置に嘆息した。
アンリは夫に逃げられた女を前に、貴女の御立場には同情を禁じ得ないと口にしてのち、皇帝陛下にことの次第を陳謝して貴女を帝国へ送り届けることも可能だと述べてから、女人の身にとって、それがその名誉や尊厳を保つことになるのであれば、とつけたした。
姫君は誇らしげにわらった。
女にとって愛されなかったこと以上の不名誉はございません。されど、帝国貴族に生まれた我が身にはそんなものは些細な事柄にございます。お許しいただけるなら、わたくしの持参金はそのままに、伯爵家の所領を幾つか頂戴し、このままこの国にとどまりたく存じます。
アンリは快くそれを了承した。帝国へ戻れば政争の駒としてまた誰かに嫁がされることをよくよく理解している姫君にとってこれ以上の「自由」はなかったのである。むろんそれが、限られたものであろうとも。
そして、その夫である若きヴジョー伯爵はアンリの手勢ではなく、姫君を守るため帝国から付き添ってきた騎士に捕縛された。姫君の幼馴染は身分の上で圧倒的上位にある伯爵を殺すこと叶わず、その護送の途上、背中から刺殺された。伯爵の命乞いに応じた仲間の犯行であった。
伯爵はモーリア王国に逃れた。先般、自ら指揮をとって敗退させた国へ何故逃れたのかについては諸説ある。ひとつには、ルネ・ド・ヴジョー伯爵とかの国の王女の結婚が約束されていたことにある。じっさい、若君は王女の住まいに身を隠した。モーリア王でさえ手を出せぬ場所に。王女は伯爵の子を宿した。その子はそういう事情のために、他家へと預けられて後、その家の娘と結ばれた。
それが、モーリア王国より歴史の古い、あの宰相の家だった。
オレにはほとんど知らないことはない。
何故なら、死者の声が聴こえるから。
しかし、それを誰に向かって話せばいいのか、それがわからなかったのだ。
秘密を秘密のままにすることができなかったオレの愚かしさが、いまオレを苦しめている。
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