「美の女神、海へ還る」
〈シモネッタ・ヴェスプッチよりサンドロ・ボッティチェリへの手紙―― 一四七六年〉
* * *
サンドロ、前回の手紙は忘れてください。
こうお願いしたからといって、あなたが忘れないことは知っています。いったん外に出てしまった言葉はもう取り戻せない。でも、どうかお願いです。あの手紙を焼き捨ててください。お返事いただけないのはそのせいかと思うと気が狂いそうになります。(二月十日)
親愛なるサンドロ、あのあとすぐに手紙が届き、未開封の手紙が添えられていたことに少なからず驚きました。あなたはたまたま郊外に出かけていて、後からきた手紙を先に読み、はじめの手紙をそのまま返してくださったのですね。
わたくしの身勝手な頼みごとを叶えてくださって本当にありがとう。これで安心して旅立つことができます。おかげさまで、ここのところ遅々としてすすまなかった宝飾品の整理を終わらせることができました。わたくしが小さなころ集めた綺麗な貝殻も出てきましたのでさしあげます。紅い艶やかな珊瑚もあります。いつか、あなたが奥様をもらわれたら首飾りにでもしてあげてください。
でもサンドロ、あなたは結婚しないでしょうね。結婚しては厭だと駄々をこねているのではありません。わたくしは了見の狭い女ですが、独占欲と嫉妬であなたを苦しめるつもりはないのです。それに、あなたが結婚にむいていないなどと思うわけではありません。
あなたはいつも冗談を聞くようなそぶりで笑っていましたが、わたくし、ほんとうに、あなたを天使のように思っていたのです。あの当時の日記に、あなたの名前をうつしたあと、その横に小さく「琥珀の天使」と書き記したこともあるのです。
マルコの育てている薔薇が芽吹きはじめました。もうすぐ春なのですね。かつて、わたくしの夫は薔薇を育てるくらいしか能のないひとだと残念に思っておりましたが、今は、健気に春を待つこの薔薇がたいそう美しく尊いものに思えます。(二月二十六日)
「放蕩息子 ~シモーネ、フィリッピーノ、そしてジャコモの場合~」
〜シモーネの場合〜
おれがあんたの知り合いに似てるって?
ああ、そりゃあそうだ。おれはあいつの兄貴だからな。
あいつなら元気にしてるよ。なんならうちはこの店のすぐそばだ、寄ってくかい?
そうかい、そりゃ助かる。
何故ってそりゃ、今日はもうしばらくあの家に帰りたくないからだよ。あんたにはそういうことないか?
あんた、いまがそんな気分だってことかね。わかった。じゃあおれから一杯おごらせてくれないか。ここに座ってくれ。おい亭主よ、このひとにとっておきの葡萄酒を!
さ、遠慮しないでやってくれ。それはそうと、あんた、この街に来たばかりだろ?
そりゃあわかるさ!
顔が違う。おれはこれでもある銀行のナポリ支店で番頭までした男だ。だいたいがとこ、勘でわかる。
あんたに旅の垢がついてるって言ってるんじゃないよ。あんたはたいそう風采もいい。身綺麗にもしてるが、そうさな……まあ、それはあとで話すよ。フィレンツェに来たのは、ミラノにフランス軍が攻め入ったせいかい?
やっぱりそうか。なんでわかるのかは、戦から逃げてきた人間の顔ってのはみんな似てるのさ。どいつもこいつも地獄の底が抜けたのを誤って覗いてきちまったような眼をしてる。でも、あんたが無事でよかったよ。
ああ、そうだな。戦争はいろんなものがなくなっちまうよな。
だが、あんたの言うように、あんたが失った地位や財産は大きいが、命あってのものだよ。違うかい?
ところであんたはフィレンツェ人だな?
違ったら違うって
言ってくれ。おや、考え込むような顔をしたな。ってことは近くの村で生まれて立身出世のためにこの街に出てきた。
ほい、またあたった。それからここを出て違う国にいき、ひさしぶりに帰国した。どうだね、そんなところじゃないか?
いやいや、褒められるよう特技でもないさ。ナポリは港町だろ。船員の訛りを聞きとるのも仕事の内だったからな。おれはローマにも長くいたしね。あそこは世界中からひとが来る。異国人や異教徒もずいぶんと見たよ。なにしろおれは、父親に売られてから二十三年もの長い間、この街に帰ってこなかったことがあったんだから。
ああ、すまない。売られたってのは剣呑すぎたな。奴隷じゃあるまいし、実の息子を売り飛ばしたわけじゃない。ただ、世の中には父親と反りが合わず家にいられない息子がいるってことだ。
おや、あんたも同じかい?
おれも、親父とはうまくいかなかったさ。ついでに言うと、いちばんうえの兄貴ジョヴァンニとの関係もうまくなかった。
ヴァンニを知ってるって?
ああ、サンドロの知人なら会ったことがあるのか。っておい、あんたにおごってもらういわれはないが。
なるほど、傾いた天秤ってやつは具合が悪い。あんたの言うことも一理ある。至極合理的だ。おれは合理的なものは嫌いじゃない。それに、誰にだってうちのやつには言えないこともあるよな。となれば、遠慮なく頂戴するよ。次はおれにおごらせてくれ。あんたの話はあとから存分に聞かせてもらうよ。
さて、どっから話そうか。まずはおれの独り立ちからだな。
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