「あの、なにか御用があったのでは」
「私の大の苦手な大摂政殿が私を探しているらしいので、どこか身を隠すところを探しているのだよ」
「サンギィエー殿下が」
テンジンは、そっとあたりを窺うようにして野原を見渡した。
偉大なダライ・ラマ五世に仕え、五世とともにこのチベットに絢爛たる仏教王国を築いたサンギィエー・ギャムツォ大摂政。彼は五世の絶大な権力を象徴し、その霊廟でもあるポタラ宮を建造した。その偉業は過去に例のないことだ。
六世の還俗の責任を負ってその地位を降りたこの今も、サンギィエーは外交のすべてをあずかっている。雪山(せっせん)の頂きにあるチベット王国を、清国、そしてモンゴルの汗たちから守り得ているのは、彼の外交力にあった。
「あ、ほら、言っている間に」
河畔を黄金にそめあげて風に揺れる菜の花のなかを、若者のような足取りで、臙脂色の法衣をまとったサンギィエーがすすんでくるのが見えた。権勢を極めた大摂政の昔を知るものなら想像もできないくらい質素な装束だ。サンギィエーは五十歳という年齢に達しているはずだが未だ衰えを知らず、その声がまたよく通る。
「またこのようなところで遊んでいらしたのですか」
青年は、眩しいのか瞳をほそめただけだ。
「それに、街に出ては恋愛詩を詠うのはもうお止めください」
大摂政の厳めしい声にも、弓なりの眉をしかめただけで何もこたえなかった。
「猊下、街の女の色香に迷い溺れるなどあさましいことです。法王である貴方様がそのような有様では、五世の築いたこの浄土までが汚れてしまいます」
「大摂政殿下、猊下にむかってそのような」
あまりの言葉に、テンジンが大摂政を見上げ恐れもせずに返した。大摂政はまだ幼さの残るようなテンジンを見おろし、淡い色の瞳で名をたずねた。彼がこたえると、大摂政の瞳に閃きがはしる。
「清国の言葉も話せる優れた侍童だと聞いていたが、そなた、六世のそばで何をしている」
まるで詰問するかのような口調に六世がわって入った。
「テンジンは関係がありません。諫めるべきは私でしょう。大摂政殿、なにか火急の御用事でも」
「貴方様を連れ戻しにまいったのです。今すぐ、白宮にお戻りください」
「それは、御命令ですか」
六世はうなだれ、しずかな声でそうきいた。
それ以上言葉をつぐこともできず、大摂政は立ち尽くしたがそれも一瞬のことだった。次には色の失せたうすい唇をかたく結び、禽獣のような眼差しで六世を見据える。
テンジンは、ただ六世の本意を探るようにその整った白い面を見つめるだけだった。少年の視線に気づいてか、六世は顔を上げた。
「テンジン、おまえはこんなところで勤行を怠っていてはいけない。学舎で待っておいで」
そう言って少年の肩をたたき、踵を返した。歩み出した六世を追うように足をすすめた大摂政は突然ふり返り、いくらか灰色がかった瞳を彼に向けた。
その意味をはかりかねテンジンが首をかしげると、憐れむような微笑が一瞬うかんで、すぐに消えた。
テンジンの目には、黄金の菜の花をかきわけてすすむ彼らの法衣がそこだけ、しみのように暗く沈んで見えていた。
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