顔が見えないことに感謝するなんて間違ってると思いながら、私は黙っていた。どうこたえても、いい結果は生まないような気がした。いや、そうじゃないか。
「……言わない、か。そうだよね。浅倉が来るまで待ったほうが、君には都合がいい。君は浅倉のほうが好きだから、彼に助けてもらいたいし彼と一緒になったほうがいいよね。わかってるよ」
わかってる、のだろうか。
「ねえじゃあ浅倉がいなければ、僕が君のいちばんだった?」
それも、こたえる言葉の用意がない。仮定の話なんてしたって意味はない。
「浅倉が死ねば、僕のことだけ見てくれた?」
それは。
息を詰めた私に、彼が笑った。
「そうはならないよね。僕が、突き落としたんだから」
「ミズキさん」
「なに? 僕のことなんて、嫌いでしょう?」
なるほど、そうくるか。
どうしても、それを言わせたいんだ。
ミズキさん、私はひとの言いなりになるのが嫌いだってこと、忘れたわけじゃないよね。
「手を、離しなさい」
彼は私の命令口調に怯んだわけではなかった。
「離さないよ。離したら、君は浅倉のところに行く」
揺さぶりをかけられているのは自分ではなく、彼のほうだと気がついた。もう一押しかふた押しか。
「行かないよ」
「嘘だ」
「彼のところには行かないから、手を離して」
「離せば、君は僕から遠ざかる」
「繋いでおけば安心するの? たしか前に、檻って言ってたよね。鎖でもつけとけばそれで気が済むの?」
さすがに、返答はなかった。
まあそうだよね。現実にそんなこと出来るわけがない。そりゃ、ベッドの中でお遊び程度にするなら可能だろう。けど、このひとが望んでるのはそういう「遊び」じゃないのだ。
ふざけるのも馬鹿らしく、そしてまた彼が微かに指先を震わせたことに気づいていて、私は、取って置きの言葉を吐き出した。
「結婚すれば、安心するの?」
「わ、からない」
「好きだって言えば、愛してるって言えば、気が楽になる?」
「……すこしは」
「そう」
先ほどより、手の力は緩んでいた。私は右手をさまよわせ、彼の額にかかる髪に指を触れ、その頬に手をあててゆっくりと口にした。
「そういう幼くて、頑是無いことばかり言うミズキさんが好きよ」
「嘘だ」
「ほんとに。これだけ求められたら、嫌いになれないよ」
昨夜、一生離れないと言った男の熱は、もう私の身体のどこにも残っていない。そんなものだと思う。
「嘘だ」
「ほんと。もう、いいよ。もういいから、安心して。もう、浅倉くんとはミズキさんのいないところで会ったりしない」
「うそ、だ……」
「なんならしばらく家に閉じ込めておいていいから」
現実的に可能そうなことを口にしてみた。どうせ引っ越しのあとは片付けないとならないだろうし。そういう「プレイ」くらい出来なくはない。
「しんじられない」
大きく首をふって否定するので、苦笑した。意図を読まれたのか、それともホントウに信じていないのか、その両方かわからなかった。
「ミズキさんが、好きよ」
「どうして」
「どうしてって、可愛いからよ。縋りついてくる顔が色っぽくてそそられるから。これだけして、そんな理由じゃ嫌だとか言わないでね」
返答はなかった。
「自覚はあるでしょう? じゃなきゃ泣き落としはしないよね?」
ようやく手が離れて瞳があったので、私はかるく息をついて続けた。
「もう、しょうがないなあ。いいよ、じゃあ、ここでしよう」
「……な、んで」
「ほんとは私に、自分の言うこときいてもらいたいんでしょ? 自分に屈するところを、私の弱いところを見たいんでしょ? ちがうの?」
うろたえているわけではなかった。彼は私の言葉と意図を確かめるように、何もかも見落とすことのないように、そういう顔つきで私を見ていた。私はそれに安堵して、思っていることを素直にぶつけた。
「べつに私をいたぶるくらいぜんぜん、かまわないよ。ミズキさんはどうしたってそういう性嗜好なわけだからしょうがないし、私もそれを愉しめないわけじゃない。というより肉体的に痛いことじゃなければけっこうイケルと思う。だから、ミズキさんが結婚したいっていうならする」
「姫香、ちゃん?」
「聞き分けは、浅倉くんのほうが断然いいから。何度も言うようだけど、浅倉くんは私じゃなくても誰かと一緒に生きてける。でも、ミズキさんはやっぱりそうじゃないみたいだから、それでこうやって傷つけあいながらやってくのも、たぶん、私はちゃんとできるからだいじょうぶ。浅倉くんから逃げるだけじゃなくて彼と向き合ったうえで選ばれないと安心できないんでしょ? ずっと、さいしょっからそう言ってたものね」
言い返そうとするスキを与えず、続けた。
「私、自分のプライドが大事だし、愛してるからってたくさんは許さないよ。やられたらやりかえすし。従順じゃないから、そこは覚悟してね」
「……あ」
ほとんど呻くように声をあげていた。けれどそれは、そんなことくらいとうに知っているという、了解に見えた。こうして手向かうから張りがあるのであって、ほんとうに温順だったらこのひとは興味をもたない。
「それと、今朝みたいな無茶はもう絶対にやめて。私、さっき電話きたあと、生まれて初めて死にたい気持ちになったから」
二度としないで。
そうくりかえした瞬間、ミズキさんは私の身体を抱き起こした。
「ミズキさん?」
「君は、いつでも、そうだ」
恐ろしく低い声で、囁かれた。
「え?」
何が、彼を怒らせているのか理解できなかった。
「僕のことを好きだと言い、僕の言いなりになるようなふりをして」
燃えるような双眸に見据えられ、私は自分が何をしたのかわからなくて本能的な恐怖で首をふった。
「君はただたんに、僕から浅倉を守りたくて、身体を差し出すだけじゃないかっ」
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