彼は黙って首をふった。
「縋りついたのは事実だ。でもね、僕は君を抱きしめながら、浅倉はきっと一度も君を抱いたことがなくて、この先もバクである限りそれが叶わないって想像したら、あの状況で、僕は酷く興奮した」
告白を、私は眉をひそめただけで聞いた。けれど耳を素通りするに任せようとして、できなかった。
その言葉は、私と浅倉くんがふたりだけになってしばらくして、彼が初めて吐いた弱々しい反駁の声を思い出させた。
オレは……バク、なんですよ。
あれは、もう何をどうしたってしょうがないという声だった。私は彼に、バクになったって言葉が喋れて頭が使えるじゃないと口にしたはずだ。でも彼から返ってきた言葉はそれだった。
己の想像力のなさに唖然としたのも事実だ。たまに、自分が肉体というものをどこかに置き忘れていることに気づかされて苦い思いをする。
「君は僕に抱きつかれてびっくりして押しのけようとしたみたいだけど、僕が泣いているせいなのか、すぐに身体を預けてきた。それで力をこめると君はすこし苦しそうに喘いで頭を揺すったのに、それでもぜんぜん抵抗しないでいたんだよね。君の身体は冷たくて、走ってきたはずなのに耳の後ろからはほとんど生のままのアンティークな香りがあった。僕はそれを吸い込みながら、こんな取り澄ました香水じゃない匂いを知りたいと思って、浅倉のいる前で君をどうにかしてしまいたい、したらどんな気がするだろうって想像して、まともにオナニーすらできないでいたくせに、そんなことを思うと血がどんどん一箇所に集まっていくのに驚いたよ。そんな倒錯的な想像に気持ち悪いくらい溺れて集中してるくせに、半面、妙に冷静に、この座り込んだ体勢のせいで君に気づかれないでよかったとか、いろいろ同時に考えてるんだよね」
なにを言われているのか私はすぐさま理解しようとしなかった。ミズキさんはいつになく早口で、その視線は私の頬から耳のあたりを頼りなくさまよっていて、彼も気が動転しているのだと察した。そうしてはじめて、言葉が意味を結びはじめた。
「僕がしゃくりあげると君は震える指先で僕の背中をそうっとすごく遠慮がちに撫でてくれるんだけど、浅倉じゃなくて僕を慰めてくれているって思うとそれにさえ感じて、そういう君をかわいいって思いながら、自分が到底まともじゃないって余計泣きたくなったよ。僕は、あのときからずっとおかしい……」
彼らしくない、乱れた息遣いに気づいて私はすこし安堵した。こんなことを平然と言い切られるよりは幾分、ましだ。だからこそ。
「それって、ほんとにあのとき考えてたの?」
「……どういうこと」
瞳を眇められた。
「記憶はあとからいくらでも改竄できるから」
私はなるべく冷静な声を保とうと努力していた。ミズキさんの狂乱に、彼の尋常じゃない想像のもつ圧倒的な力に屈しないように。
なによりもホントウに、あの時が契機だったのかどうか。
結果的に今、そうであっても、原因がどの時点であるのかによっては、何かべつの方法があるはずだ。
「たしかにあの状況は異様だったから、ミズキさんが性的に興奮する要因もあったかもしれない。でも、それっていわゆる吊橋理論みたいなもので」
「姫香ちゃん、君はいま、どうにかして僕をまともな方向にもっていこうと画策してるでしょう」
今度の声は、冷静だった。なるほど、彼のなかでは既にシミュレーション済みの件か。
「だって」
私が唇を噛むと、やはり彼はいつものような顔つきで笑った。
「君は、厭だよね。こんな話を聞かされるのは」
「ふつう、困るでしょ?」
かるい調子になるように、懸命に努力した。
「そう思ったから、言わないできたんだよ」
だろうとは、思う。私はこのひとが、何かをずっと耐えているような気がしていた。まさかそれがこんなことだったとはさすがに想像していなかったけれど。
「ねえミズキさん、さっきも聞いたけど、それで否定されたけど、ほんとは私じゃなくて浅倉くんと寝たいんじゃないの?」
彼は秀麗な眉をひそめただけで私を見下ろしていた。
「浅倉くんと関係した私を手に入れたかったっていうのは、彼とする、代償行為じゃないの?」
これだけのことを言うのに、私の心臓はだいぶ負担を強いられた。
ミズキさんは口許を緩めていた。たぶん、私にそれを言わせるのを愉しんだのだろう。瞳をあわせると、彼が口をひらいた。
「どうしてそう思いたいのか、何によってそういう結論が導き出されるのか、君、自分でこたえを出せる?」
反撃は、思わぬ方向からやってきた。
「君には、出せないよね」
確認されて、私は自分の脳をフル回転で働かせようとしたところを、なぶるように続けられた。
「君は、僕に何の責任も持ちたくないからだよ。全部、浅倉に任せて安心したいからだ。僕が君だけを好きだと認めてしまえば自分が辛いから、彼を盾にして逃げてる。僕と向き合って僕を拒絶して僕に傷をつけるのが厭だからだ。僕にはそこまでの価値もないと思ってるから、ここまで話しても、君は僕を信じないんだよ」
「そ、んな……」
「君は僕の人生なんてなんの意味もないから結婚しようとして、それを覆すのも簡単にできる」
「そんなこと、ないよ……だって、そんな」
彼は言い返すかと見えて、顔を伏せて笑っただけだった。私はどう言えばいいかわからなくて、自分がほんとうに何を考えているかさえわからなくて、ただ視線をさまよわせていた。
「君は冷淡で傲慢だ。何度もいうようだけど、僕はそういう君に刺激されるからそれでいい。ただし、それは僕をかまってくれている上での暴虐であって、無視して捨て置かれたらただではおかないよ」
ただではおかない結果がコレか。
オフィスだというのに首根っこを押さえられて横になっている自分の無様さに腹が立ち、情けなさに泣きたくなった。でも、自分がそれだけのことをしたのだとも、思う。
私には、思いやりというものが備わっていないのかもしれない。
「たしかに僕は浅倉を好きだったよ。でもいま僕が彼を気にするのは、君が、浅倉を好きだからだ。浅倉が好きなのに僕に抱かれる君に、僕が、興奮するからだ」
驚きのないことに、自分をあやしんだけれど。
「……私は、浅倉くんを、思い出さなかったよ」
わずかに、ミズキさんの表情が動いた。
「少なくとも、しているあいだはね」
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