彼はいったん下をむいて、何処か遠くを見るような視線で語りだした。
「あのね、十三、四歳のフレンチ・ロリータだよ。頬杖をついて、そうだね……君の好きなボッティチェルリの三美神のまんなかの、あれは《貞節》だった?」
「茶色の髪の横顔の?」
「そう。金髪をあんなふうに複雑に編みこんでて、すごく凝ったレースのブラウスを着てて、感じやすそうな、薄くて丸みのある小さな耳がかわいくて」
そこでやっと、思い出した。
「あ、あれ、なの? ウソ、やだ、それって……捨ててって言ったのにっ」
頬に両手をあてて、ぶるぶる頭をふった。
思い出したよ、ほんとに思い出した。でもって……思い出したく、なかった。
夏休みが始まった頃だっただろうか。例のごとく彼の家にみんなで泊まってしこたま飲んで酔っ払って、なんか描いてくださいよって言われたのだ。誕生日が夏休み中だと誰も祝ってくれないんすよ、と愚痴をこぼすので、じゃあしょうがないとみんなで何かあげるからと宥めたあとだった。
あの頃は、男の子ばかりかいていた。例の、金髪碧眼の王子様だ。ゼミでルネサンス美術を勉強しながら自分のなかでは奇妙にバロック大絶賛期で、インスピレーションを受けたのは、天才ベルニーニの彫刻《聖テレサの法悦》。あの、横たわるテレサに矢を衝きつけてやさしく微笑みながらエクスタシーを授ける巻き毛の天使の姿を拝借した。
ああ、あれが理想の自分てそんな……自分のねじれ具合っていうか、まさにフロイト先生のいうペニス願望そのものみたいで、あまりにもあまりで恥ずかしい。
「姫香、ちゃん?」
赤くなってうつむいていたのを、頤をとらえてあげさせられた。
「あれは、どうしてかいたの?」
「……それ、言わないと、ダメ?」
「まあ、言わなくてもその表情みれば、なんとなくわかるけど」
ミズキさんの想像はたぶん、はずれていないだろうと思った。
女の子、描かないんですか。オレ、女の子のほうがいいんすけど。
うるさく頭の後ろで騒がれて、女の子らしく見えるようにと髪を編んだのだ。酔っ払って適当にかいていたら、さいしょに意図した古代の女神風の端正な雰囲気が消えてしまって、仕方なく時代がかったブラウスを着せたら、おしゃまで生意気そうな女の子にクールに見つめ返されていた。
でも、絵としては悪い感じじゃなかった。
ううん。はっきり自分でも、さらっとかいたわりによくかけたと感じた。拙いところはたくさんあるけど、見るひとに視線をむける、その在り様は絶妙だった。
ただ、彼女の目線と表情は「見る・見られる」の規範にのっとりすぎていた。絵のなかの人物と鑑賞者のあいだに、ある種の交感が予期されていて、ルネサンス時代に『絵画論』を記したアルベルティなら褒めるところだろうけど、私はあいにく現代女性で、視線の意味について敏感にすぎた。
斜めをむいてこちらを見返す視線。
それは、ひとつたしかに言えるのは、あからさまな、ひどく典型的な「誘惑」の図像だ。
鑑賞者が安心して眺めることのできるよう視線を外した受身の姿じゃなくて、見つめる相手を冷然と拒絶しながらもなおも招く、そういうアンビヴァレントな存在だった。
私は、気に入ったと思うものがかければかけるほど、ひとに持ってもらうことがうれしいと思うほうだ。けどそのときは、それが浅倉くんのものになるのが、なんだかイヤだった。嫌というか、これは渡してはいけない気がした。
それでも、いつもながら私の気持ちの変化にさいしょに気づいたのも彼だった。仕舞おうとすると、すばやく横にまわって取り上げた。まだ途中なのに、と声をあげても返さなかった。ううん、正確にいうと、無理やり取り返して破くこともできただろう。でも、私はそうはしなかった。よくかけたと思うものを破くのは惜しかったし、それに、アサクラ君が私を好きなのは知っていた。
私は絵をかく女だ。絵にかくという行為は、対象をモノにすることだ。
文字通り、生きて動いて自分の自由にはならない存在を、私の思うままに画面にモノとして落とし込むことだ。それは記録し、とどめ、時空を超えさせることで、対象を「殺す」ことによく似ている。つまりは破壊し、新しく作り変えること、か。
それを、性的な意味で意識したのがきっと、あの瞬間だった。
イヤ、チガウ。
そんなことくらい知っていた。美術史を学ぶ前から、私はそのくらいのことは理解していた。それがわからなければ、絵をかくことがこの世界をどうとらえるかだというこの、切実さがつかめない。自分の視線をコントロールし、意識し、現実と画面との開きを知り、またはその差異に溺れ、この目の前にあるもの、または何処にもないものを、攫みよせ、手繰り寄せ、こちらに召喚するこの快感を知らないでは、そこに自分のとらえたナニモノかが立ちのぼるたしかな気配のもたらすあの陶酔を味わうことがなくて、どうして絵がかけるというのだ。
ただ、それを我が事としては知らなかった。自分もまた、その対象になりうるというそんな単純なことを、意識したことがなかっただけ。
「姫香ちゃん?」
頤をとらえられたままで、私は顔をあげて唇をひらく。
「自分のなかの女性性と折り合いをつけるには、絵描きなんて目指すのは間違ってるね」
「どうして」
彼はゆっくりと手をはなし首をかしげてから言い継いだ。
「くりかえすようだけど、君はそれほど弱くもないし受身でもないし寛容でもない。もちろん、被虐的でもない。それにコトバが男でイメージが女性だとか、受身の対象を愛撫する能動的な画家だなんて説はいまどきの美術史じゃ流行らないよ。姫香ちゃん、いったい君はいつの時代の話をしてるの? 21世紀だっていうのに君はまだ、そんな黴臭い説を振り回すつもり?」
「それくらい知ってるけど、でも……」
ミズキさんの話はもっともだ。文化が男性で自然が女性とか、そういうのは馬鹿らしい。女性の画家が歴史上少ないのは、ただそれが認められ許されることが少なかっただけだ。今は21世紀で、素晴らしい女性芸術家はたくさんいる。というよりそもそも男女の性差で何かを区切ること自体に、まずは疑問を持ったほうがいい。そうは思っているけれど、でも。
「ねえ姫香ちゃん、絵の話だけにしようか。君は今、現実の自分のことと絵をかく自分を分けて考えていて、たぶん、それはある意味で正しくて、ある意味で間違ってる。僕のことはいったん、おいておこう」
「あ……」
私はまた、自分のことに終始してしまっていた。彼は苦笑して、首をふる。
「僕の切ない恋心を語るつもりだったんだけど、君はもう、絵のことになると絵、だけなんだよね」
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