目が覚めて隣にひとがいないことで、吸い込んだ空気がやけに冷たいように感じた。まして薔薇の花びらの散り敷かれたベッドというものは、朝日で見るにはしのびない。なにしろ白いシーツにロイヤルハイネスの淡いピンクはあまり映えないのだ。しかも、すでにしてところどころ萎れて茶色になっているのが妙に「落花狼藉」を思わせて気恥ずかしい。深紅なら、朽ちてもそれなりで気にならないのに。
まあ、それもこれも致し方ないことだ。
花が植物の生殖器であると教えてくれたのは澁澤龍彦の書物であった。思春期特有の気取りを思い返しながらベッドを出ても、踵で踏む花びらは昨夜の享楽を伝えはしない。塵芥のように摘まみあげてゴミ箱へ投げる。何故か、入らない。拾うのも癪で、そのまま部屋をあとにした。
昨日食べ散らかしたお菓子が置いたままのローテーブルのうえに、見覚えのある、女の子のような丸文字の書き置きを見つけた。
よく寝てたから起こさなかった。心配しないでここで待ってて。 要約すると「邪魔するな」か。
時計をみると六時すぎ。きっと始発で出て行ったのだろう。ミズキさんの帰宅時間を強襲するつもりか。もう行ってしまったものは引きとめようがない。電話をかけるのはかえって気をそぐだろう。
ふたりには、私がいないところで話し合う必要がある。お互い臆病になっていたっていう自覚があるのなら、踏みとどまってぶつかればいい。ミズキさんはちゃんと浅倉くんに好きだと言い、浅倉くんはそれに対して面と向かって自分がなんてこたえるのか確かめたほうが絶対に、いい。
もうひと寝入り、するかな。
なにが起こるかとこわがっていない自分を見つけてすこしばかり驚いていた。浅倉くんにだいじょうぶと言われたせいではなく、どう転んでもミズキさんが浅倉くんを拒絶できないとわかっていたせいだ。ずるいオトコらしく、好かれていることを十二分に利用するに違いない。そう思ったからこそ、ミズキさんにちょっとは痛い目に遭わされればいいのだと、昨夜さんざん恨み言をきかされて想いの丈をぶつけられた腹立ち紛れに思ったりした。
昨日の私のようにうまく丸め込めるものなら堂々とそうしてくればいい。ミズキさん相手にそれが通用するものかどうか、彼にだってわかるだろう。私のように甘くはないはずだ。
だからちゃんと、きちんと何もかも打ち明けて、聞きだして、そのうえで話してくればいい。
私は、できなかった。
少しばかりの口惜しさは、賞賛だったかもしれない。
そうしてベッドに横になり、この仮住まいを出て自分がどこに行くのか想像しようとして、ちっとも思いつかずに吹き出しそうになった。思い返してみれば、浅倉くんも、一生はなれないと口にしながら先のことは何も約束しなかった。先へ先へとモノを進めたがるミズキさんの不安を思った。
冷蔵庫にろくなものがないけどどうすると訊くと、なんでも、といいかげんにこたえた浅倉くん。頬を膨らますと、だいたいあんたが冷蔵庫ほんとに空にするわけないでしょ、と見抜かれた。けっきょくは私がおねだりしてあの懐かしい炒飯を作ってもらったわけだけど、なにを食べるのでも全部、私に確かめてきたミズキさんの気遣いを思い出す。付き合いの長さや性格の違いというのではなく、あの濃やかさには、ひととの距離の取り方の不器用さと周到を思わずにはいられなかった。
私の呼吸をはかり表情を読む、琴柱の位置をずらすようにして、弦を調律する手並みのたしかさに翻弄され踊らされていると感じながら、彼が愉しんでいるのかわからなかった。可愛いとくりかえし私の顔にくちづけの雨を降らせ、あの気遣いを上回る濃やかな愛撫をほどこして、なおも彼が求めているものが何か、私には掴めなかった。
浅倉くんと寝ていたベッドで、ミズキさんを思い出す。あまりにもふしだらすぎて快い。それは、三人のことを自分以外のふたりに丸投げした不埒さと似ている。
これは、困ったな。
ひとりごちて、熱っぽく危うげに切なくなった吐息をもてあまして寝返りをうつ。
とりあえず、眠ってしまおう。起きたらすぐに戦闘開始だ。お昼から仕事の彼らはその前に決着をつけるだろう。その間、私が寝てても文句は言うまい。
おやすみなさい。
夢のなかで、私はメトロポリタン美術館にあるギュスターヴ・モローの絵に描かれた半人半獣の小さなスフィンクスそっくりの生き物になっていた。例の、朝には四本足、昼には二本足、夕べには三本足で歩むものは何かという謎かけをする相手をわくわくしながら待っていると、あの妙に扇情的なオイディプスの扮装をして杖をついたミズキさんにあっけなく捕まった。
どうして捕まったのか経緯はわからない。夢というのはそんなもので、次の場面ではあの絵のように、その胸にしがみつくような姿で頤を撫でられていた。どうやら彼には伝説通り正解を答えられてしまったらしい。
頤を撫でられているのはきっと、アングルの絵のオイディプスの姿勢のせいだとあとで気がついた。左手の掌を上に向けた人差し指がちょうど猫のあごのしたをちょいちょいと擽るような具合なのだ。
(姫香ちゃん、君は仔猫じゃない。君は小さな頃は周囲から見たらちょっと毛並みの変わった猫にしか見えなかったかもしれないけれど、本当は違う。君はまごうかたなく猛獣なんだから、いつまでも弱いふりはしないでいいんだよ)
ニューヨークでモローの絵を見たとき、私はすぐにボッティチェルリの《パラスとケンタウロス》を思い起こし、左右や男女の対比、その意味を反転した。あれはアングル、そしてマンテーニャの影響が問われるものであるとは知っているけれど、岸壁、オイディプスの等身より大きな杖などがその印象を連れてきた。モローは、あの少女漫画的装飾性をもってして、間違いなくボッティチェルリの後継者の一人であると私は思っている。
(僕は、君に食い殺されるかもしれないと思いながら付き合ってる)
夢なので、会話は噛みあっていなかった。
(自分が猛獣使いになって、君みたいに凶暴な生き物とやっていけるだけの力が欲しいし、君と、お互いを尊重しながらルールを決めて、生き延びたいよ)
父を殺し母を犯す運命より、そのほうがいいだろうと私も思った。オイディプスに扮するミズキさんというのはなんだかとっても禍々しいほどに美しく、いかにもそれっぽく、笑えるほど艶っぽかった。夢だとわかっているときの自意識で、私は自分の想像力の貧困さと性的ファンタジーの横溢の両方を嘲笑っていた。けれど、そうはいつまでも安穏としていられないのもまた夢らしさで。
(僕は君に対して銃を構えるようなことは二度としたくない。次に僕が君に銃を向けるときは、僕が死ぬ覚悟を決めた時だ。でも君が僕に爪を立てるのはいつでも出来る。僕はでも、君に牙をむけられたら、撃つか、そのまま喰われるかしかないんだよ)
彼の持っている杖はいつのまにか銃に変わっていた。杖はいい。仕込まれた刃で衝くその速さより、私の翼のほうが力強い。またはこの鋭利な爪を彼の心臓に突き立てればいい。けれど銃はどうだろう。その速度と威力、それはひとの力を超えている。魔物である私と同等か、それ以上。
だとしたら。
(どちらでも、僕は生きてはいられない)
彼はそう、瞳を伏せてつぶやいた。あんまり悲しそうな声だったので、
(麻酔銃だったら助かるじゃない?)
そう提案してみたのだけれども、それには 面白そうに喉を鳴らして笑われて。
(最初にそれを使ってしまったんだから二度目はないよ。お互い信頼関係はなくなってしまうんだから)
「そうかなあ?」
という寝言を耳にした瞬間、枕もとの携帯電話の音に身体が反応した。まだ目が開かず、ディスプレーを見ることもできない。とりあえずひらき、どうにかこうにかまともな声を出そうと努力したけれど、実をむすばなかったようだ。
「姫香ちゃん、君、眠ってたね……」
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