降りる瞬間にさりげなく離そうと思っていると、すごく自然にこちらの手をほどいて握り返してきた。そのまま掌をあわせて指をからませようとするので手をひっこめようとしたところで、扉があいた。
「こっち」
左右を見渡す背中に声をかけ、彼の指を数本にぎって引っ張った。すぐに離して、先を歩く。この上の階は数家族しか住んでいない。余裕のある間取りというやつ。
地上十五階というのはこのあたりではけっこう高い。風は冷たかったけれど、どこまでもまっすぐに続く武蔵野線の高架が低いところに見えるのが気持ちいい。こうしてひさしぶりに昇って見おろすと、駅前には建築中のビルや見るからに真新しい輸入住宅の洒落た外観の家が目立つ。やっぱりTX効果は大きい。片田舎らしく何も変わらないと思っていた自分に呆れ、肩を落としたところで背後にいるひとが息を飲む。
視線を西に転じると、地平線に朱を刷いた上にかろやかな紺青が落ちかかり、空は、夜を待つ定めに安らいでいる。
足をとめて、その朱が薄くなり震えるように消えていくのを眺めていると、浅倉くんの指が甲に触れた。そのまま握りこもうとするので邪険にはらい、さきほどの風景に後ろ髪をひかれるように角をまがったところで、今度はその腕が帯の前にまわった。
なにするのよっ、と声をあげようとしたところで口を抑えられてずるずると後ろへ引きずられて草履が脱げそうになった。抱かれたまま振り返ると、彼は無言で進行方向へと頤をしゃくってから、ゆっくりと目を伏せて首をふった。
先客あり。
もう、コウちゃん、だめだってばあ、という女の子の鼻にかかった甘え声が聞こえてきた。ちっともダメじゃないだろ、と私がツッコミたくなるぞ。
見る? と小声できかれて、ぶんぶん首をふる。見てどうする。どうせ行き場のない高校生カップルだろう。邪魔しちゃ悪いよ。
なるべく足音をたてないようにしてエレベーター前へと戻った。ボタンを押そうとする手さえ彼の腕のなかで、後ろからおんぶオバケのようにくっついて離れる気配がない。頭を抱えそうな気持ちでつぶやいた。
「ねえ、離れない?」
「やだ」
「なんで」
「やだよ」
「あのねえ、駄々をこねればいいってもんじゃないでしょう」
「嫌がってないじゃん」
「いやがってるよ」
彼はそこで、すっかり耳慣れた、いかにもしょうがないという吐息をついた。それは自分の頑なさと甘えを意識させた。
「……浅倉くん、いつ、大人になったの?」
彼は私を抱く腕にすこし力をこめた。
「はじめてセックスしたとき」
私がびっくりして聞き返そうとすると、
「すみません。そんな気がしただけ。今も駄々こねてるし大人じゃないよ」
あからさまな吐息をつこうとして、やめた。そんなことをしても無駄だから。
私はこの、好き放題言いながら実はちっとも素直じゃないオトコに真実を吐かせるのを諦めた。さっきの言い振りと、そして一昨日の電話の返答とつなぎ合わせれば、たぶん親御さんとの関係でそれを意識したのはわかったけど、言わないのだ。
このひとは、たいてい自分のことはちゃんと話さない。
それでごまかされたふりをするわけではないけれど。
「まあ、でも、それって民俗学的にも文学的にもわりとノーマルな模範解答だね」
「じゃあ、あんたは?」
そして、こちらが甘い顔ですませようとすると容赦なくツッコミをいれるのだ。
「異星人でもやってくれば、幼年期も終わりになるかと思うよ」
「えっと、それって……」
アーサー・C・クラークは読んでないか。困惑顔でこちらをのぞきこもうとしたけれど、そちらが先にはぐらかしたのだ。私がこたえないとならない義理はない。そういうつもりで自分の身体に回された腕をひきはがして向き直り、
「あの……彼の」
唇のうえで、その先が滞って震えた。どう尋ねたらいいか、わからない。そもそも、こんなことを訊いてもいいのだろうか。
「なに。ききたいことあれば、聞きなよ」
促されて、でも、口を開けたり閉じたりしてしまった。唇がすこし、荒れて掠れていた。
「ミズキのこと?」
助け舟には応じてうなずいた。でも彼は、それ以上は言わせようとしなかった。
よくよく考えてみれば、ミズキさんは、自分がお父さんの子供じゃないかもしれないと浅倉くんにだけは口にしたのだ。私ではなくこのひとに、自分の秘密を、その積もりつもった鬱屈を譲り渡した。それが意味するところは明らかな気がする。彼に必要なのは、私ではない。
それはともかく、ミズキさんは間違いなく、あのお父さんの子供だろう。
耳裏の付け根と耳たぶに引き攣れたしわが寄ったところがお父さんと同じだった。さらにはおじいさまの日本人離れした頬骨の高い顔や大陸風の骨格、きかん気そうな尖った大きな耳も彼によく似てた。隔世遺伝ってやつだ。
でも、そうやって証明されたからといって解決するわけじゃない。いや、もしかすると彼自身も気づいているだろうことを他人が立証しても、却って問題の根が深くなるだけかもしれない。
母親の不義は否定できないほどはっきりとした事実なのだろう。「不義」などというとおかしいな。つまりはただたんに、お母さんがお父さんではないひとと関係したということだ。彼はそれを目の当たりにしたか、どこかでその証拠をつかんでいる。
どちらにしても、彼は母親本人に言われたくないことばを聞かされて育ってきた――生みたくなかった。生まれなければよかったのに。あなたのせいで。
さらには何も気づこうとしない、または気づいていても何もしない父親か。
彼の言うとおり、そんなのはどこにでもある話しだ。
でも、そう言いすごすことができるのは「他人」のすること、か。
「センパイ?」
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