ふう、と息をつくと気遣わしげに名前を呼ばれた。私は頭をおこし、しっかりと彼をみて続けた。
「だいじょうぶ。心配しないで。やめないから。時間とお金の無駄になってもいいの。父のいうことのほうが正しいともわかってる。でも、私、誰に言われたわけじゃないのに自分から始めて、しかもやめないできたことって、絵をかくことだけなの。あ、本を読むもあるけど、それは親の影響もあるし。お茶は続いてるけど、自分からしたいって言ったことじゃない。ピアノもお習字も続かなかったし、仕事もやめてしまったし、男のひととの交際も続かない。でも、これだけはやめないでいるから、ほんとに好きなんだと思う」
そう、本当にこれだけ。これだけは、私が、私自身が望んで、強く手放さないでいるものだ。これだけは、誰からも奪えない。奪われないできた。だから。
「わかってるのよ。私だって、こんな遅くから始めてもしょうがないのかもしれないとか、才能がないから努力したって報われないかもしれないとか、でも、そういうのはどうでもいいの。私が、やりたいの。だって、これがいちばん好きなんだもん。ミズキさん、言ってくれたでしょ? 私は絵をかいて、それでできれば食べていけるようになったほうがいいって」
「姫香ちゃん……」
ミズキさんの長い腕が伸びてきて、私はでも、身体をひいた。嫌だったわけじゃない。まだ、続きがあったから。彼は、そういう気持ちをちゃんとくんで、瞳を合わせてきた。
「……うちの父ね、昔は読書好きだったけど今はたまに司馬遼太郎を読むかなあっていう普通のおじさんで」
ミズキさんが続きをうながすようにゆっくりと首をかたむける。
「家にある本もちっとも開かないし、そもそも仕事関係と子供用以外で本を買ってこない。でも私は父の書棚のヴェルフリンもラスキンもリーグルもブルクハルトもホイジンガもブルフィンチも読んでて、ゼミでかなり助かった。それだけじゃなくて、物凄い量の詩の本があって、もちろん小説もたくさんあって、それで自分が卒論書いてるときにふっと、これだけ本を読んでたひとがなんでだろうって不思議に思ったんだよね。それまでは母が愚痴ってた通り、本好きを見込んで結婚したのにちっとも文学の話をしないって、所帯をもって本どころじゃなくなったんだと思って納得してたのね。
でもフォションの『形の生命』を読み返したら、私が生まれる前の年の定期が栞代わりに入ってたの。それでぱらぱらっと家にある本の奥付を調べてみたら、その手の単行本で、それが、いちばん新しいの」
偶然かもしれないと、何度も思った。だから、向きになって調べることはしなかった。けれども、私は新しく本をひらくたびに奥付はみた。それらしい本はすべて、私が生まれる以前の発行日だった。
「結婚しても、父はちゃんと、本を読んでたのよ。でも『形の生命』には父の蔵書の判子がなくて……ああ、捺さなかったんだなあって、それ見たらすごく、切なかったんだよね。自分が、父親のなにかを奪ったのかもしれないって……」
私はそこで目を閉じた。
べつに、それは、父の人生で父の選択だ。私が頼んだことじゃない。それに、今からだって書けばいい。記事を書いて稼いできたひとなのだから。いかにも文学青年らしい、本に挟まれたクラッシックコンサートの半券をみつけ、これを誰といったのだろうと想いを馳せるのは娘のむすめらしさの特権で、情熱的な恋愛詩にひかれた線をなぞるのもその範疇だ。そして、私の想像が、私のロマネスクな趣味でしかないように、父の人生は父のものだから、それでいい。
だからこそ。
「私はもう、親に騙されない」
「姫香ちゃん?」
ミズキさんの眉間が狭くなっていた。このひとが、こんなあからさまな態度をみせるのは珍しい。
「ああ、べつに、大したことじゃないの。たいしたことっていうか、そうね」
我ながら情けない気分で苦笑がもれた。それから、つづきを待つひとへと説明する。
「私、いま思うと、親のこと実はけっこう尊敬してたんだよね。うちの母は誰ちゃんと遊んじゃいけませんみたいなこと決して言わなかったし、宗教の勧誘のひとにも丁寧に対応してて、父親も肌の色や宗教で人間を差別しちゃいけないって話してくれたし、ハンディキャップのあるひとへも偏見なく手を貸せて、お店のひとへの態度も横柄じゃなくてさ。ほら、たまに舌打ちしたり威張ったりする大人いるでしょ? ああいうふうじゃなくてまともっていうのかなあ。べつに取り立ててすごい立派なことじゃなくてふつうに当たり前のことなんだけど、安心してたんだと思うのね」
ミズキさんは黙って、私のことばに耳を傾けようとしていた。
「でもね、結婚のことで母親が、前につきあってたひとのほうがいい会社に勤めてたとか、次男だとか近くに住んでるとか、そういうことを漏らしたりすると、私が子供っぽいんだろうけど、正直、嫌な気がした。お金持ちのところにお嫁にいきなさいって育てるお母さんが実際にいるのも知ってたし、それはそれでそういう生き方もあるって頭ではわかってたけど、私、自分の母親はそういうことを言わないひとだと信じてたみたいなのよね。しかも結婚がダメになったりすると、もっと頭のいい子かと思ってたのにってため息つかれて、私、子供の頃から両親ともに賢いなんて誉められたこと一度もなくて、ずっと、バカなんだから勉強しなさいって叱られ続けてきたのに、あれってウソだったんだ騙されてたって、親の方便の何もかもにがっかりして、そんなことに落胆しちゃう自分てなんて幼稚なんだろうって情けなくなったし、なんだか複雑な気がして、これが世に云うゲンジツってやつかって思ったりした」
顔をあげると、彼はすこし驚いていたような様子だった。あわてて。
「ごめんなさい。こんなこと聞くの、いやだよね。みっともないこと聞かせちゃった」
「みっともないとも思わないし、僕は嫌でもないけど……」
「けど?」
「姫香ちゃんらしいなあって」
その、「らしい」ってなんなのだろうといつも思うので、このさいだから尋ねてみた。
「子供っぽいってこと?」
「いや。ふつうだよ、きっと」
「ほんと?」
私はほっとして期待に目を輝かせていたように思うのに、
「気づくのが、その他大勢よりだいぶ遅いだけの違いで」
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