そこは小さくうなずいた。
「僕、シェスタのときにごろごろして抱き合うのが好きなんだよね。お昼食べてすぐ働くって絶対におかしいよ」
私が地球や人類の未来へ想いを馳せているあいだ、ミズキさんはまったく別のことを考えていたようだ。
「ミズキさん、その習慣は日本には馴染まないと思うよ?」
昼過ぎに個人商店が閉まっているのが当たり前の南欧じゃないんだから。今時はきっと、そういうところも少ないんじゃないかなあ。
「でも、葡萄棚の下なんかで軽く一壜あけてから鎧戸をおろしてするのは愉しいよね」
そこはどうなのか経験がないのでわからない。そうか、ミズキさんの過去の恋人って日本人じゃない可能性のほうが大きいのか、と妙なことを意識させられた。まあそれはそれ。さほど気にならない自分に呆れながら、たしかにあの湿度の低い地中海性気候のど真ん中でする昼寝は、正体がなくなるほど気持ちいいと思い出す。旅行者じゃなくて地元の猫にでもなったような気がする。ならば。
「ミズキさんがアマルフィ海岸あたりに瀟洒な別荘でも持ってるようなら、うん、て言おうかな」
「イスキア島に友達はいるけど……恐ろしく贅沢なことを言うねえ」
「カプリ島より安いんじゃないの? アマルフィ大聖堂横の《天国の回廊》が修復中で入れなかったのが心残りなのよ」
回廊好きの私としては、美麗を謳われる白亜の柱廊を歩けなかったのは返すがえすも残念なのだ。つまりは、旅行するなら南欧がいいと提案したつもりだった。
「ナポリ、ポンペイ、カゼルタ、パエストゥムあたりか。たしかに島に渡っちゃうより君は陸側のほうがいいだろうね」
ところが彼は頤に手をあてて考えるそぶりをしてから真顔で口にした。
「姫香ちゃん、甲斐性なしでごめんね。そのうちユダヤ人画商のように儲けて君のアトリエをあのあたりに建ててみせるから、捨てないでね」
いつものことながら、このひとの言葉はどこまでが冗談なのか判断がつかない。昨夜、酔っ払いながら今後は日本のアート業界にもユダヤ資本が入るのだろうかなどと話したりしたのだった。目を白黒させて見あげていると、にこりと微笑まれた。
「僕は、期待されたいほうだから。君みたいに贅沢なことをなんでもなく言うほうが張りがある。というより、そうじゃないとつまらない」
「ミズキさんてほんと、いわゆる旦那衆なんだねえ」
感嘆すると、だって坊主か旦那衆か、遡るとどっちかしかない血筋なんだよと苦笑された。若狭の廻船問屋らしい漆器や茶道具の数々は北前船の隆盛を思い起こさせるに十分で、そういえば『茶の本』を記した岡倉天心も福井の縁者だったかと思い出した。
「でも父はなんでだか書生気質で、しかも異教の宗教音楽に嵌まるあたりがおかしいんだけどさ」
ミズキさんのお父さんは後妻さんの子供で、先妻さんの子供たちの血筋はみんなバリバリ働くタイプらしい。私は地道な学究肌のお舅さんでほんとによかったと思う。
お父さんの帰ったあとでアルバムを見せてもらった。
おじいさまは見るからに人物という顔つきをした長身のひとで、おばあさまは、結論からいえば、私と似ても似つかない、絵に描いたように美しい大和撫子だった。
なので造形的には和服の似合う撫で肩と富士額という点に辛うじて共通点が見出せるだけだと画家の目で反論すると、彼は珍しくも頑として譲らなかった。なにをもって似てる似てないを判断するその基準が根本で違うようだ。
ミズキさんのキモノの感じからすると、もっと粋筋のひとを想像していた。実際は、やわらかものを身にまとったお茶の先生らしい上品な御婦人だった。そう言うと、ああ、チャキチャキした感じじゃなかったけど、なんだか逆らえない雰囲気があってね、と彼は思い出し笑いした。母も、祖母にだけは対抗できなかったくらい、とうなだれてつけたした。
「それにしても、父の話にニコニコしてる姫香ちゃん見たら、ほんとに気が抜けた」
「いきなり、盛りあがりすぎた?」
未来の嫁にはあるまじき態度だったかと質問すると、彼は笑いながら首をふる。
「いや、安心した。あのひともあんな風に話せるなら、けっこう幸せなんだなって」
「好きなこと研究できたら幸せじゃない?」
そうこたえると、ミズキさんはふいと視線をそむけるようにしてこたえた。
「そうだね。僕はずっと、父が大して好きでもない研究に没頭することで、妻や子供のことを忘れようとしてるんじゃないかって思ってた」
違うってわかって、ほんとによかった。
そう、つぶやいた。
それは安堵ではなくて、諦観に聞こえた。
理由はなんなく想像できた。私の勘がいいわけじゃない。何をどういえばこちらに伝わるか、ミズキさんはよく知っている。
浮気したら殺したくなるから。
あの、禍々しい言葉は母親への呪詛だ。
でも、ミズキさんはそのことだけは、私に言わないだろう。
桜が、とても美しく見えた。こんなときだというのに、いや、こんなときだから、か。
〈見渡せば柳桜をこきまぜて〉という歌の心境にはほど遠いものの、ここには柳も桜もあって、都であることも事実だ。
やわやわとした陽光のした、淡い色の小さな花が群れてうつむき咲き急ぐのはいかにも儚く思えた。とはいえ薄い一重の花弁の頼りなさが寄せ集まれば、幹や枝さえ目隠しするこの花は貪欲だと思う。それでこちらの血をざわめかせるほどに妖艶なくせに、こんなにも静かだ。
胸のうちで、しずかに問う。あと何回、見ることができるだろう。このさき誰と、どれだけ見れるだろう。
このひとと、この先どれほど見るのだろう。
仰ぎ見たその横顔の輪郭線は、桜から私の目を奪うほどに美しい。
額から一直線に落ちるギリシアンノーズの峻厳な線も捨てがたいけれど、この、眉間のしたでいったん窪んで鼻梁へと流れる横顔も好きだと思う。顔の中心の上下で波をつくるように、唇の膨らみから生まれる微妙な起伏と調和する。
「なに?」
あんまりじっと見つめすぎたのか、首をかしげられる。正直に、思ったことを口にした。
「横顔、綺麗だなあって思って」
小さな笑い声にまじって、ありがとう、と返る。姫香ちゃんにそう言われると自分がキレイなもののような気がするよ。
どうこたえようか考えるほどの重みはなく、彼が続けた。僕には君が、すごくきれいなものに思えるけどね。
いかにも彼らしい甘ったるい睦言にむずむずするような居心地の悪さをおぼえると、となりで明らかに気分を立て直したようだ。そのことにむっとするかと思えば、私はやわらかいものを口に含んだような気持ちで息をついた。
絡めとられるのを恐れていたはずが、浸っている。
昨夜のような時間がもっとずっと長く続いてくれればいいと、そうすれば私は何も考えないですむのにと恨んでいた。
誰もが、幸福な一夜のあとそのまま、その気持ちを維持できるわけじゃない。この持続性のなさ、耐久性のなさが、でもだからこそとても、尊い気がした。この壊れやすさを抱えて、やっていかないとならない。
そう思っているはずなのに、短く楽しかった夜を惜しむことを知ったのに、幼い頃のように、光満ちる爛漫の春だけを望む自分を見つけて不安になる。こんな朝に、春だけを永遠に生きていたいと願う私は、やはりまだ大人になれていないのかもしれない。
握りしめる手の温かみだけが、私をつなぎとめている。
髪を揺らすようにして、ついと頤をあげた。
見あげる瞳にうつる桜が、今年はいつもより白い気がした。
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