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2012.01.03 Tue 黒船来航と対抗した日本の官僚達 その2

前回は、黒船来航前の幕府の置かれている情勢と歴史に最登場する真田についてを書きました。

真田幸貫が幕政に登場し彼の登用した人材や制度が国を変えていくことになります。特に外国の情報収集と西洋の学問を研究させる方針はその後の日本にどれだけ大きな影響を与えたことでしょう。松代藩で問題を起こし閉門されていた英才・佐久間象山を幕政のブレーンに抜擢したあたりが彼の見識の高さが伺われます。象山は活文禅師から受け継いだ思想を推し進め吉田松陰・勝海舟・坂本龍馬に大きな影響を与えていきました。象山がこのように活躍できたのも老中・真田幸貫の後ろ盾があったればこそです。

さて1853年ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が浦賀にやってきます。いわゆる黒船来航ですが、多くの人が突然黒船がやってきて大騒ぎになったみたいな歴史観を持っていますが事実は全然違っていて、当時の幕府は事前に来るのがペリーで、彼が何の目的で来たのかも、もっと言えば彼らがどんなやり方で開国を迫ってくるかといった様な方法まで知っていた事は教科書には出て来ません。この時代、日本沿岸を外国船が日常的に航行していたので黒船自体はそんなに珍しい事ではなかったのです。では何で黒船来航が重要なのかというと、ペリーは日本を開国させるという目的を持って来たことです。幕府はオランダからその辺の情報をかなり正確に伝えられて知っているんです。当時の幕府のほうが今の民主党政府より情報戦でははるかに優れていたのです。幕府が恐れたことは西洋列強が力をもって植民地化するやり方でした。隣国・清はイギリスによって植民地化され結果アヘン戦争が起こるなどを正確に把握していた幕府はペリーによって国家存亡の危機がいよいよやってきたと認識していたのでペリーの来航が重要な事なのです。

ペリーは日本に物資の補給・港の開港・貿易の開放を要求しました。これに対し幕府は交渉の全権として林大学守を送ります。この林大学は政府高官ではなく学者です。なぜ交渉役にキャリア高官でない学者を送ったのか?それは上記のような西洋事情に詳しく西洋列強の方法論等を熟知した学者の方が間違いのない交渉ができると幕政中心が思ったのだと思います。私見ですが当時の老中たちが政策を決める過程で情報及び情勢分析で林のような学者に意見を求めていたのは必然で中でも林大学の見識等を認めての全権任命であったと思います。また交渉に失敗したとしても交渉役が幕政の中核を担う人物でなく学者であることで言い訳が出来る体制を考えていたからではないでしょうか?

さて林はペリーと交渉をする訳ですが、その対応は見事としか言えない内容です。ペリーは高圧的に威嚇して交渉してきますが林はペリーの要求をことごとく論破しペリーは林に譲歩せずにいられない状況に追い込みます。結局交渉は人道的な物資の補給・港の一部開港にとどまり貿易はしないということでまとまります。これがいわゆる日米和親条約です。この段階で日本は開国はしていませんのでペリーは失敗したとも言えます。ペリーは日本をナメてかかって返り討ちにあったみたいなものです。西洋人はアジア人より優れた民族であるという考えが支配していた時代ですし、事実それまでの国を植民地化してきた歴史からもそう考えていたんでしょうね。ところが日本には当てはまらないどころか逆に言いくるめられてしまったわけですからね。ペリーは後日日本恐るべしと語っていることでもわかります。どうも黒船来航 日本開国 不平等条約みたいな認識があるんですが、事実はならず者を返り討ちにしたってのが事実であて当時の幕府の外交能力の高さはすごいの一言です。

このような事件があって日本は国内問題に加えて外交問題が最重要課題となります。日本の国力と西洋列強の国力を考えた場合どう考えても侵略・植民地化は避けられない状況なんですが、当時は神国日本は神が守っているたとえ外国が攻めてきたとしても神風が吹き日本は負けないなどという非現実論が通用していた時代です。この時冷静に事態を分析していた人たちが、幕政中心にいた水野忠邦・阿部正弘・真田幸貫(信州松代藩主)・松平忠固(信州上田藩主)です。特に安政の改革を主導した阿部正弘・松平忠固らの老中は首座の阿部がまだ25歳であった事もあり非常に進歩的かつ柔軟な考えを持っていたのだと思います。彼らの功績は今までの幕府では考えられないような人事の刷新を断行したことにあります。勝海舟・永井尚志・高島秋帆・大久保忠寛・ジョン万次郎といった英才を積極的に登用します。私が特に重要な事だったと思うのは岩瀬忠震を異例中の異例の人事で幕府目付に登用した事でしょう。岩瀬はこの人事によって近代国家へ変革するための骨格を作っていきます。岩瀬が作ったものを書くと審書調所(外務省と内閣調査室と防衛省調査機関の合体したようなもの)・講武所(後の日本陸軍)・長崎海軍伝習所(後の日本海軍)・品川砲台築造などです。どうも明治維新は薩長が全て行ったように思っている人が多いのですが、この時点での権力中枢は幕府老中たちです。彼らは列強に対して国家存亡の危機に立たされていたのです。一歩間違えば植民地にされる危機を針の穴を通すような方法で渡っていかなければなりませんでした。

そんな岩瀬に人生最大の大任が任されます。それはアメリカ全権領事として下田に赴任したタウンゼント・ハリスに突きつけられた通商交渉においての日本側全権として交渉役の任命でした。ハリスはもともと商人ですから通商が疲弊した日本財政にとって有益であると通商を強行に主張します(まぁ開国しろってことですな)当然岩瀬はこのままでは立ちゆかない日本で有ることは十分理解していましたが、一歩間違えば清国を初めてする列強による植民地化の危機もある。しかしここで開国に踏み切ってしまえば当時大勢を占めていた攘夷派の反発を買い内戦の危機もあるという難しい状況の中で不可能と思われた今でいうソフトランディングを試みます。多くの港を開港するように迫るハリス特に経済の中心地である大阪開港を強く要求します。これに対し岩瀬はぎりぎりの交渉を行なっていきます。無条件に開国するのは国論を分ける事になり結果 外国人に対して攘夷派が排除行動に出るのは必死である もし条約締結後に国内で外国人が殺されるようなことが頻発すれば列強に攻撃されてしまう口実を作ることになりいずれは植民地への道に行き着く危険 もう一方ここで交渉を拒否すれば産業も資産もないこの国はいずれ立ち行かなくなり結果やはり植民地への危機がある ここで岩瀬がやったことは歴史的大偉業だと私は思っているんですが・・・・それは当時ただの寒村だった横浜開港です。簡単にいえば横浜を第ニの長崎の出島にしようということです。あくまでも国内において自由に外国商人が通商を行えないように 商業中心地の大阪を開港すれば幕府の目が届かないことや攘夷派の過激の行動のこともあり幕府の管理ができる横浜を開港して管理しようというものです。ハリスはそれでも大阪開港にこだわりますが岩瀬は攘夷派の存在を気にかけ大阪開港はかたくなに拒否します。しかし代案としてこれも寒村であった兵庫(神戸)を開港するというハリスに花を持たせる譲歩案を出します。この辺の岩瀬の対応は見事としか言えませんね。

長崎出島的な開港で外国人を一定の地域に留めることであるならば攘夷派の反発も抑制できるギリギリの選択であると私も思います。現在・不平等条約とされる領事裁判権がなかった事も岩瀬の考えでは、一定地域に限って(岩瀬は横浜に運河を掘り、川と運河で長崎出島のように分離した)居留するものだけに適応するのが前提なら国内に不利益がないと考えたのは当然です。また関税自主権がないことも問題視されますが岩瀬とハリスの交渉では関税率は20%で当時の世界では妥当な関税率であることも追記しておきます。

結局ハリスは岩瀬の案を受け入れることになりますが、最後の最後に攘夷派の画策によって孝明天皇の通商の条約締結の勅許がおりずが通商を拒否したことから交渉は頓挫します。この時国外でアロー号事件が勃発 ハリスはイギリス・フランスが日本を侵略する可能性を指摘し友好国アメリカとの条約締結を迫ります。事実その可能性が非常に高かったため岩瀬は独断でこの条約に調印します。条約の条件に岩瀬はハリスに対して、もしイギリス・フランスが日本を侵略しようとした場合アメリカが日本を助けることを確約させています。これが私達が歴史で学んだ日米修好通商条約(不平等条約)の真相です。この後岩瀬は攘夷派の台頭 老中・阿部正弘から引き続き開国派老中となっていた堀田正睦が大老となった井伊直弼によって失脚すると天皇の勅許なしに条約に調印した責任を追求され蟄居 岩瀬は失意のうち44歳で病死します。

この時幕政の中核にいた阿部正弘・堀田正睦・松平忠固そのブレーン岩瀬忠震・佐久間象山・勝海舟・ジョン万次郎たちが近代日本の骨格を作ったのです。特に岩瀬忠震はもっともっと評価されても良い人物なんじゃないかと思っています。講武所は維新後鎮台となりのち日本帝国陸軍となっていきます。長崎海軍伝習所は赤堀小三郎(上田藩士)・勝海舟らを輩出しのち坂本龍馬とつながり最後には日本海軍となります。

さてここまでのサックリしたまとめですが、次のようなものです

1・1700年代徳川政権が疲弊して国内が混乱し始める

2・危機感をもった幕府は改革を断行していく 享保の改革・寛政の改革・天保の改革

3・信濃国の松代藩藩主・真田幸貫が老中に抜擢され 有用な人材を登用・洋学教育研究に尽力

4・真田旧領の信濃国上田藩藩主・松平忠固が老中に就任 穏健な開国に向けて政権運営

5・上記の老中の方針で目付・岩瀬忠震らが近代国家の骨格を形成する

6・日米和親条約締結(この時点で開国はしていない ペリーの負け)

7・日米修好通商条約締結(植民地化されないためのギリギリの選択)

アジアで植民地にならなかった国は日本だけです。圧倒的武力と経済力を持っている西洋列強に対し何もなかった当時の日本でただひとつ持っていたのは高い教養と不屈の精神をもった人間でした。私たちはそういう民族なんだと過去の歴史から学ぶことができた事は私にとっても大きなものでした。

また国家存亡の危機が訪れた時またしても忽然と現れた真田や上田藩 歴史の表舞台には出てこないけど信州上田地方に関わる人は国家の大事には必ず最初の道筋をつけるために登場してくるのは不思議ですね。平安時代末期には木曾義仲(現在の上田市丸子地区で挙兵)戦国時代の真田 幕末期の真田や上田藩 維新後の製糸業主導などこの地方は深く関わって来ていることは新しい発見であり興味がつかないところです。

その後、明治維新に至り維新30数年で世界の列強の仲間入りをすることになるのですが、その辺の事はまたおいおい書いてみようと思っています。

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Comments

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# 2012.11.08 Thu 05:07

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: 承認待ちコメント

# 2012.10.24 Wed 14:45

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