野村義一
のむら ぎいち 野村 義一 | |
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生誕 |
1914年(大正3年)10月20日[1] 北海道胆振管内白老村 |
死没 |
2008年(平成20年)12月28日 北海道登別市 |
国籍 |
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民族 | アイヌ民族 |
職業 |
町議会議員 北海道ウタリ協会 |
活動期間 | 1960-1996 |
団体 | 北海道ウタリ協会 |
親 | (母)野村ミツ |
野村 義一(のむら ぎいち、1914年10月20日 - 2008年12月28日)は、白老町の元町議会議員、北海道ウタリ協会の元常務理事・書記長、元理事長(1964-1996年)。
概要
[編集]1914年、胆振の白老村に生まれる。幼少期から父親はおらず、母の野村ミツの元で育つ。母方の野村家は、白老の『コタンコロクル』(首長)の家系である。
1935年(昭和10年)、日本軍の第7師団月寒歩兵第25連隊に入隊する。1936年、白老漁協会に就職する。1939年、再び日本軍に徴兵されたが、1940年、除隊となった。1943年(昭和18年)、3度目の徴兵を受けた。1945年、樺太にてソ連軍に抑留(樺太抑留)されたが、1948年、引き揚げることが出来た。
1949年3月から白老漁業協同組合に招聘され、同年4月の33歳の時に受け入れ、専務理事となり、1973年までの24年間を務めている。白老漁協の専務理事就任時における1000万円(当時)の負債があった状態から立て直しに成功出来た理由について、軍隊時代に勉強していた経済の知識が役立ったと明かしている[2]。
1955年に、白老町の町議会議員に当選し、1963年まで町議会議員であった。7期28年町議を務め、町議会副議長も経験した。野村は漁協専務の立場から、1950年代に自由民主党の党員となっており、後述のアイヌ活動家となってからも党籍離脱はしなかった[2]。
アイヌ活動家
[編集]後述のようにアイヌであることで差別を受けた経験も無かったが、40代半ばに突如としてアイヌ活動家組織の一員となった。野村が組織に招かれた理由としては、当時の社団法人北海道アイヌ協会が財政的危機にあったことにある。当時「アイヌの保養施設」として北海道庁から払い下げを受けた北星寮の経営が赤字続きな上に、決算報告もしていない有様だったなので、北海道アイヌ協会の責任問題になっていた。この財政的危機の克服と再建するため に、漁協専務で同組織を立て直した実務家としての能力が買われたことにあった[2]。1960年の「(社団法人北海道アイヌ協会)再建大会」で初めてアイヌ系の会合に参加し、同年に同組織の常務理事・書記長に就任し、組織を行政機関から公金獲得する路線へと転換を行った。野村など協会幹部らで再建資金の国庫補助を直訴し、国から 300 万円(当時)、道と市町村からも1000 万円(当時)集め、銀行からの融資も獲得した。 1961年に、「北海道ウタリ協会」への改称も行った[2]。1964年(昭和39年)、北海道ウタリ協会理事長(第3代理事長)へと昇進し、1996年の理事会選挙で敗北するまで32年間理事長職を勤めた[2][1]。
漁協退職後に魚の加工事業をするつもりでいた野村は町内に広い土地を持っていたが、 ある大企業が白老町に進出した際に売却代金に地代+追加代金も払わせている。この「追い銭」も1973年に入札開始となった白老漁業協同組合の駅前の新事務所建設資金に活用している[2]。1970年代まてまの北海道ウタリ協会は国や地方自治体から公金による経済支援獲得を主軸を運営されていたが、1980年代から「差別」に力をいれるように更に変化し[2]、「北海道旧土人保護法」の廃止をめざした「アイヌに関する法律」案をまとめたり、その制定をもとめて全国各地で活動もするようになった[1]。1988年に設立された『反差別国際運動』にも、理事として参加する。1992年(平成4年)12月のニューヨークの国連本部の「国際先住民年」開幕式典で記念演説した[2]。1997年(平成9年)には『アイヌ文化振興法』が制定されたが、北海道ウタリ協会内では組織内アイヌ活動家からも過激主張をしている野村派に対する不満が溜まっていた。同法制定の前年である1996年には続投意欲を示していた野村は総会選挙で対立候補に敗れたことで理事長職から引きずり降ろされ、野村派理事の理事職解任も投票で決まった[2][1]。1997年に北海道新聞文化賞を受賞した[3]。
2004年11月1日に出版された「野村義一と北海道ウタリ協会」によると、野村は「生まれて40年以上の間、アイヌであることを理由に差別に苦しんだ経験もありません」と明言している。1950年代時点でも「アイヌ差別」をされた経験が無いため、当時も官からアイヌ専用事業運営許可などアイヌ限定支援や優遇措置自体はあったが、野村がアイヌ活動家となって、北海道アイヌ協会を多額の公金投入を要求する路線へと方針転換させる前まで、慢性赤字状態でも行政が「アイヌ」に対して公金投入してくれる状況は皆無だったことを明かしている。そして、アイヌであることで差別をされた経験が無いため、「アイヌ問題と言われるものに(1960年まで)一切タッチしてきませんでした。」と明かしている[2]。2008年12月28日、登別市の登別厚生年金病院で死去した。
著書
[編集]- アイヌ民族を生きる 草風館 ISBN 978-4-88323-091-4
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]関連文献
[編集]- 竹内渉 編 『野村義一と北海道ウタリ協会』 草風館、2004年、ISBN 978-4883231447
- 本多勝一 『先住民族アイヌの現在』 朝日新聞社、1993年、ISBN 978-4022607768