松平光雄
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保元年8月22日(1716年10月7日) |
死没 | 宝暦6年11月1日(1756年11月22日) |
改名 | 織之助(幼名)→光英(初名)→光雄 |
戒名 | 万鋒院松厳元盛 |
墓所 | 岐阜県本巣市の智勝院 |
官位 | 従五位下、丹波守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 信濃松本藩主 |
氏族 | 戸田松平家 |
父母 |
父:松平光煕、母:小野氏 養父:松平光慈 |
兄弟 | 光慈、戸田光清、光雄 |
妻 |
正室:冨(佐竹義峯の娘) 側室:石縛氏、久田氏、谷口氏 |
子 |
光徳、光和、一柳直住(七男)、光悌、 娘(松平信直正室)、娘(今城定興室)、 娘(石川総英正室)、娘(成瀬正典正室)、 娘(野々山和義室)、娘(松平忠告正室)、 娘(本多忠直正室) |
松平 光雄(まつだいら みつお)は、信濃松本藩の第2代藩主。戸田松平家7代。
生涯
[編集]享保元年(1716年)8月22日、山城淀藩主・松平光煕の五男として山城淀城で生まれる。享保17年(1732年)10月5日、兄で松本藩主(光煕の跡を継いだのち、鳥羽藩を経て転封していた)の光慈が死去したため、その末期養子として家督を継ぐ。10月15日、将軍徳川吉宗に御目見する。12月16日に従五位下・丹波守に叙位・任官する。
碓氷関・福島関の女手形の発行事務は、前藩主の水野家が改易された後は高遠藩主に移っていたが、享保20年(1735年)には再び松本藩主の任となって明治維新まで続いた。寛保3年(1743年)11月26日、幕府領塩尻陣屋廃止に伴い筑摩、佐久、伊那、小県の4郡のうち159か村、5万3290石を預地とする(のちに佐久、小県13000石は中之条陣屋に引き渡す)。
宝暦6年(1756年)11月1日に江戸呉服橋邸で死去した。享年41。跡を長男の光徳が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 冨 ー 佐竹義峯の娘
側室
- 石縛氏
- 村岡氏
- 三輪氏
- 太田氏
- 久田氏
- 大橋氏
- 田村氏
- 谷口氏
- 小芦氏
- 山本氏
子女
- 松平光徳(長男)生母は石縛氏(側室)
- 松平光和(六男)生母は久田氏(側室)
- 一柳直住(七男)生母は田村氏(側室)
- 松平光悌(八男)生母は谷口氏(側室)
- 松平信直正室、生母は太田氏(側室)
- 今城定興室、生母は村岡氏(側室)
- 石川総英正室、生母は太田氏(側室)
- 成瀬正典正室、生母は三輪氏(側室)
- 野々山和義室、生母は大橋氏(側室)
- 松平忠告正室、生母は小芦市(側室)
- 本多忠直正室、生母は山本氏(側室)
参考文献
[編集]- 金井円『近世大名領の研究』