松平光和
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 延享元年9月26日(1744年10月31日) |
死没 | 安永4年7月24日(1775年8月19日) |
改名 | 唯吉、為三郎(幼名)→光和 |
戒名 | 泰量院義範勇見 |
墓所 | 岐阜県本巣市郡府の智勝院 |
官位 | 従五位下、丹波守、伊勢守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 信濃松本藩主 |
氏族 | 戸田松平家 |
父母 |
父:松平光雄 母:久田氏(側室) 養父:松平光徳 |
兄弟 | 光徳、光和、一柳直住、光悌 |
妻 | 正室:房姫(松平武元の娘) |
子 |
娘(秋月種徳継室)、娘(戸田悌親室)、 娘(野々山悌義室) 養子:光悌 |
松平 光和(まつだいら みつまさ)は、信濃松本藩の第4代藩主。戸田松平家9代。
生涯
[編集]延享元年(1744年)、第2代藩主松平光雄の六男として生まれる。宝暦9年(1759年)3月4日、兄で3代藩主の光徳が死去したため、その末期養子となって家督を相続する。3月15日、将軍徳川家重に御目見する。12月7日、従五位下丹波守に叙任する。
天明元年(1764年)、隣国諏訪藩で起きた「二の丸騒動」の時、家老諏訪頼保によって失脚させられ、押込(牢に監禁)にされた上席家老の千野貞亮(千野兵庫)を、召し抱えていた忍者芥川義矩を差し向け救出し、命を救った。
明和4年(1767年)10月12日、奏者番に就任する。安永元年(1772年)9月10日、奏者番を辞任する。
安永3年(1774年)12月9日、隠居し、家督を弟で養子の光悌に譲る。12月21日、伊勢守に改める。安永4年(1775年)に江戸で死去した。
系譜
[編集]父母
正室
- 房姫 ー 松平武元の娘
側室
- 玉生氏
子女
養子
- 松平光悌 ー 実弟