木戸忠太郎
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木戸 忠太郎(きど ちゅうたろう、1871年6月1日(明治4年4月14日) - 1959年(昭和34年)3月15日)は明治時代から昭和時代の人物。地質学者。木戸孝允の養子。実父は松本順造。母は木戸夫人・松子の妹・信。
生涯
[編集]京都生まれ。1876年(明治9年)、木戸孝允の養子となり、生咲忠太郎から木戸忠太郎となる。1886年(明治19年)4月、養母で伯母の松子が死去。1898年(明治31年)、東京帝国大学理科大学地学科卒業、農商務省に入る。
1903年(明治36年)8月23日、小野田元熈の娘・千子と結婚。1907年(明治40年)3月、製鉄所技師兼農商務技師のまま満州鉄道に入社。地質調査部長として鞍山市・撫順鉱の磁鉄鉱を発見するなど功績を挙げた。地質研究所長となる。1909年(明治42年)春、だるまの収集を始める。
1921年(大正10年)、満鉄疑獄事件で召喚される。1923年(大正12年)、50歳で退職。
後半生は京都の自宅(旧木戸孝允邸)の別棟に「達磨堂」を建て、達磨収集の趣味に生きた。1932年(昭和7年)、著書『達磨と其諸相』を刊行。1941年(昭和16年)9月23日、郷土玩具の研究会、京都わらんべ会を結成。
1959年(昭和34年)、88歳で死去。墓所は多磨霊園[1]。達磨堂は京都市中京区の木戸孝允旧宅に隣接して現存し、公開されている。
参考文献
[編集]- 『企画展示 侯爵家のアルバム-孝允から幸一にいたる木戸家写真資料-』 国立歴史民俗博物館、2011年3月1日。