コンテンツにスキップ

天野元政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
天野元政
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄2年[1]1559年
死没 慶長14年4月29日[1]1609年6月1日
改名 毛利千虎丸[1]幼名)→天野元政→右田元政[要出典]→毛利元政[1]→宗休[1](号)
別名 通称:少輔六郎[1]→六郎左衛門尉[1](通称)
戒名 天徳性真大居士[1]
墓所 仙竜寺跡(山口県周南市小松原
天徳寺[1](山口県防府市下右田
官位 従五位下[1]掃部頭讃岐守[1]
主君 毛利輝元
長州藩
氏族 大江姓毛利氏藤姓天野氏
多々良姓右田氏[要出典]→毛利氏
父母 父:毛利元就[1]、母:乃美大方[1]
養父:天野元定右田隆量(重政)[要出典]
養母:阿曽沼弘秀[1]
兄弟 女子[注釈 1]毛利隆元五龍局宍戸隆家正室)、吉川元春小早川隆景芳林春香上原元将室)、穂井田元清毛利元秋出羽元倶元政末次元康小早川秀包
正室:天野元定の娘[1]
継室:阿曽沼広秀の娘
側室:木梨隆盛の娘、長島氏の娘
毛利元倶元以阿曽沼元理、女(毛利元宣正室)、元雅、女(細川元董室)、就員、女(椙杜元周室)、毛利元嘉専誉瑩法
特記
事項
二宮就辰井上就勝を毛利元就の落胤とする説があり、それに従うと両名は元政の異母兄にあたる。
テンプレートを表示

天野 元政(あまの もとまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏の家臣。毛利元就の七男[1]右田毛利家の祖。

生涯

[編集]

永禄2年(1559年)、安芸国戦国大名・毛利元就の七男として誕生する。母は乃美大方で、穂井田元清小早川秀包とは同腹の兄弟。

生城山天野氏は、隣接する金明山天野氏同様に鎌倉時代天野遠景を祖とする安芸国国人であったが、永禄12年(1569年)、天野氏当主の天野元定が死去した後、家督をめぐって家中に内紛が起きた。これに際し父・元就がこの内紛に介入、七男である千虎丸(元政)を元定の婿養嗣子として家督を継がせることで、事態を収拾した。

その後、大内氏庶流である右田氏の当主右田隆量(重政)の養子となり、その名跡を受け継いでいる[注釈 2][注釈 3][要出典]

元政は毛利氏の一門として、多くの戦いに出陣し、天正6年(1578年)の上月城の戦いでは兄・元清と共に自ら軍の先頭に立ち、上月城を落城させるという大功を立てた。その後も毛利氏の中枢の一人として活動し、慶長元年(1596年)、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜された。文禄・慶長の役慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも参戦している。

後に姓を毛利に復して[1]、慶長8年(1603年)、周防国熊毛郡三丘に封じられた。元政は元就の抜け落ちた歯を貰い受け肌身離さず持ち歩いていたが、この年が元就の三十三回忌にあたるため、供養塔を建立し遺歯を納めた。次いで右田1万3,000石を与えられた。毛利姓に復したものの、子・元雅(もとまさ)、元嘉(もとよし)には天野の名字を名乗らせた。慶長10年(1605年)の、萩城築城を巡る家中の争い(五郎太石事件)に際しては、天野元信益田元祥の言い分を調査して、毛利輝元に報告した。

慶長14年(1609年4月29日、長門国にて死去した。享年51。

系譜

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 高橋氏により殺害された毛利元就の長女。
  2. ^ 「政」の字は重政の1字を与えられたものと推測される[要出典]
  3. ^ この場合、天野氏時代は幼名千虎丸を名乗っており、「天野元政」とは名乗っていないことになる。天野氏を継いだのが年齢的に元服前と考えられるので可能性は否定できないが、今現在では「天野元政」と呼ばれることは多い。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 田村哲夫編修 1980, p. 67.
  2. ^ a b c d e f g h i j 田村哲夫編修 1980, p. 68.
  3. ^ 閥閲録』巻35「阿曽沼二郎三郎」家譜。

参考文献

[編集]
  • 『日本人名大辞典』
  • 防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻35「阿曽沼二郎三郎」