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一木喜徳郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
一木 喜德郞
いちき きとくろう
1933年(昭和8年)男爵叙爵の頃
生年月日 慶応3年4月4日
(西暦換算1867年5月7日
出生地 遠江国佐野郡倉真村
没年月日 (1944-12-17) 1944年12月17日(77歳没)
出身校 帝国大学法科大学卒業
前職 帝国大学法科大学教授
現職 大日本報徳社社長
称号 大勲位菊花大綬章
男爵
法学士(帝国大学・1887年)
親族 岡田良一郎(父)
岡田良平(兄)

日本の旗 第16代 枢密院議長
在任期間 1934年5月3日 - 1936年3月13日
天皇 昭和天皇

日本の旗 第9代 宮内大臣
在任期間 1925年3月30日 - 1933年2月14日
天皇 大正天皇
昭和天皇

日本の旗 第29代 内務大臣
内閣 第2次大隈内閣
在任期間 1915年8月10日 - 1916年10月9日

日本の旗 第26代 文部大臣
内閣 第2次大隈内閣
在任期間 1914年4月16日 - 1915年8月10日

選挙区 貴族院勅選議員
在任期間 1900年9月26日 - 1917年8月30日
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一木 喜德郞(いちき[1][2] きとくろう、慶応3年4月4日1867年5月7日) - 昭和19年(1944年12月17日)は、日本内務官僚法学者公法学)、政治家位階勲等従一位大勲位爵位男爵。旧名は岡田 丘平(おかだ きゅうへい)。号は梁舟。

公法学を専門とする法学者で、帝国大学の法科大学では教鞭を執り、帝国学士院会員にも選任された。天皇機関説を提唱したことでも知られており、美濃部達吉ら後進の育成に努めたが、のちに天皇機関説事件において美濃部らとともに激しい批判に晒された。貴族院勅選議員に勅任されてからは、第1次桂内閣法制局長官をはじめ、第2次大隈内閣文部大臣内務大臣など要職を歴任した。枢密顧問官として宮中入りしてからは、宮内大臣枢密院議長を務めた。また、父岡田良一郎と同様に報徳思想の啓蒙に尽力し、大日本報徳社の社長を務めた。

来歴

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生い立ち

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遠江国佐野郡倉真村(現在の静岡県掛川市)に岡田良一郎の次男・丘平として生まれた[3][4]。1873年(明治6年)に一木家の養子となる[5]冀北学舎に学び、兄の良平が東京府第一中学を経て大学予備門に在学しているのに触発され上京、成立学舎に入学した。同期に町田忠治らが、教師には当時帝大生だった有賀長雄山田喜之助らがいた。

大学予備門には良平の助言に従い最低級の三年級ではなく一級上の二年級から入った。同期に林権助らがいる。その後帝国大学文科大学にあった政治科に入学。1887年(明治20年)に帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)卒業。

内務官僚、法学者として

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1899年(明治32年)帝大法科教授で内務省参与官だった当時

1887年、内務省に入省。1890年(明治23年)、自費でドイツに留学して行政法を学ぶ[6]1894年(明治27年)、帰国して帝国大学法科大学教授となり、明治39年(1906年)に帝国学士院会員となる。法学者として天皇機関説を唱えるとともに、美濃部達吉らを育てた。 法科大学教授(憲法国法第一講座担当)とともに、1900年(明治30年)10月まで内務省に勤め、大臣官房文書課、県治局員、参事官、参与官を歴任する[7]

政治家として

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1900年(明治33年)9月26日、貴族院勅選議員に勅任される[8]1902年(明治35年)には、法制局長官に就任。第2次大隈内閣においては大正3年(1914年)より文部大臣を務め、大正4年(1915年)からは内務大臣に転じた。

1917年(大正6年)8月14日、枢密顧問官に任命されると[9]、それにともない同30日には貴族院議員を辞職した[10][11]。大正14年(1925年)には、宮内大臣に就任した。1933年(昭和8年)4月25日、多年の功により男爵に叙された[12]

1934年(昭和9年)には枢密院議長に就任した。在任中は天皇機関説の提唱者の一人として、弟子の美濃部達吉とともに非難に晒されるが、その裏には一木と対立関係にあった平沼騏一郎の工作が取り沙汰された。昭和11年(1936年)に二・二六事件が起きると、宮中において昭和天皇の相談相手を務め事件終息に尽力した。この事件で内大臣斎藤実が殺害されたため、後任の湯浅倉平の親任式においては制度上必要となる前任者を臨時に兼任している。

公職退任後

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1938年(昭和13年)枢密院議長を退任。一木はすでに1922年(大正11年)から旧制武蔵高等学校の初代校長を務めていたが、1938年(昭和13年)に枢密院議長を退任すると武蔵高校と強い関係にあった根津育英会理事に就任した。その後社団法人大日本報徳社社長や帝室経済顧問も務めている。1944年(昭和19年)12月17日、肺炎により東京都本郷区の自宅で死去。78歳だった。鈴木貫太郎が葬儀委員長になり、同21日に青山斎場で葬儀が行われた[13]。墓所は谷中霊園

人物

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謹直な人柄であったが無頓着な面があり、宮内大臣就任時は「歌御会始での詠進歌に氏名だけを書く(当時は、氏名の前に家柄・出自を書くのがしきたりだった)」など、宮廷内では「宮中のことを知らない」と評判が悪かった[14]

文部省中学校(旧制)の会議があった際、出席者全員で君が代を斉唱することになったが、出席していた一木宮内大臣は座ったまま歌おうとしなかった。これを見た柴田徳次郎国士舘の創設者)が何故歌わないのか尋ねると、「知らないから歌わない」と答えた。柴田が「文部大臣を務めたことのある閣下が(君が代を)知らないはずがない」と言うと、一木は「ほんとうに知らない」と返答。このままもめそうになったが、出席者のひとりである徳富蘇峰が「一木君は古火箸だよ、ほっときたまえ」と発言し、その場は収まった。柴田は、徳富の言った「古火箸」の意味が解らなかったが、後になって「真っ直ぐだが、さび付いて役に立たない」のなぞかけと気付いたという[注釈 1]

家族・親族

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壮年期の一木(『一木先生回顧録』より)

一木の実家の岡田家は、政治家や学者を輩出した一族として知られる。一木の父は報徳思想の啓蒙に努めた衆議院議員岡田良一郎であり、兄は京都帝国大学総長や文部大臣を歴任した岡田良平である。一木の実子には、検事の一木輏太郎、行政法学者の杉村章三郎がいる。また、輏太郎の長男充は松下電器のシステム推進部長であったが日本航空123便墜落事故の犠牲者となった。一木の実弟で母の実家・竹山家の養子となった純平の息子には、東京大学教養学部で教授を務めた小説家竹山道雄、元建設省官僚、東京都立大学、日本女子大学教授で建築構造学の重鎮であった竹山謙三郎がいる。山梨大学教育学部教授の竹山護夫、東京大学名誉教授平川祐弘は、一木の姪孫にあたる。

猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9年)イ一六二頁によれば、

栄典等

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叙位
叙爵
叙勲・褒章・褒賞・記章
外国勲章佩用允許

著作

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単著

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  • 『日本法令予算論』哲学書院、1892年5月。 NCID BN0548654X全国書誌番号:42020512 
  • 菊池暁汀編 編『青年国民の進路』大学館、1914年3月。 NCID BA72109916全国書誌番号:43019031 
  • 『民心の帰嚮統一』中央報徳会、1920年4月。全国書誌番号:43026534 
  • 『思想選択の標準』教化団体聯合会〈教化資料 第1輯〉、1924年10月。 NCID BB08245079全国書誌番号:43031778 
  • 『震災の教訓』教化団体聯合会〈教化資料 第4輯〉、1924年10月。 NCID BB08248022全国書誌番号:43031781 
  • 河井彌八編 編『一木先生回顧録』河井彌八、1954年12月。 NCID BN05933477全国書誌番号:55008337 

共編

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校閲

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脚注

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注釈

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  1. ^ なお、この話を柴田から直接聞いた小川金男(明治・大正・昭和の三代に亘って仕人(つこうど。宮中の諸雑務に携わる宮内省の下級職員)として勤務した)は、宮内大臣が本当に君が代を知らないはずはないとして、「あるいは柴田氏に対して一木氏が揶揄したものだったかもしれない」と結論づけている[15]

出典

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  1. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』97頁
  2. ^ ただし文献によっては「いっき」あるいは「いつき」(『平成新修旧華族家系大成』上巻、156頁)とするものもある。
  3. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、1121頁。 
  4. ^ 「枢密院文書・枢密院高等官転免履歴書大正ノ二」
  5. ^ 一木喜徳郎根津育英会武蔵学園
  6. ^ 『一木先生回顧録』(河井彌八発行、1954年12月10日) P5 ~
  7. ^ 秦郁彦『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』(東京大学出版会、1981年)37頁
  8. ^ 『官報』第5174号、明治33年9月28日
  9. ^ 『官報』第1512号、大正6年8月15日
  10. ^ 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年、97頁
  11. ^ 『官報』第1526号、大正6年9月1日
  12. ^ 小田部雄次『華族』中央公論新社、2006年、363頁
  13. ^ 一木喜徳郎 元枢密院議長・区内大臣、死去『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p8 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  14. ^ 小川金雄 2023, pp. 292–293.
  15. ^ 小川金雄 2023, pp. 293–294.
  16. ^ 『官報』第2932号「叙任及辞令」明治26年4月12日
  17. ^ 『官報』第3728号「叙任及辞令」明治28年11月30日
  18. ^ 『官報』第4343号「叙任及辞令」明治30年12月21日
  19. ^ 『官報』第4570号「叙任及辞令」明治31年9月21日
  20. ^ 『官報』第5800号「叙任及辞令」明治35年11月1日
  21. ^ 『官報』第6774号「叙任及辞令」明治39年2月1日
  22. ^ 『官報』第126号「叙任及辞令」大正元年12月29日
  23. ^ 『官報』第2246号「叙任及辞令」大正9年1月31日
  24. ^ 『官報』第3824号「叙任及辞令」大正14年5月25日
  25. ^ 『官報』第1016号「叙任及辞令」昭和5年5月22日
  26. ^ 『官報』第5380号「叙任及辞令」昭和19年12月19日
  27. ^ 『官報』第1894号「叙任及辞令」昭和8年4月26日
  28. ^ 『官報』第5964号「叙任及辞令」明治36年5月22日
  29. ^ 『官報』第6595号「叙任及辞令」明治38年6月26日
  30. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」明治40年3月31日
  31. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」大正5年12月13日
  32. ^ 『官報』第1023号「叙任及辞令」大正4年12月28日
  33. ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」大正5年7月15日
  34. ^ 『官報』第602号「叙任及辞令」昭和3年12月29日
  35. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」昭和6年12月28日
  36. ^ 『官報』第4015号「彙報 - 褒章」昭和15年5月28日
  37. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」昭和16年10月23日
  38. ^ 『官報』第5381号「叙任及辞令」昭和19年12月20日
  39. ^ 『官報』第29号「叙任及辞令」昭和2年2月3日
  40. ^ 『官報』第771号「叙任及辞令」昭和4年7月25日
  41. ^ 『官報』第1298号「叙任及辞令」昭和6年5月1日
  42. ^ 『官報』第1500号「叙任及辞令」昭和6年12月29日。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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公職
先代
倉富勇三郎
日本の旗 枢密院議長
第16代:1934年5月3日 - 1936年3月13日
次代
平沼騏一郎
先代
倉富勇三郎
日本の旗 王侯族審議会総裁
1934年 - 1936年
次代
平沼騏一郎
先代
大隈重信
(首相兼任)
日本の旗 内務大臣
第33代:1915年8月10日 - 1916年10月9日
次代
後藤新平
先代
大隈重信
日本の旗 明治神宮造営局副総裁
日本の旗 港湾調査会会長

1915年 - 1916年
次代
後藤新平
先代
大岡育造
日本の旗 文部大臣
第30代:1914年4月16日 - 1915年8月10日
次代
高田早苗
先代
岡野敬次郎
奥田義人
日本の旗 法制局長官
第14代:1912年12月21日 - 1913年2月20日
第10代:1902年9月26日 - 1906年1月13日
次代
岡野敬次郎
岡野敬次郎
先代
岡野敬次郎
奥田義人
日本の旗 文官高等試験委員長
1912年 - 1913年
1902年 - 1906年
次代
岡野敬次郎
岡野敬次郎
先代
吉原三郎
日本の旗 内務次官
第15代:1908年7月20日 - 1911年9月4日
次代
床次竹二郎
先代
吉原三郎
日本の旗 東京市区改正委員長
日本の旗 神職高等試験委員長

1908年 - 1911年
次代
床次竹二郎
先代
奥田義人
日本の旗 鉱毒調査委員
1902年 - 1903年
次代
(廃止)
その他の役職
先代
岡田良平
大日本報徳社社長
第3代:1934年4月27日 - 1944年12月17日
次代
河井弥八
先代
近衛文麿
日本青年館理事長
1924年 - 1925年
次代
丸山鶴吉
理事長事務取扱
先代
(新設)
大日本連合青年団理事長
1924年 - 1925年
次代
丸山鶴吉
理事長事務取扱
先代
山県伊三郎(→廃止)
警察監獄学校長
警察官練習所
1909年 - 1911年
次代
床次竹二郎
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
一木(喜徳郎)家初代
1933年4月25日 - 1944年12月17日
次代
一木輏太郎