DQN四天王
DQN四天王(どきゅんしてんのう)とは、戦国時代で暴れ回った森長可、伊達政宗、細川忠興、島津忠恒の総称である。
戦国時代と言うと、時代の背景が関係して現代では考えられないような行動を起こす人物が多くいる。歴史に詳しくない人でも、織田信長が父親の遺影に灰を投げつけたというDQNじみた話なら、小学校もしくは中学校で聞いた事があるだろう。
戦国時代の逸話はそのような話が数多くあり、紐解いてみれば上の織田信長の逸話などまだまだ序の口である。そんな色濃い逸話の中でも、前述した彼らが残した逸話はあまりにも気違いじみており、時の将軍徳川秀忠を唖然とさせた。
狂気じみた、もしくはDQNじみた話が出てくると彼らのうち誰かの名前が出てくるようになり、更に彼らの逸話が出てくるにつれ彼ら四人の名前が並ぶ事が多くなり、自然とDQN四天王という名がつけられたのだ。
紹介[編集]
- 四人の中でも比較的有名であり、大河で取り上げられたり、戦国ゲームによく出場したりしている。日本史の教科書にも支倉常長の欧州派遣などで必ずと言っていいほど登場する。
- 東北の広範囲を支配下においたという偉業(勘違いされがちだが実際東北地方の半分すら統一していない)はよく知られているが、その裏にあるDQNな行動は露呈していない。
- 悪いことは皆母の虐待のせい、母方の残虐非道な血のせいと言い訳することが多い。(その母・義姫は実は息子のDQNぶりに愛想尽かして家出した説も最近出てきてマジパネェッス)
- その一部を紹介すると、朝鮮出兵の際に後述した細川忠興と国宝級の書物を文字通り半分に破り分けたり、名物と言われる他人の所持する茶器を本人の前で叩き割ったり、伊達家の家宝とも言われる茶器を見ていて手を滑らせた際に、「茶器のくせにこの自分を驚かせた」とむちゃくちゃな因縁付けをして地面に叩きつけた、等がある。
- 大坂夏の陣において休憩していた味方の神保さんの部隊を「邪魔だったから」という理由で攻撃し皆殺しにする。しかも幕府に嘘の言い訳。神田神保町民(殺された神保さんの実家)は政宗を許さない。
- 近年、彼の持ちネタ「小手森城皆殺し事件」は政宗の吹聴していたガセネタだったことが発覚した。ある歴史学者が小手森城跡を調査した所、政宗の自己申告よりもはるかに小さい城で、政宗は「オレ800人以上殺して牛や馬までヤったんだぜ」とあちこちで得意気にほざいていたが、城には人数も200人程度しか入れず、しかもその直後に政宗の家臣が極普通に統治していたこと、殺されたはずの牛や馬が付近で飼われていたらしいことがバレたのである。いわゆるDQNにありがちな犯罪自慢だった。精神の程度が、コンビニのアイスボックスに入って写真を撮っているDQNバイト並みである。(調査報告は中田正光『伊達政宗の戦闘部隊 戦う百姓たちの合戦史 (歴史新書)』所収)
- 「DQN四天王、北の政宗」とは彼のことであるが、「普通俺がブルードラゴンの東だろ。」と戦国BASARAによる後押しもあってごねまくる、どこまでも現実より字面を気にする御人である。しかし、彼の守護獣である玄武は蛇のタフネス・狡猾さ・攻撃性と亀の(徹底的な自己正当化による)防御力から、ピッタリだと評価されている。
- 将軍家主催のエクストリーム・御伽衆をたびたび仮病でズル休みし、そのたびに息子の伊達忠宗が代理出席するハメになった。
- さまざまな逸話の落ちを担当したり、利休七哲に数えられるなど文化人らしい一面がありながらも、妻である細川玉/ガラシャの事になると、所謂ヤンデレと化する。
- しかしそれ以外の面では意外にもまともな人間であるため、DQN四天王唯一の常識人とも言われている。
- 逸話の一部を紹介すると、些細な失敗をした部下を妻が庇うと、「俺以外の男を庇った!」とぶちキレてその男を殺し、挙句その首を妻に投げつけたり、生涯で自分が手討ちした人数(36人)に36歌仙をかけ、脇差に「歌仙・兼定」と名付けたり、大切にしていた松の枝を誤って切り落としてしまった庭師をその場で叩き切り、また何事もなかったかのように食事に戻った、等がある。また、身内に切腹を命じたり妹婿を殺害して妹の恨みを買ったこともある。
- 「DQN四天王、西の忠興」の異名を持ち、彼の守護獣白虎はネコ科だけに気分屋な一面があり、猫(のスイッチを)踏んじゃったのオチも担当している。
- 意外なことだが元・総合格闘家であり、父の細川藤孝が名乗っていたリングネーム「牛殺し与一郎」を襲名している。
- 将軍家主催のエクストリーム・御伽衆をガラシャの法要と称してたびたび欠席し、そのたびに息子の細川忠利が代理で出席した。
- 別名「鬼武蔵」。
- 逸話が出てくるたびに人間、或いは何かしらの動物が犠牲になる上に、自身のそうした所業に終生後悔や自責の念を一切持たない潔さが魅力である。
- 各務兵庫と居れば本物の鬼をも寄せ付けないほどの恐ろしさである。逸話はどれも似たり寄ったりの内容ではあるが、初陣の際に一人で一揆衆に突撃し二十数人を討ち取ったり、ある戦で城に攻め込んだ際は屋根に登って室内へ発砲したり、また、関所(橋)で自分を止めた役人を槍で突き殺したり、更には関所に放火した、等がある。
- 関所や橋で役人を殺した際、部下は後片付けをしたのだが、「そのような心遣いは不要だ」ときっぱり言い放った。
- 他の3名と違って大名ではないのだが、主君(よりによって魔王)が長可を溺愛しているため、処罰されるどころか「いいぞもっとやれ」状態。
- 早くに死んでしまったことが悔やまれる。
- 「DQN四天王、東の鬼武蔵」と呼ばれており、守護獣は青竜だけあってその狂暴さと力は群を抜き、隠蔽や屁理屈などの小細工を弄さずただ力を奮うのみという竜としての矜持を堂々と示す正に最強の獣である。「俺の方が竜に相応しいだろJK。」とごねる北の政宗との会合は残念ながら実現せず、死してもなおその座は不動のものであった。
- 将軍家主催のエクストリーム・御伽衆には当然出席は出来ないので、代打として弟の森忠政が出席し兄のDQNぶりを余すところなく伝えた。忠政も兄と同様の禍々しい人間であり、聞くものは恐怖を覚えたという。
- 島津忠恒(家久)
- 馬鹿息子の忠恒とは彼のこと。後年、島津家久と改名したため「DQNな方の家久」「悪い家久」などと呼ばれる事も。逸話の陰湿さでは群を抜く。
- 不意打ち・騙まし討ち・嫁いびりに勘当未遂事件と、やる事が鬼島津の息子とは思えないほどに卑怯・間抜けな事ばかりであり、そういった意味で注目を浴びた。彼の逸話はどれも陰湿さが滲み出しており、全ての実権を握っていた伯父が死ぬと同時に妻を城から追い出して金銭面で圧迫、更に当てつけの様に側室を囲み子を産ませたり、毎晩酒を飲み蹴鞠をしていたおかげで兵が逃げ出してしまったという汚名が他国の歴史書に残されたり、伯父が「この門が古くとも、民の姿を見れば教養の高い使者はただの貧乏ではないことをわかるだろう」と言って立て直さなかった門を即刻立て直し重税を課した、等がある。
- そう、他の三人が狂っているのに対してこの男は『人として腐りきっている』とでも言うべきなのかも知れない。
- 父があまりにも完璧だったために、この馬鹿息子が生まれてしまったことが悔やまれる。
- 「DQN四天王、南の忠恒」という二つ名持ちで、彼の守護獣朱雀には「実はただの燃えて朱色になってる雀なんじゃね?」という疑惑がある。事実、領地そのものを財政的に火の車とするなど、彼の所業は炎を纏いながら鳥の如く縦横無尽に飛び回ることで周囲に延焼や飛び火を起こすというものであった。しかも、その後の再生は自分ではなく未来に託すなど不死鳥ではなく、ただの(はた迷惑な)鳥という疑惑を裏付ける振る舞いをみせた。
- 将軍家主催のエクストリーム・御伽衆には森忠政と共に皆勤賞であったりと、表の面でもマメである。
エクストリーム・御伽衆と4家の関係[編集]
この四家が注目を集めていたのは何も現代になってからだけではない。江戸時代初期の2代将軍徳川秀忠が創設したエクストリームスポーツ、エクストリーム・御伽衆において、既にこの四家は当時から強豪として着目を浴びていたのである。
まず、このエクストリームスポーツの成り立ちを説明すると、1605年より将軍となっていた秀忠には御伽衆と呼ばれる全国の諸大名から選ばれた数人が政治や軍事の相談役、世間話などの相手となっていたが、彼らは自分の武辺話を語る事も大好きであり、最初は感心して聞いていた秀忠であったが「○万人を数千人で打ち破って~」「ワシの槍が敵を突いて~」など似たり寄ったりの話ばかりであり、いつしか話を聞くのも嫌な状態になっていた。
そんな状態を打破する為に開発されたスポーツがエクストリーム・御伽衆である。面白い話が聞かせられたならば褒美は思いのまま・・・そう前置きする事によって老人達の退屈な昔話を減らすと同時に、褒美に釣られてこのスポーツに参加してつまらない話をした木っ端大名どもの領地を召し上げて天領化してしまおうという将軍家にとってまさに一石二鳥の競技であった。競技はこの頃浅草に創設された放送局から中継された。最近「ナントカのすべらない話」という番組が放映されているが、これはエクストリーム・御伽衆の真似である。
早速、この餌に釣られた全国の御伽衆の大名達が面白いと思われる逸話を持ち寄ってやってくるが目的は体よく改易を食らわす事に有るので次々と1~5万石程度の小大名達が加増を夢見て秀忠の前に現れては、次々と改易を食らわされていったのである。なお、この頃から「民衆の声を聞く」という目的で視聴者間投票も行われ、投票結果が最下位かつ秀忠の不興をかった大名は即日お家断絶となった。
しかしながら意に反して面白い逸話を持って来る大人物も一部には居たのである。その中でも選りすぐりの最強の四人が伊達政宗、細川忠興、森長可(代理で忠政)、島津忠恒であった。彼らの話はとても面白く彼らのDQN逸話の前に秀忠の腹筋はバッタのように6つに割れる程にであったという。
いつしか秀忠と家光親子は思い始めていた・・・「この4家のうちで最強を決めるべきではないのか・・・?」と。
四天王家集合[編集]
ついに1631年に伊達家、細川家、森家、島津家の4家を集めたエクストリーム・御伽衆頂上決戦が行われる事になったが、いい加減高齢な政宗・忠興は代役が出席する事も少なくなかった。4家は8度ほど合間見えたが遂に決着が着く事は無かったという。
優劣が付けられなかったので伊達家には「松平姓を名乗る権利」、細川家には「熊本54万石に加増」、森家には「徳川家養女を嫁がせて一門に入る権利」、島津家には「正室を抜きで好きなだけ側室を囲ってもいい権利」がそれぞれ褒美として与えられた。
秀忠死後も家光が彼らの順位を決めるべく大会を度々開こうとしていたが、1634年に森忠政、1636年に伊達政宗、1638年に島津忠恒が相次いで亡くなった為、四家頂上決戦はついに決着が着く事は無かった。
また、エクストリーム・御伽衆においての巨頭が相次いで斃れた為にこのエクストリームスポーツそのものも衰退し、1658年に戦国の長老真田信之が死んだ事によりついに閉会宣言が成された。
今現在、DQN四天王が不思議な因果で300年以上の時を経て再びクローズアップされ「一番の小物は○○」「やはりスケールなら○○」などと議論が起こっているがこれも未だに決着が着く気配は無い。と言うか誰も付けようとしていない。
エクストリーム・御伽衆で地獄を見た大名[編集]
- 福島正則
- 自他共に認める「五人目の四天王」。猛将で知られる男だが、五人目の四天王と期待される割に話す逸話が「桶屋時代に足軽をぶっ殺した」「家臣が死にかかった時に恐怖のあまり水垢離をした」など、小物臭いものばかり、かつ、イジケ気味だった為に将軍家の怒りを買い、広島藩を改易されてしまう。
- 里見忠義
- 安房里見家当主にしてトップブリーダー。里見家秘伝の八犬士の伝説を語るが「犬にそんな事できる訳無いじゃん。馬鹿にしてるの?」と一蹴され、後日改易が言い渡される。八犬士のシナリオを書かせた無名の放送作家の出来が悪すぎたといえよう。なお、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』が流行するのはこの200年後であった。時代に泣かされたと言えよう。放送直後に森長可に影響されて「弱者なんか生きてる資格もねえよ!!」とホームレス狩りをして一ヶ月に375人の犠牲者を出していたことも発覚し、殺人容疑で逮捕の上即日改易となった。
- 最上義俊
- DQN四天王・政宗最大の被害者でもあった最上義光の孫。東北の逸話において伊達家の次に逸話の多いはずの最上家の、そりゃあもう面白い逸話を期待されるが、聞きづらい東北弁で領内統治と兄弟喧嘩の愚痴ばかりを喋り、非常に視聴率が悪く、これがきっかけで当主としての資質そのものを疑われる。例によって後年改易。
- 本多正純
- 本多正信の子。正信から聞いた「家康の尻から焼きミソ」「家康が団子屋のババアと鬼ごっこ」などの、酒席ではさぞ鉄板な逸話を語るが場面が悪い。「父を馬鹿にしている」と秀忠は激怒し、色々言いがかりを付けて正純を改易する。エクストリーム・御伽衆の改易対象からは譜代大名であっても逃れ得ない事の証明である。
- 朝倉宣正
- 第六段階変化済DQN王・織田信長の最大の仇敵であるマロ義景を輩出した、かの越前朝倉家の一族、とは言うが既にその系譜が捏造である噂も流れつつある中、越前朝倉家に仕えていた伝説のキチガイ、富田長繁の逸話を聞かせるが「流石に引くわ・・・」「そんな人外を普通に雇うような家は改易しないとね(´・ω・`)」という流れで改易。視聴者間投票でも最下位となり、お家断絶となった。凄い話ではあっても引かせてしまっては元も子もないのである。
他、木っ端大名多数が甘い罠に釣られて消えて、その領地は天領にされたり別の大名の加増分に当てられた。エクストリーム・御伽衆は遊びではない。気に召さなければ改易も有り得る生きるか死ぬか、まさに家の命運を掛けて語らなければならないのである。
エクストリーム・御伽衆で成功した大名[編集]
- 立花宗茂
- 高橋紹運の実子で、且つ紹運の莫逆の友である立花道雪の養子。関ヶ原後、改易されて5000石の旗本にまで身を落としていたが、酒を飲ませると「天下一の臆病者」とまで言われた旧主・大友義統のヘタレ逸話などを語りだし、これがとても面白く将軍家に気に入られ御伽衆に取り立てられる。後年、旧領の筑後柳河11万石を取り戻すと言う関が原改易組屈指の大戦果を成し遂げる。政宗・幸村とは同い年とする説もある。変なヤツばかりこの年には生まれたんだなあ。
- 丹羽長重
- 丹羽長秀の息子。関ヶ原後、改易されてお情けの1万石に押し込められていたが「手軽なお部屋のリフォーム法」などのお役立ち逸話を聞かせ、その建築知識は将軍家を深く感心させ御伽衆に取り立てられる。後年、二本松城や白河小峰城など、あちこちの城を劇的ビフォーアフターする「匠(たくみ)」として功績を上げたことから、なんということでしょう、10万石まで加増を受けたのです。その後も親しみやすいキャラを生かし「丹羽長重の建もの探訪」など、建築番組のレポーターとしてブレイクした。「お前のいただく俸禄は人民の汗であり脂(あぶら)である。下民は虐げやすいが上天をあざむくことはできない」(旧二本松藩戒石銘碑)という名言から、視聴者間投票でも上位の常連。
- 浅野長晟
- 浅野長政の次男。豊臣政権に近かった浅野家の者として「寝室一杯に膨れ上がる秀吉」「地震にビビって嫁の部屋に逃げ込み泣く秀吉」など秀吉関係の逸話の数々で将軍家の心を掴み、広島42万石まで加増される。アシの甥っ子・浅野内匠頭もイケメンっぷりもお茶の間の話題となり、浅野内匠頭まで赤穂藩主になった。
- 藤堂高虎
- THE・主君替え。とっておきの一発ネタ、「出世の白餅」を聞くも涙・語るも涙の大巨編に水増しして語り、話し終わる頃には秀忠の顔は涙と鼻水でグチャグチャであったという。これで薄情者のイメージを払拭し、津32万石加蔵への足がかりを作った。
- 前田利常
- 前田利家の隠し子。罰金を無視して江戸城の欄干から立ち小便をしたり、参勤交代に遅刻した言い訳に「金玉が痒いから」といい、証拠を見せようとストリップを始める露出狂。終いには妻との仲を引き裂こうとした乳母を蛇責めにしようとして自殺に追いやるなどと問題行動の上、鼻毛を伸ばしたまま登城するなどやりたい放題。しかしその結果は幕閣からは奥方に死なれて心が壊れたのだと逆に同情され、将軍秀忠に至っては「あのような冷酷な乳母をつけたせいでお前の妻を死なせてしまった、本当にすまんかった」と詫びる始末。結果見事に加賀100万石の将来を安堵することに成功するも、本人にとっては何か釈然としない結末であった。
厳しい審査眼を満足させた成功者は極一握りであった。こういった意味でも、エクストリーム・御伽衆による将軍家の権力強化はまんまと成功したと言えよう。
外部リンク[編集]
四天王以外の逸話も楽しめる。