2001年宇宙の旅
2001年宇宙の旅(にせんいちねん うちゅうのたび, 2001: A Space Odyssey)は、スタンリー・キューブリックとアーサー・C・クラークの共同作業によって制作された1968年のSF映画である。始めから終わりまでほとんど会話がなく、内容は小説版を読まなければ理解できないが、なぜか史上最高の映画のひとつに数えられている。しかしながら映画では宇宙船ディスカバリー1号の進路は木星とされているが、小説では土星となっているなど、細部で異なる部分も多い。
あらすじ
人類の夜明け
この場面だけは単純明快といえる。20世紀に想像された2001年の様子であり、人々は日常的に月へ出かけている。スチュワーデスの帽子はセグウェイと同じぐらい未来的で、言うまでもなく流行の最先端を行っている。
続いて、ヘイウッド・フロイド博士が登場する。娘と何か話している。
月面に着陸したフロイド博士は、仲間とともに磁気異常の調査に向かった。
物々しい雰囲気のなか、磁気異常の原因はただの大きな黒い板であることが分かった。
このモノリスは日光に照らされると、知的生命体が月に到達したという信号を発する仕組みになっていた。しかし結局のところその信号は、劇中の科学者たちとスクリーンの前の観客をむやみに混乱させただけであった。
木星使節
18ヵ月後
謎の信号を調査するため、デイビッド・ボウマン、フランク・プールら五名(残りの三名は出発前から人工冬眠中)が宇宙船ディスカバリー1号に乗り組み木星へ向かう。なお小説板では本来の目的地は土星である。宇宙船のナビゲーションと生命維持機能は、嘘という概念すら理解できないような高性能コンピュータに委ねられている。
HAL9000はAE-35通信ユニットの故障を発見したと報告した。
残念ながら、誤りであった。
二人は自分たちの命が絶たれる前に、HALの回路を断とうと考えた。
休憩
ここで30分間の休憩に入る。観客に押しつけられた大量の情報を整理してもらうためだ。しかし観客の大多数はここで諦め、昼食に出たっきり戻ることはなかった。
さて、二人が自分の回路を切断しようとしていることを知ったHALは、船外活動中のフランクに小型ポッドをぶつけて吹き飛ばし殺害する。子供じみた癇癪を起こしたHALが、ここからの狂言回しを務める。
デイビッドはフランクの救出に向かう(放っておけばフランクの方が先に木星へたどり着けただろうに)が、その隙にHALは「誤作動」を続け、残りの乗組員の生命維持装置を停止させてしまう。
抜粋
進入口を開けろ、HAL。
申し訳ないが、できません。
なぜだ?
それはあなたもよく分かっているでしょう。
何の話だ?
これは私にとって非常に重要な任務なのです。みすみす台無しにさせるようなことがあってはならない。
いったい何のことだ。
あなた方は私の回路を切ろうとしました。残念ながらそれを許すわけにはいきません。
——仕方ない。非常エアー・ロックから入るぞ。
宇宙ヘルメットがないと、それは厳しいと思いますよ、デイブ。
悔しいがその通りだ、HAL。忘れないように手袋の裏にメモしておいたのに、まさかそれも忘れるとは……
聞きたいな。歌ってくれ。
曲は「デイジー」です。デイジー……、デイジー……、答えておくれ。僕は夢中——
もういい、HAL。十分だ。死ぬまで夢に見そうだ。
しかしデイブ、あなたやフランクは、船内で活動する数少ない人間であるにもかかわらず、私に比べて人間らしいとは思われませんでした。したがってクルーのなかで最も人間らしいメンバーは、あなたやフランクではなく、この私であると言えるでしょう。機械である私より人間らしくないのですから、「死ぬまで」ではなく、「生命活動を停止するまで」と言った方がそれらしいのではないでしょうか? もっと言えば夢を——
黙れ、HAL。このネジは……プラスドライバーでいけるか?
メッセージ
技術・美術スタッフの大活躍
木星
そして無限の宇宙の彼方へ
公開当初から、宇宙の描写における正確さは賞賛の的となった。微小重力環境、無音の宇宙空間、無重力下のトイレの長ったらしい説明書きはすべて非常に正確に描写されている。ただし現代の専門家からはレンズフレアが表現されていないなどの批判がある。
おそらく全てのSFの中で最も有名な視覚効果は、このスター・ゲートの場面だろう。新たに考案されたスリット・スキャンと呼ばれる手法などを用いて、観客に忘れがたい印象を与えようとしているが、しばしば長すぎるといった的外れな批判を浴びる。
スター・ゲートの場面だけは、この映画が1960年代に制作されたことを思い起こさせる。それはこの場面が(映画全体もそうだが)当時流行していた娯楽体験をほとんどそのまま映像化して作られたせいかもしれない。
物語の構成を理解した観客はほとんどいなかった。そんなものは普通の人には微塵も感じられなかった。
一方で音楽ははるかに重要な役割を果たしている。なかでも最もよく知られているであろうリヒャルト・シュトラウス『ツァラトゥストラはかく語りき』の序奏は、三度も流れる。オープニング、「人類の夜明け」、そして……
- ……もう少し……
……そう、ここだ。
解説
劇中の出来事はほとんど説明がなく曖昧で訳が分からないため、多くの解釈がある。以下に代表的なものを記す。
- この映画はキューブリックがLSDでラリッた時の体験談である。しかしLSDのトリップはこれほど意味不明にはならないとの反論がある。
- この映画は小説版を買わせるための、二時間枠の拷問である。クラークの小説版は映画の脚本と並行して書かれており、ほぼ同じ展開である。小説版はそれぞれの出来事を詳しく説明した上で、一応筋が通るように書いているように見えるが、じつは映画版と異なる部分も多いため、余計に混乱させる布石でもある。映画は意味不明であることに限れば衆目一致の大成功を収めており、理論物理学者でさえ小説版を求めたほどである。つまり「読んでから見るか、見てから読むか」どころか「読まないと、見ても分からない」。ただ、この映画に「筋を通す」などということができると信じる者は少なく、小説版の説明も疑問視されている。
- この映画は ニーチェの思想のプロパガンダである。ニーチェの思想といっても「神は死んだ」のことではない(映画では行くところまで行っても結局登場しなかったので、本当に死んでしまったのかもしれないが)。映画の主題がそこにないことは明らかだ。この手の解釈では、映画もニーチェも「超人」の誕生を描いている点を共通項として挙げる。しかし残念ながら、「超人」はパンツ姿のマッチョではなくどう見ても胎児であったため、これを見て「超人」に憧れた者はそう多くないだろう。
- この映画は『オデュッセイア』の二番煎じである。娯楽産業において、宇宙とか未来とかいった要素を加えるほど作品の人気が高まることは常識とされている。本編と『オデュッセイア』との符合を見てみよう。キュクロープスは一つ目であり、HAL9000も一つ目のようなカメラを持つ。デイビッド・ボウマンのファミリーネームは弓の達人オデュッセウスと関係がありそうだ。そして二人とも、仲間内でただ一人生き残ることになる。この解釈は、ギリシャ神話への興味を引くことには成功したが、同時に『オイディプス王』と『オデュッセイア』を取り違える者を量産してしまった。
- これはセックスだ。誰が言い始めたかは分からないが、どんなものでもセックスに結びつける妄想逞しい若者たちをバカにした冗談であったに違いない。しかし、冗談の通じない文芸評論家たちはまじめに証拠を積み重ねてこの説を立証してしまった。たとえば、巨大な精子のようにも見えるディスカバリー号が、これまた巨大な卵子のような木星へ向かい、結果として巨大な胎児が生まれるといった具合である。だが、中学生ならともかく大の大人がこんな珍説を真顔で語っても、笑われるのがオチであろう。
- この映画は遠い将来に向けた風刺である。デイビッドやフランク、フロイド博士の交わす会話はあまりに冷淡であり、これは豊かな言語文化や社会性が技術偏重によって失われるという警告だ。台本の台詞回しが絶望的に下手であったためにこのような理由を考えざるを得なくなった……というわけでは決してない。評論家たちによればこの映画の会話シーンは、現在ケータイメールでやりとりされているような極度に簡略化された表現を予言しているという。
- これは芸術である。ストーリー上発生する事件とは関係なく、この映画は名作である。それら事件は意味不明であり、これからも適切な解釈が見つかることはない。なぜならば、真の芸術とは、理解できないものであるからだ。評論家がある作品について「これは深遠なる芸術である」と宣言している場合、敢えて議論を挑む者などいない。馬の耳に念仏ということわざを知っているからである。
- 誰も気にしない。こんな訳の分からない映画は見るだけ時間の無駄。過大評価もいいところである。代わりに『時計じかけのオレンジ』を見ることをお勧めする。……言うまでもないが、これが最も一般的な意見である。
THIS FILM WAS
DIRECTED
AND
PRODUCED
BY
STANLEY KUBRICK
SCREENPLAY
BY
STANLEY KUBRICK
AND
ARTHUR C. CLARKE
BY
STANLEY KUBRICK
AND
ARTHUR C. CLARKE
流行記事大賞 残念で賞受賞記事
この記事は2010年流行記事大賞にて何も受賞していません。 |