足利義輝

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ホモっだけあって、精悍な顔つき

足利 義輝(あしかが よしてる、1536年 - 1565年6月17日(永禄8年5月19日))は、室町幕府の13代征夷大将軍で15代将軍足利義昭の同母兄。 死後の過大評価の影響で剣豪将軍などと言われる事もあるが、これは後世の創作。死因は「お尻にできものができてかき続けて細菌が入ってきてなくった」

政治家としては万年野党。時の権力者三好長慶の後塵を拝しっぱなし。しかし粘着性は歴代足利将軍随一であり、人の足を引っ張るスキル、嫌がらせするスキル、煽りスキル、根回しするスキルについては一流。またゲリラ戦及び暗殺も得意。松永久秀なんかよりよっぽど真っ黒黒な人物。

生涯[編集]

お肌が荒れてらっしゃる義輝公の御姿

足利義晴の子として生まれる。父親の義晴は目立たないがとんでもない毒親であり、その影響を受けた義輝は歪んだ人格を形成した。ついでに、幼い頃から三好長慶に京都を追われ近江国(滋賀県)に避難したりと、色々苦労した生活を送っていたため性根は腐りきってしまった。しかし周りの人達は「公方さまは苦労人だから偉い偉い」とおだてるものだから調子に乗って、俺こそ足利家中興の祖、天下人だ、と思い上がっていた。

政治家としては三流で権力闘争ばかりが得意で政権の維持については宿敵の三好長慶に劣っていた。そのため、どうあがいても三好長慶を政争で始末することが出来ず和睦を結ぶ始末。しかし、ならば搦手を使えばよいだけの話。義輝は度々刺客を送り込んで長慶を始末しようとした(悉く失敗しているが)。さらに長慶が豆腐メンタルのメンヘラであることにも付け込み、執拗に精神攻撃を繰り返した。長慶の嫡男であり、聡明で将来を嘱望された三好義興にも、仲良く付き合うふりをして精神攻撃を繰り返し行った。あえて言おう、この将軍カスであると!

その結果、長慶と義興は精神を病んでしまい、早死にする。義輝は調子に乗り、後を継いだ三好義継にも嫌がらせ、精神攻撃を繰り返すが、義継は真面目で繊細な長慶や義興と違ってキレやすい短気な人間だったので、挑発に激昂した義継に室町御所を襲撃され殺害された。この時剣豪将軍の異名らしく何本もの太刀を携え奮戦した末に壮絶な最期を遂げたそうだが、この最後も江戸時代後期の創作である。まあ、一万歩譲ってこのドラマチックなラストが事実だったとしても、だからと言って政治家としての名誉が上がるわけではないのが悲しいところである。

義輝について勘違いされやすい事象[編集]

ついでに義輝という人物についてよく勘違いされやすい2例を挙げる。

■足利家の宝剣を畳にいっぱい刺してとっかえひっかえしながら戦ったんだよ。すごいよね!

※江戸時代後期の創作です。義輝の死から最も近い時期に書かれた記録にはそのような事実は一切記されておりません。 そもそも伝家の宝刀が畳にぶっささってたら恐ろしく目立つ事は想像に難くない。本当に義輝が刀を畳に刺して取り替えながら戦ったのならば、その時代に記されたフロイスの日本史などの記録に残らないはずがないのである。つまりありえない。ゲームかなんかと混同しすぎ。

ぶっちゃけ、普通に自害したというのが真実であると思われる。ラストがやたら大げさに誇張されたのは「その方が面白そうだから」という後世の歴史研究家にとっては非常に傍迷惑な考えに基づくものであろう。あと、天下五剣なる伝説の武器を持ってたソースも使ったソースもない。


■政治能力もとっても高かったんだ。天下治めるべき器とか平和の愛好家とか言われたんだよ!悪いやつらに殺されてかわいそう!

※本当に天下を治められる器なら、征夷大将軍という天下に号令できる立場にありながら家臣に叛かれて殺されたりしていません。幕臣も掌握できていたはずです。 平和の愛好家というが、むしろ何度も約束反故にして三好と敵対するわ悪だくみ働くわ争いの火種作ってまわってるんですけど…

あの戦国時代の象徴的人物、魔王織田信長の旧臣太田牛一も「義輝の側が三好家に謀反起こして返り討ちされた」と信長公記に記している。当時の人々にとって、「悪い奴ら」とは義輝自身に他ならなかったのである。

これらを勘違いしたまま義輝を語ると、ゆとり低学歴キモオタなど惨憺たる烙印を押されることになりかねないので注意しよう。

人物[編集]

基本的に友達が少なく、臣下の細川藤孝(のちの細川幽斎細川忠興の父)も「私は連歌における作法を長慶様に教わった」と義輝そっちのけで長慶を尊敬していた。義輝はハンカチを噛んで悔しがり、味方がいないならば三好家からヘッドハンティングしてやると考えた。

まず手始めに、顔が怖いから恫喝に使えそうという理由で松永久秀を引き抜いてやろうと画策。しかし、義輝の悪巧みをバラした上に「都落ちしたのも天罰だ」とまで書き添えた書簡を六角家に送るほど義輝を嫌っていた久秀が、垂らした釣り糸に引っ掛かるはずもなかった。

なかなか久秀が引っかかってこないので、業を煮やした義輝は、久秀の久しい人達をターゲットに、こいつら三好家から離反しようとしてますよと流言飛語を飛ばしまくった。その結果、伊勢貞孝などが謀反に追い込まれた。また十河一存や三好義興、安宅冬康が死んだとき、義輝は黒幕は松永久秀で彼が殺したとデマを大いに飛ばした。これが大成功してすっかり松永久秀は三好家を壟断しようとする悪党という評価が京都の街に定着し、三好家家中で久秀は孤立した。

こんなことしてたら殺されて当然だよね。

しかし、辛抱強い久秀は最期まで義輝を殺そうとはしなかった。上司の長慶が生前、義輝暗殺に反対していたというのもあるが、いかに畜生でも将軍を殺したら自滅の道しか待っていないことを嘉吉の乱という過去の歴史から学んでいたからである。 ただ、我慢できない人がいた。三好義継と、久秀の嫡男松永久通である。親孝行を大事にする嫡男の鑑である久通は、親父にむごたらしい仕打ちをする義輝を許せず、 義継と結託して義輝を殺してしまったのである。かくして久秀は燃える御所をvip席から高みの見物しつつ、ワインなどを傾け、ウザくてウザくて堪らなかった義輝の横死を祝って乾杯できたわけだが、結果は案の定、形骸化していたとはいえ将軍を殺したことで各国の大名から三好家は袋叩きにされ、その後三好家は内部崩壊して、織田信長漁夫の利を攫うこととなった。

剣豪将軍という俗説から漠然と高潔な印象を持たれる義輝だが、実際には弟の足利義昭なんかよりも余程執念深く粘着質である。織田信長が奉じて上洛したのが義昭ではなく義輝であったら、信長は将軍を排斥して織田政権を樹立するのにもっと苦労したのは間違いない。

事実、信長も彼と仲良しの公家近衛前久に出した手紙の中で「執念深い義輝が早々にくたばってくれて俺としては助かった」と、安堵を発露している。

異説・義輝と長慶[編集]

長慶に対する義輝の執着心は一回りして「」だったのではないかと言われている。若くして父を亡くし10歳で家督を継いだ長慶は、同様に若くして父の後を継ぎ将軍になった義輝にとってシンパシーを感じる相手であった。さらに、義輝には友達が少ない

長慶なら自分の気持ちを誰よりもわかってくれるはず。どうにかして長慶の上に立ち、幕臣に組み込みたい。しかし戦でも政治でもかなわない。それどころか和睦したと思ったら自分が傀儡になっている。これは当初の「長慶に支えられて幕府再興を行う」計画から大きく外れているではないか。

義輝は考えた。「どう足掻いても自分のものにならないなら殺してでも長慶を自分のものにしてやる」と。殺してでもうばいとる。どこかで聞いたことがある台詞である。 ゆえの執着は憎悪に変わり愛憎入り乱れた暗殺劇の幕が切って落とされることとなった。

つまり義輝が長慶に一方的に粘着していたのは長慶に認められたいがゆえ、長慶にされたいがゆえの行動だったのである。義興に嫌がらせしたのも「長慶に溺される義興が死ぬほど羨ましかった」からであり、長慶の注目を引こうとしたに過ぎないのである。

しかし、悲劇はこれだけにとどまらない。

なんと長慶も義輝の事をしており、実は両者は両思いだったのである。その証拠として長慶は三好家中の反義輝派が「義輝ウザイから殺しちゃおう!」と持ちかけるたびに全力で反対の意思を表明してきた。だが義輝の背後で暗躍する細川晴元の悪巧みのせいでその事実が義輝に伝わることはなく、結局両者は死ぬまですれ違い続ける結果となってしまったのである。

日本史史上ここまで悲しいすれ違いが他にあるだろうか?いや、ない。

辞世の句[編集]

五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで

無念が滲み出る絶唱としてこの歌は戦国ヲタから礼賛されている。その後義輝は艦これの世界に転生して、五月雨を旗艦として提督として第二の人生を歩んでいる。

関連項目[編集]

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先代
足利義晴
室町幕府将軍
-
次代
足利義栄