名曲のたのしみ
『名曲のたのしみ』(めいきょくのたのしみ)は、NHK-FMで放送されていた、クラシック音楽の番組である。
番組概要
2012年時点での放送時間は、毎週土曜日の21:00から22:00までの1時間、再放送は翌週水曜日の朝10:00から11:00までの1時間である。
1971年7月1日の放送開始から30年以上にわたって、パーソナリティは音楽評論家の吉田秀和(よしだ ひでかず)が一貫して務めている。他の多くのNHK-FMの番組と同様に、この番組でも、選曲・構成・トーク内容など全てが吉田ひとりに丸投げされており、彼の自由闊達なトークを聴くことができる。
週1回・1時間の番組であるにもかかわらず、“ひとりの作曲家の作品を全曲、その生涯に沿った順序で連続して取り上げる”という、民放では絶対に実現不可能であろう壮大なコンセプトに基づいて毎回選曲を行っている。当然、ひとりの作曲家について数十回以上を費やすことになり、例えばショスタコーヴィチを取り上げた際には52回、リヒャルト・シュトラウスでは何と79回を要している。特定の作曲家の楽曲のみを毎週聴かせ続けることによる洗脳効果は抜群であり、次の作曲家に移る頃には、あなたはすっかりその作曲家に染まっているはずだ。
また、毎月最終週の回は、作曲家の連続放送から離れて、吉田が最近入手したお勧めのCDを紹介したり、いま話題の作曲家や演奏家について取り上げて解説したりする「私の試聴室」の回となっている。試聴といっても、CD店の店頭やオンラインショップのサイトで聴くのとは訳が違う。吉田は職業柄、毎日毎日様々な音楽を聴いている専門家であり、その専門家が選んだCDを、解説と共に全国に向けてオンエアしてくれるのだ。ぶっちゃけ、この放送を録音しておけば、CDを買う必要などないのではないか、というくらい高レべルな試聴室なのである。
吉田は1913年9月23日生まれで、2012年時点では98歳である。間違いなく、ラジオ番組のDJとしては日本最高齢の人物であろう。しかしながらラジオから流れてくる彼の声は、多少しわがれてはいるものの、とても90代とは思えない(ちなみに一人称は「僕」である)。右の写真からも、まるで60~70代かと勘違いしてしまいそうなほど元気な雰囲気が漂ってくるではないか。
また、『名曲のたのしみ』は、同局の長寿番組である『ワールドミュージックタイム』や『日曜喫茶室』などと同様に、“少なくとも、出演者が亡くなるまでは間違いなく続く番組”という位置付けになっている。是非、長生きしていただきたいものだ。
……と言うか、亡くなってみたら、死後も半年以上放送が続くことが発覚した。数光年離れたところにある恒星のような番組である。
番組の進行
それでは、この番組の一部を、実際に聴いてみることにしよう。以下、四角く囲われている文章は、この番組の2008年9月20日放送分での吉田の発言を、そのまま書き起こしたものである。
オープニング
この番組にはオープニングテーマはない。強いて挙げるならば、番組開始前の21時の「時報」が、前の番組のエンディングテーマとこの番組とを区切る唯一のものであると言えるかもしれない(NHKであるため、コマーシャル等は一切存在しない)が、前の番組の延長などにより放送開始が21時5分や21時10分などになった場合は、時報なしでそのまま始まることになる。
時報が鳴り終わると、吉田が「名曲のたのしみ、吉田秀和。」と、番組名と自分の名前を告げる。このタイトルコールは、『名曲のたのしみ』の重要な特徴のひとつである。
NHK-FMの他の番組では、例えば「ご機嫌いかがでしょうか、黒田恭一です。『20世紀の名演奏』です。」などのように、冒頭に挨拶が入ることが多い。あるいは、「『弾き語りフォーユー』。風のメロディー、光のハーモニー。ピアノが歌うと心も一緒に歌いだす。音楽はいつも、あなたに優しい。」といったような、少々痛々しい決まり文句を設けていることもある。NHKであるため、素っ気なく「『現代の音楽』、西村朗です。」としか述べないものもあるが、それでも、最後に「です」くらいは付けるのが一般的であろう(ちなみに、いまここで例示した番組は、すべて番組開始時にテーマ曲が流れる)。
しかし、この番組には、そのような余計な修飾は一切ない。ただ、「名曲のたのしみ、吉田秀和。」と、必要事項のみを簡潔に述べて、すぐに本題に入るのである。この間僅か3〜4秒。現在日本に存在する、あらゆるレギュラーラジオ番組(ニュースや気象情報などを除く)のなかで、最も短く簡潔なオープニングであると言えるだろう。
導入
名曲のたのしみ、吉田秀和。
今日は、プーランクの、6回目にあたりますけども、最初に、あのー、17世紀の無名詩人の詩を集めて、『Chansons gaillardes』(陽気なシャンソン(陽気な歌))という歌曲集があるので、それから聴こうと思います。
ここまでの所要時間は約30秒ほどである。番組開始からたった30秒で、常連リスナーと、コアなクラシック音楽ファン以外の全てを振り落とす、まさにNHKの娯楽番組にふさわしい導入である。
クラシック音楽に詳しくない人がたまたまこの番組を聴いたとしても、「プーランクって誰だよ?」とか、「『Chansons gaillardes』って何語なんだ?」、「そもそもこの番組は何なの?」などの感想を抱き、ラジオを切るか周波数を変えてしまうだろう。
あるいは、ある程度クラシック音楽に詳しく、プーランクという作曲家の名前も知っている人がこの番組を聴いたとしよう。しかし、この導入部では、「いったいどういう文脈でプーランクを取り上げるのか」「“プーランクの6回目”とはどのような意味なのか」といった説明は一切なされない(ちなみに、筆者は数年にわたりこの番組を聴き続けているが、この番組のコンセプトについての説明が番組中でなされるのは数十回に1回、週1回の番組だから年に1回あるかないかである。このため、あの自称専門家集団による百科事典でさえも、未だにこの番組の記事は作成できていない)。
常連リスナー以外の全てを振り落として、吉田はこの楽曲の解説に入ってゆく。
楽曲解説
8つの詩が集まってます。で、プーランクは、この歌について、あのー、『どっかで、古本、古い本をみつけたと。そこには、17世紀の、名前の書いてない詩人、無記名の詩が並んでて、面白かったから、音楽にした』と、そう言ってんです。
プーランクという作曲家についてある程度把握しており、また先週までの放送を聴いていることを前提とする解説である。この記事の読者の大半はプーランクという名前を聞いたことはないであろうが、詳しくは右のリンク先でもお読み頂きたい。もっとも、出典の明記が何よりも重要と考えており、専門家本人による新説の提示などは直ちに除去される百科事典などでは、この番組を聴くには不充分な量の情報しか得られないのだが。
パーソナリティの吉田秀和は、クラシック音楽の評論家として既に60年以上のキャリアをもつ人物である。NHK-FMの番組では、当該ジャンルの専門家に内容を丸投げすることが多く、そのため、そのジャンルに詳しくない者にとっては理解不能なトークが展開されることが多い。この番組も例外ではなく、ここから話は突然脇道に(しかもかなりマニアックな方向に)逸れてゆく。
で、まあ、これは余計な話ですが、僕の考えだと、17世紀っていうとパスカルとかデカルトとか、その他、有名な人の著作、ちょっと僕も、齧(かじ)ったことはあるけど、日本でもそうだけど、17世紀のフランス語っていうのは、現代フランス語と随分違うんですよ。
ところが、これは、あの、現代語でしてね、それからまたプーランクも、作曲するに当たって、いわば古典的な、あるいは擬古典的な色彩の、ハーモニーをつけようとか音階を使おうとか、そういう行為を一切してない。ふつーう(普通)の、歌としてやってる。
そこんところね、僕は時々食い違いを感じて、もしかしたらこれは、アポリネールとか何とか彼の周りの、イタズラが好きな詩人たちのテキストを使ったんじゃないかなあ、っていう気がするんです。
まあしかし、これは無責任な話で申し訳ありませんけどね。
ここまでで、番組開始から1分55秒ほどである。僅か2分足らずの間に、この歌曲集について新説を提示するという、大胆不敵な行為をやってのける、それが吉田の凄いところである。「音楽評論家の吉田秀和は、この歌曲集について~~との説を示している」とでも書けば、あの百科事典サイトでも通用するであろうもっともらしい一文があっという間にできあがるのだが、なぜかそんな文はどこにも見当たらない。テレビ番組で流れた説は即座に反映されるあのサイトでも、このようなラジオ番組を聴く教養人は希有な存在なのだろう。
ところで、前回までの放送を聴き続けているリスナーの脳内には、プーランクという作曲家について、おおよそ次のような理解が成立している。
プーランクは、後半生において作風が劇的に変化するのだが、そのあたりの事情は当該記事に譲ることにしよう。この時代のプーランクは、まあ現代日本でいえば青島広志に近いような作曲家だと思って頂ければよい。いや、青島に池辺晋一郎のオヤジギャグ成分を加えたくらいかもしれない。
で、このような正しい理解をしているリスナーは、この“アポリネール作詞説”を聞いた時点で、「ああ、今回の歌曲も、きっとあれな歌詞なんだな」という予想を抱くことになる。はたして、続いて吉田が朗読する歌詞は、やはりあれである。このような歌詞が、何の修正もなくNHKの電波に乗るのだから大したものである。むしろ民放ではこのような歌詞の朗読は困難であろう。
ちょっとその歌詞をね、あのー、大意を申し上げますけど、皆さんもちょっとそんなことをお感じになるかもしれない。
第1曲は、陽……、いや、『浮気な女』。
俺の女は浮気者で
彼女が処女だって言うんだったら
いい加減なこと言ってるよ
ってな歌詞です。4分の2拍子(しぶんのにびょうし)で、みじかあい(短い)もの。
「処女」はどうやら放送禁止用語ではないらしい。ちなみに、ここでいう「処女」とは、「処女作」とか「処女航海」といった比喩的な意味ではもちろんなく、「男性とア〜ン♥♥したことがない」という字義通りの意味である。それを踏まえて、この歌詞を読むと、何だかあれだなというのがお分かり頂けるだろう。
それからその次は、『酒を飲む歌』。
エジプトの王様もシリアの王様も
死ぬと、ミイラにさせられて
それはもっと長く死体でいるためだ、って言うんだ
バカバカしいじゃないですか
そんなことするくらいなら、いま生きてるうちに盛んに飲みましょう
そうすると身体から、酒のいい匂いがしてきて
ひょっとしたらまた、復活するかもしれない
『酒を飲む歌』というタイトルからしてふざけている。まるで『フランス全国酒飲み音頭』である。こんな詩を書くほうも書くほうだが、曲を付けるほうも付けるほうだ。思わず飲みたくなってしまうではないか。
お忘れの方もいらっしゃるかもしれないが、いまお読み頂いているこの文章は、「NHK-FM」が「土曜日の21時から」というゴールデンタイムに放送している、「クラシック音楽」の番組についての記事である。クラシック音楽を普段聴かない方は、とっつきづらいイメージを抱いておられるかもしれないが、こんなくだけた歌詞をもつ歌曲もあるのだということを、知っておいてほしい(もっとも、実際の歌詞はフランス語であるから、一聴しただけでは意味が掴みづらいのは確かだが)。
3番目、『マドリガル』。
君は、天使みたいに美しくって、子羊のように優しい
だから、君の言うなりにならないやつなんか、いるはずがない
でも、おっぱいのない女なんてのは、ソースのない料理みたいだなあ
アポリネールやプーランクが貧乳や微乳の良さを理解していなかったことを示す、貴重な詩である。また、「おっぱい」という言葉を堂々と公共の電波に乗せることができることもわかる。
繰り返しになるが、吉田秀和は当時95歳の男性である。本来なら分別盛りなどとうに過ぎているはずの年齢であり、またこれは原詩ではなく、フランス語から自ら訳したものなのだから、普通は「おっぱい」ではなく、「胸」のようなありきたりな表現を用いるところだろう。しかし、吉田はこれを「おっぱい」と訳すのだ。
このあたりが、この番組が30年以上続いた理由のひとつであり、また吉田の書く文章が人気である理由のひとつでもある。この詩を「胸」と訳してしまっても、「胸のない女」という言葉の意味するところは確かに伝わる。しかし、「胸」ではなく「おっぱい」と訳したほうが、この歌曲集全体がもっている、ちょっと下卑た、あるいは猥雑な雰囲気、そういったものがより鮮明に伝わるのだ。
いまこの記事をお読みになった方も、「NHKの番組なのに『おっぱい』って何だよw」と思われたことだろう。そう、その感想は正しい。吉田は、単純に言葉面だけを訳して読み上げるのではなく、その詩がもっている雰囲気やメッセージをも、リスナーに伝えようと試みているのである。これこそNHKの娯楽番組のあるべき姿だろう。
もう1曲、『運命の女神への祈り』。
生きてる限り、シルヴィア、私は君を愛すと誓います
運命の神様、どうぞ、私の運命の糸を
あなたの手でもってできるだけ延ばして下さい
まずここの3曲、ああいや4曲、半分ですけども、聴きましょう。歌ってるのはジョゼ・ファン・ダム、それから、ジャン・フィリップ・コラールのピアノ、です。
ここまでで約3分42秒である。そして、曲がオンエアされる。
エンディング
このような調子で、ひたすら解説をしながら曲を掛け続けることで、1時間はあっという間に過ぎてゆく。そしてエンディングである。
今日は、一番最初に、FP42の『陽気な歌』。それから、2番目に、『オーボエ・ファゴット・ピアノのためのTrio』(三重奏曲)。それから、FP46の、『うたわれる歌』(うたわれた歌、Airs chantes)。そうしてから、あと、ピアノの小品、一番最初に、『2つのノヴェレッテ』、もっともこれ僕たちは3曲聴きましたけど、それから、最後に、FP48の『ピアノのための3つの小品』。
これだけの曲、聴きました。
それじゃまた来週。さよなら。
そして、「さよなら」と言ってから僅か7秒後には、22時の時報が鳴る。与えられた時間全てを曲と解説に費やすという、一分(いちぶ)の隙もない完璧な構成である。
回によっては22時よりも数十秒から数分程度早く終わることがあるが、そのような場合はエンディングテーマとして、プーランクの『フルートとピアノのためのソナタ』が時間まで流される。このエンディングテーマは、扱っている作曲家が変わる都度それに合わせて変更され、ショスタコーヴィチを扱っていればショスタコーヴィチの曲、リヒャルト・シュトラウスを扱っていればリヒャルト・シュトラウスの曲である。
その他
上記で述べ切れなかった、この番組の特徴(というよりは、吉田秀和の話し方の特徴)について簡潔に記す。
- リスナーへの語りかけの言葉は、「皆さん方」あるいは「僕たち」である。「皆さん方」は「皆さん」「皆様」の派生と捉えれば、NHKの番組としては一般的なものであるが、「僕たち」というのはちょっと珍しい。まるで若者向けの番組のようであるが、これも吉田ならではの言葉遣いである。
- 演奏者を紹介する際に、「歌ってんのは誰々で、誰々がピアノを弾いてます」という言い方をすることが多い。他のNHK-FMの番組であれば「歌は誰々、ピアノは誰々です」という言い方が一般的であるが、後者は「“歌”というパートにいる人物」のことをただ機械的に伝達しているだけとも取られかねないのに対し、吉田は「歌っている人物」という視点から紹介をしているのだ。もとよりクラシック音楽とは、演奏者によって大きく解釈が異なるものであるため、吉田が「演奏している人」を重要なファクターとして捉えていることがわかる表現であると言えよう。
- 人物の生没年を説明する際に、例えば「xxxx年に生まれて、xxxx年にxx歳で死にました」のように、必ず「死んだ」「死にました」「死んじゃった」という表現をし、決して「亡くなった」とは言わない。
これは何も、扱っているのが歴史上の人物だからというのではない。2005年12月17日の放送での「私の試聴室」では、その前年に亡くなったピアニストの園田高弘を偲んで彼の演奏のCDをオンエアする際にも、「今日は、去年死んだ園田高弘さんを偲んで」という言い方をしている。ごく最近まで存命であった、“さん付け”で呼ぶような人物に対してさえ、「亡くなった」とは言わず「死んだ」と言うのだ。
なぜ一般的な表現である「亡くなった」という言い方をしないのか不思議ではあるが、しかし「亡くなった」よりも「死んだ」のほうが、「死」というもののもつ何かを、よりはっきりと伝えているようにも思える。
さて、ここまでお読み頂いて、いかがだっただろうか。土曜日の21時台という、他のテレビやラジオでは賑やかなバラエティ番組などをやっている時間帯に、NHK-FMではこのようなクラシック音楽の番組が放送されているのだ。クラシック音楽についての素養がないからと敬遠したりせずに、どうか、一度この番組を聴いてみてほしい。最初は、吉田が喋っている内容の半分も理解できないかもしれない。しかし、何回も聴き続けているうちに、作曲家の生涯や、あるいはその作曲家に対する吉田の想いなどが、ラジオを通じて自然と伝わってくるはずだ。
もちろん、そんなものなど何回聴いても伝わってこない、という方もおられるだろう。しかしそれでも、土曜日の夜、クラシック音楽を聴いてゆったりと過ごすことにより、精神が休まり、さらにそれは明日の日曜日の充実へと繋がってゆくはずである。クラシックの名曲と、吉田の穏やかな語り口とに浸ること、それもまた、『名曲のたのしみ』の、ひとつの「たのしみかた」なのだ。
それじゃまた来週。さよなら。