モンゴル帝国

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モンゴル帝国(もんごるていこく)とは、13~14世紀に世界一帝国となったである。その広さは、東は朝鮮半島から、西は東ヨーロッパやトルコに及び、世界史上最大である。一部の学者は「モンゴル帝国じゃなくてモンゴル・ウルスって呼べよ」と言ってるが、そんな名前は誰も知らない

経緯[編集]

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建国と拡大[編集]

この国は13世紀初頭、モンゴル平原にいたチンギス・ハーンジンギスカン)という人が、成り行きに任せて建国してしまったものである。一説によると、源義経が自分を日本から追い出した兄・源頼朝の立てた鎌倉幕府に対し復讐するためだけに、チンギス・ハーンに変身して建国したといわれている。しかし今は、アイヌが住んでいた北海道で生まれた伝説の旨い肉鍋料理を食いたいと思って、モンゴル平原にいた彼が、その目的を達成するために邪魔となる中国北部の王朝を滅ぼす目的で建国したというのが定説になっている。

対アフガン戦争での大敗

だが、チンギスはモンゴルの民を統一し、その精強な騎兵と相撲力士にみられる圧倒的な軍事力を用いて中央アジア方面に進出していったが、アフガニスタンとの戦争アフガン航空相撲の力士に手痛い反撃を食らってその勢いを失い、中国方面への進出では西夏と呼ばれる辺境国を滅ぼしただけで終わってしまった。そしてチンギスは西夏討伐の帰路で没した。

チンギスの夢を引き継いだのは二代目頭領であるオゴテイ・ハーンで、彼は中国北部を統治していた王朝を滅ぼし、ついに北海道がある日本海側への足がかりをつかんだ。後には朝鮮半島を統治していた高麗にも戦を仕掛けた。またヨーロッパ方面へも兵を派遣し、ロシアを蹂躙し、ポーランドドイツ騎士団連合軍、ハンガリー軍をも破り、ウィーンにまで進攻しようとするも、オゴテイの死によって頓挫する。

モンゴル兵(タタール人)の精強さはヨーロッパ人の心胆を寒からしめ、綴りも似てた事からタルタロスの使者として恐れられた。なおタルタルソースはそのタタール人が食べていた料理から名付けられた。 ちなみにアジアからヨーロッパまでを支配したので、まさに世界中の美女を手にすることができた唯一の帝国である。

中国統治と分裂[編集]

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オゴテイの死後、グユク、モンケを経て五代目頭領はクビライ・ハーンである。チンギスの孫にあたるクビライは、北海道の伝説の料理を自分のものにするという目的に対してあまり関心を抱かなくなり、代わって人口が多くて豊かな中国全域を支配下に入れることを目論むようになった。しかしこれに対しては、先祖代々の目的をないがしろにするとは何事だとして同族からも強い反発を抱き、ついにキプチャク・ハン国チャガタイ・ハン国イルハン朝が分裂発足してしまうことになる。といっても、それは表向きで、モンゴル帝国が巨大になりすぎて、遠隔地を統治していた王族たちが時間の経過とともにモンゴル高原の本国と疎遠になっていき、自立の機会をうかがっていたのである。

トルイ・ウルス(モンケとクビライ兄弟)にハーン位とモンゴル草原を奪われたオゴテイ家もトルイ領とチャガタイ領の間にオゴテイ・ハン国(オゴタイ汗国とも)を建てるが、次第に衰退し消滅した。

世界一の領土を誇った帝国が崩れたことに対してショックを少しは受けたクビライだったが、気を取り直して中国南部を統治していた南宋への攻撃を図り、ついにそれを滅ぼして中国の統一支配化を達成した。またそれに先駆けて、クビライはよっぽど中国かぶれしていたらしく、国号も中国歴代王朝みたいにしようと大元に改称し、中書省という行政本部を設置し、首都をモンゴル高原のカラコルムから大都(現在の北京)に移した。

さてそんなクビライは、北海道に関してはあまり興味を抱かず、北海道の隣の樺太には遠征軍を派遣しながら、北海道にはノータッチであったが、日本そのものへは強い関心を抱いていた。それは、自分のところに服属しようとしない姿勢についキレてしまったというのが最も大きかったが、腹心にしていたヴェネツィア出身の旅行商人であるマルコ・ポーロがどっか変なところから仕入れてきた情報(黄金の国ジパング)を鵜呑みにし、日本に山ほどあると頭の中で妄想した(実際にはない)鉱山を占領しようとして、2回も九州に攻撃を仕掛けた(元寇)。しかし、陸戦ばっかりに慣れていて海戦には弱いモンゴル軍のこと、野分(台風)のことも知らなかったのか、それによる大被害を受けて撤退した。その後はベトナム遠征にもインドネシア遠征にも失敗。かつて貴族化して武士の戦闘民族としての性分が失われていった日本の平氏政権のように、遊牧地の騎馬民族の精鋭であったモンゴル軍も中国大陸の都会に定住して弱体化していったのである。

衰退・滅亡[編集]

もともと大元は圧倒的大多数の現地住民である中国人(漢民族)の上に、少数ながら精鋭揃いの軍事力を有するモンゴル人が君臨する構造だったが、その後、大元は中国かぶれし、モンゴル人はすっかり精鋭ぶりを失った。そのくせ中国人を蔑視していた姿勢や、無茶な海外進出費用、新興宗教への傾斜で財政が傾き、税金を重くしていったことから中国人の反発を招いた。

ついに紅巾の乱の紅はの玄に勝つ)で朱元璋(洪武帝)がを建国、北方のモンゴル高原に追いやられた。以降の大元は北元と呼ばれ、元の順帝と北元の初代皇帝は同一人物である。


その後も中原回復を夢見て明と度々戦っている。 女真族にヌルハチが出ると後金が興り、北元の末帝(チャハル部)は皇帝の印璽を献上し降伏した。ホンタイジは満州に内蒙古を併吞した。

一方、ハルハ部は尚も屈せず、独自のハーンを建て(後元、韃靼などと呼ばれる)不倶戴天の敵・オイラートと手を結び(後金から改称)に抵抗した。

それからの清は順治帝の摂政ドルゴンが南明を滅ぼし、大陸制覇が目前だった。地方限定勢力だが大西(後成)・三藩(御三家)の乱・朱三王子を担ぐ後明(鄭氏台湾)が残り、隠遁した行痴和尚(退位後の順治帝)の跡を継いだ康熙帝はもぐら叩きに夢中で、猛虎軍などはアウトオブ眼中だった。

しかし、1688年、ジュンガル帝国がモンゴル草原に侵攻しカラコルムを陥落させ、後元の出帝は清に亡命。ここにモンケ・ハーン(名目上はクビライから)以来の大元ウルスは消滅した。


チベット・回族まで藩部とし、やっと余裕ができた(女真、満州族)が北伐に出てジュンガルを倒した。蒙古民族はモンゴル草原に復帰できたが、猛虎八旗の支配下に入り、20世紀まで独立することはできなかった。

後世への影響[編集]

後の日本になって、北海道で生まれたその肉鍋料理にジンギスカンと名づけられたのは、もちろん上記のチンギスの逸話に因んでいる。

また、関西で人気を集める阪神タイガースは彼らの末裔が作ったといわれている。蒙古打線という言葉はここから来ている。

それから現在[編集]

世界初モンゴルの新アトラクション

モンゴルの相撲協会は、最近の若者による力士離れを見て力士業活性化を構想し、オープンキャンパスならぬオープン場所を年に4回開催する中で、担当の力士が子供達を掴んで投げ回しているアトラクションを生み出した。

どう動いているかといえば、腰から上が回るか、両手を上下へ回すのいずれかである。 なお、最近まで内陸国なのにも関わらず海軍があったらしい。たが今は軍隊も民営化されてるとか。

関連項目[編集]

歴史の渦に巻き込まれる!

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