豊後国
遠国に属する令制国の一つ
豊後国(ぶんごのくに、7世紀末 - 1872年)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の大分県に属する。
豊後国 | |
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■-豊後国 ■-西海道 | |
別称 |
豊州(ほうしゅう) 二豊(にほう)[注釈 1] |
所属 | 西海道 |
相当領域 | 大分県大部分(宇佐市・中津市除く) |
諸元 | |
国力 | 上国 |
距離 | 遠国 |
郡・郷数 | 8郡44郷 |
国内主要施設 | |
豊後国府 | 大分県大分市 |
豊後国分寺 | 大分県大分市(豊後国分寺跡) |
豊後国分尼寺 | (推定)大分県大分市 |
一宮 |
西寒多神社(大分県大分市) 柞原八幡宮(大分県大分市) |
領域
編集沿革
編集古代
編集古墳時代には国東半島中心とした地域に国前国造、大分郡を中心とした地域に大分国造、日田郡を中心とした地域に比多国造が設置された。
飛鳥時代の大化の改新のあとの701年に律令制(大宝律令)が施行され、九州全体は西海道の一部になり、それまでの豊国(とよのくに)が分割され、豊後国と豊前国が設けられた(続日本紀)。
また8世紀前半の編纂とされている『豊後国風土記』は、全国で5つだけのほぼ完全な形で残る風土記の1つである。
豊後国は、平安時代まで和名で「とよ くにの みちのしり」と読んだ。[注釈 2]
中世
編集平安時代末期の1185年、治承・寿永の乱(源平合戦)で平家が滅びた後、源頼朝は親平家方であった九州の在地武家を抑えこむため、新しく東国御家人の大友氏を守護として九州に送り込んだ。豊後国では大友御紋衆の一萬田氏や大友の下り衆が次第に勢力を強め、国衆であった丹部氏、漆嶋氏、宇佐氏、大神氏、清原氏、藤原氏、阿南氏、稙田氏、大野氏、臼杵氏、緒方氏、賀来氏、佐伯氏、橋爪氏、徳丸氏など在地武家を抑え込んだ。
鎌倉時代から室町時代も大友氏が守護であり、戦国時代から安土桃山時代にかけては争いごとも盛んに起きた。
- 1530年(享禄3年) 賀来の騒動 - 大友御紋衆清田氏と国衆との争い
- 1534年(天文3年) 勢場ヶ原の戦い - 大友義鑑 x 大内義隆(陶興房)
- 1570年(元亀元年) 今山の戦い
- 1578年(天正6年) 耳川の戦い
- 1586年(天正14年) 天正の役(豊薩合戦)、九州平定
- 1586年(天正14年)戸次川の戦い - 豊臣 x 島津
- 1600年(慶長5年) 石垣原の戦い - 黒田如水 x 大友義統
21代目大友宗麟の時代には、ポルトガルやカンボジアとの交易も拡大した。
豊臣政権下において検地(太閤検地)が実施され、42万石が総石高とされた[1]。
江戸時代
編集1803年に唐橋世済他が編纂した『豊後国志』に当時の豊後国に関する趨勢統計や史跡史実が纏められている。
近世以降の沿革
編集- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(1812村・46万611石余)。太字は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。
- 国東郡(207村・8万1399石余) - 幕府領(熊本藩預地)、旗本領、杵築藩、肥前島原藩、日向延岡藩
- 速見郡(123村・5万9230石余) - 幕府領(熊本藩預地)、旗本領、杵築藩、日出藩、森藩、日向延岡藩
- 大分郡(269村・7万1302石余) - 幕府領(熊本藩預地)、旗本領、府内藩、臼杵藩、岡藩、肥後熊本藩、日向延岡藩
- 海部郡(317村・6万2275石余) - 幕府領(佐伯藩預地)、臼杵藩、佐伯藩、肥後熊本藩
- 大野郡(460村・7万2685石余) - 岡藩、臼杵藩
- 直入郡(303村・4万9799石余) - 幕府領(熊本藩預地)、岡藩、肥後熊本藩
- 玖珠郡(40村・3万841石余) - 幕府領(西国筋郡代)、森藩
- 日田郡(93村・3万3076石余) - 幕府領(西国筋郡代)、森藩
- 慶応4年
- 明治3年12月24日(1871年2月13日) - 佐伯藩預地が日田県の管轄となる[2]。
- 明治4年
国内の施設
編集国府
編集国府は大分郡にあった。現在の大分市古国府と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。
国分寺・国分尼寺
編集- 豊後国分寺
- 現在の金光明寺(大分県大分市国分)。
神社
編集二宮以下は不詳である。
安国寺利生塔
編集- 豊後安国寺 - 大分県国東市国東町安国寺。
地域
編集郡
編集- 特記した以外は『豊後国風土記』での表記による。
江戸時代の藩
編集人物
編集国司(豊後守・豊後介)
編集この節の加筆が望まれています。 |
- 陽候史真身、天平7年(735年)任官 - 豊後守
- 小治田諸人、天平10年(738年)任官
- 榎井子祖父、天平宝字元年(757年)任官
- 池田足継、天平宝字5年(761年)任官
- 笠不破麻呂、天平宝字7年(763年)任官
- 佐伯久良麻呂、天平神護元年(767年)任官
- 紀鯖麻呂、宝亀2年(771年)任官
- 多治比継兄、天応元年(781年)任官
- 大神良臣、仁和2年(886年) - 豊後介
- 藤原園人
- 藤原豊彦
- 難波頼経、1180年頃
- 源光季
守護
編集鎌倉幕府
編集室町幕府
編集- 1333年 - 大友貞宗
- 1334年 - 1352年 - 大友氏泰
- 1352年 - 1364年 - 大友氏時
- 1364年 - 1367年 - 大友氏継
- 1371年 - 1416年 - 大友親世
- 1372年 - 1376年 - 大友氏継
- 1416年 - 1426年 - 大友親著
- 1427年 - 1429年 - 大友持直
- 1444年 - ? - 大友親繁
- 1453年 - 1458年 - 大友親綱
- 1469年 - 1482年 - 大友親繁
- 1482年 - 1484年 - 大友政親
- 1484年 - 1496年 - 大友義右
- 1496年 - 1501年 - 大友親治
- 1501年 - 1516年 - 大友義長(義親)
- 1525年 - 1550年 - 大友義鑑
- 1550年 - 1576年 - 大友義鎮(宗麟)
戦国時代
編集戦国大名
編集- 大友氏:豊後・筑後二国の守護に任じられていたが、義鑑の代に肥後に進出し1543年には肥後守護に補任される。義鎮(宗麟)の治世に最盛期を迎え、肥前・豊前・筑前にも進出して1554年に肥前守護、1559年に豊前・筑前の守護に補任。九州6ヶ国の守護となり、龍造寺氏、島津氏と九州の覇を競った。徐々に衰退して豊薩合戦で島津氏に敗れ、豊臣氏の九州平定後には豊後1国のみを安堵される。
豊臣政権の大名
編集- 大友義統・大友義乗:豊後1国。1587年 - 1593年(文禄の役での義統の失態のため改易)
- 中川秀成:豊後岡7万石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、所領安堵。豊後岡藩初代藩主となる)
- 太田一吉:豊後臼杵6万5千石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、改易)
- 福原長堯:豊後府内12万石→6万石。1597年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、自刃)
- 早川長政:豊後府内→杵築2万石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、改易)
- 毛利高政:豊後日田・玖珠2万石。1595年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、豊後佐伯藩2万石に移封)
- 垣見一直:豊後富来2万石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、大垣城にて殺害される)
- 熊谷直盛:豊後安岐1万5千石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、大垣城にて殺害される)
- 竹中重利:豊後高田1万3千石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、豊後府内藩2万石に移封)
- 木村清久:豊後国内1万石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、改易)
- 細川忠興:豊後杵築6万石(飛び領、城代:松井康之、有吉立行)。1599年 - 1632年(肥後熊本藩54万石に移封)
武家官位としての豊後守
編集江戸時代以前
編集江戸時代
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 大分県総務部総務課 1990, p. 4.
- ^ a b 末広利人「日田県管地化の実体 : 佐伯藩預所の場合」『大分縣地方史』第105号、大分県地方史研究会、1982年3月、20-37頁、NAID 120004878384。
参考文献
編集- 大分県総務部総務課 編『大分県史』《近世篇IV》大分県、1990年3月31日 。(要登録)
- 『豊後国図田帳』国文学研究資料館『諸国風土記及図田帳』(しょこくふどきおよびずでんちょう)、大和文華館(奈良県)所蔵、1285年。
- 唐橋君山(1803年)『豊後国志:附・箋釈豊後風土記』 - 国立国会図書館デジタルコレクション(二豊文献刊行会版、1931年写本)
- 『訓読 豊後国志』太田由佳訳/松田清注(思文閣出版、2018年)https://www.shibunkaku.co.jp/publishing/list/9784784219346/
- 角川日本地名大辞典 44 大分県
- 旧高旧領取調帳データベース