阿部 正由(あべ まさより[1])は、江戸時代中期から後期の大名武蔵忍藩第8代藩主。寺社奉行大坂城代京都所司代。忠秋系阿部家8代。和歌山藩徳川宗将の子で、はじめは松平頼朴(よりなお)と名乗った。

 
阿部 正由
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 明和元年11月22日1764年12月14日
死没 文化5年11月28日1809年1月7日
改名 久米之丞(幼名)→松平頼朴(初名)→阿部正由
墓所 多磨霊園
官位 従五位下、播磨守、従四位下、豊後守兼侍従
幕府 江戸幕府 奏者番寺社奉行大坂城代
京都所司代
主君 徳川家斉
武蔵忍藩
氏族 紀伊徳川家阿部氏
父母 父:徳川宗将、母:村上氏
養父:阿部正識
兄弟 直松、徳川重倫、門之進、内藤学文
松平頼興松平頼謙松平忠功三浦為脩
松平忠和安藤道紀正由
正室:阿部正識の養女(阿部正敏の娘)
酉次郎(早世)、正権
養子:明子梅心院亀井茲尚室)
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生涯

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宝暦12年(1762年)11月22日[2]和歌山藩主・徳川宗将の十一男として生まれる。寛政5年(1793年)1月25日に忍藩主阿部正識の養子となり正識の養女を正室に迎える。同年2月に従五位播磨守に叙任された。

寛政8年(1796年)2月21日、阿部家の家督を相続。寛政10年(1798年奏者番享和元年(1801年7月17日寺社奉行文化元年(1804年1月23日大坂城代、文化3年(1806年10月12日京都所司代と幕府の要職を歴任した。

文化5年(1808年)10月11日に死去(公には11月22日と発表)、享年47(満45歳没)。長男の正権が家督を継いだ。

官歴

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系譜

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父母

正室

側室

  • 泰寿院

子女

  • 阿部酉次郎
  • 阿部正権(次男)生母は泰寿院(側室)

養女

脚注

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  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus
  2. ^ 「紀州様系譜」(『徳川諸家系譜』(続群書類従完成会)、244頁)

参考文献

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  • 工藤寛正編『江戸時代全大名家事典』東京堂出版、2008年。
  • 続群書類従完成会『新訂寛政重修諸家譜』第十、八木書店、1969年。