法案寺
法案寺(ほうあんじ)は、大阪市中央区にある高野山真言宗の準別格本山の寺院。山号は志宜山。本尊は大聖歓喜天(聖天)。正確には法案寺南坊である。大阪七福神の弁財天を祀る。
法案寺 | |
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所在地 | 大阪府大阪市中央区島之内2丁目10-14 |
位置 | 北緯34度40分10.2秒 東経135度30分27.3秒 / 北緯34.669500度 東経135.507583度座標: 北緯34度40分10.2秒 東経135度30分27.3秒 / 北緯34.669500度 東経135.507583度 |
山号 | 志宜山 |
宗派 | 高野山真言宗 |
寺格 | 準別格本山 |
本尊 | 大聖歓喜天(聖天) |
創建年 | 推古天皇の時代 |
開基 | 聖徳太子 |
正式名 | 志宜山法案寺南坊 |
別称 | 日本橋聖天 |
札所等 |
摂津国八十八箇所第1番 大阪七福神(弁財天) |
文化財 | 聖観音立像(重要文化財) |
法人番号 | 3120005001631 |
歴史
編集寺伝によれば、推古天皇の頃(593年 - 628年)に聖徳太子が志宜野(しぎの)(現・城東区鴫野(しぎの)の西側である法円坂の地)に法案寺を建立したという。建立した場所の地名から山号を「志宜山」とし、仏法弘通の公案をしたところから寺号を「法案寺」としたという。
平安時代には本地垂迹説が広まるようになり、隣接している生玉神社と神仏習合し、法案寺は生玉神社の神宮寺(別当寺)の「生玉宮寺」として大いに隆盛した。しかし、後になって衰微する。応永年間(1394年 - 1428年)に松永政廣が称光天皇の勅命を受けて法案寺を再興する。「天文日記」には、法案寺第3世・正教が浄土真宗本願寺派の蓮如に帰依していたことから、蓮如に法案寺の土地を貸し、そこに蓮如が大坂御坊(後の大坂本願寺)を建立し、後に寺地が譲渡されたという記録がある。
天正年間(1573年 - 1592年)の織田信長と大坂本願寺との間で戦われた石山合戦に巻き込まれ、生玉神社と共に焼失している。
豊臣秀吉が大坂城を築城する時、法案寺は法円坂にあったが、天正11年(1583年)、生玉神社と共に馬場崎(現・天王寺区生玉町、生国魂神社境内地の北側)に移転させられた。なお、法円坂の語源は法案寺からきたものとされ、「法案」から「法眼」、そして「法円」となまったものという。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣による兵火で生玉神社と共に焼失したが、江戸幕府により両者共に復興され、寺領300石も安堵されている。江戸時代、法案寺(別名・南坊)は生玉神社の別当寺として桜本坊、遍照院、医王院、新蔵院、観音院、覚園院、地蔵院、曼荼羅院、持宝院の9つの神宮寺を管理し、生玉十坊の筆頭として生玉神社自体を統括する立場となった。また、歴代の大坂城代が法案寺に帰依したこともあって隆盛した。
明治時代に入り、神仏分離が行われると生玉神社と神宮寺は分離され、桜本坊は奈良県生駒市の円正寺に、遍照院・医王院は生玉寺町の青蓮寺に、新蔵院・観音院は上之宮町の正祐寺に、覚園院は生玉前町の宗恵院になった。地蔵院は生玉町の藤次寺に合併、曼荼羅院は生玉町の持明院に合併、持宝院は心斎橋筋の三津寺に合併された。法案寺も寺領を失うなかで当時の法案寺住職・栄達は本堂から聖観音と歓喜天を持ち出し、1879年(明治12年)に現在地である大阪市中央区島之内に寺基を移す。1883年(明治16年)6月に法案寺南坊として復興、再建したが、境内地は生玉町にあった頃と比べるとはるかに狭くなった。
1945年(昭和20年)3月13日・14日の第1回大阪大空襲で全焼した。
戦後復興し、本尊の大聖歓喜天は「日本橋の聖天さん」として信仰を受けている。また、祀られている歓喜天は「福 寿 愛」の御利益があるとされている。そのことから、法案寺の御朱印と歓喜天浴油のお札には、「福 寿 愛」と記された宝袋の朱印が押されている。
境内
編集文化財
編集重要文化財
編集前後の札所
編集行事
編集- 1月1日 - 7日 聖観音の開扉
- 2月 星まつり(星供)
授与品
編集所在地・アクセス
編集大阪市中央区島之内2丁目10-14