松平忠福
松平 忠福(まつだいら ただよし)は、江戸時代中期の大名。上野国小幡藩2代藩主。官位は従五位下・采女正。忠尚系奥平松平家4代。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 寛保2年12月25日(1743年1月20日) |
死没 | 寛政11年5月19日(1799年6月22日) |
改名 | 幸太郎(幼名)、忠福 |
戒名 | 即是空院繊月幽閉 |
墓所 | 東京都墨田区向島の弘福寺 |
官位 | 従五位下、采女正 |
幕府 | 江戸幕府西の丸若年寄 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 上野小幡藩主 |
氏族 | 奥平松平家 |
父母 | 松平忠恒、津軽信興の娘 |
兄弟 |
忠福、大久保忠恕、内藤信凭正室、 松平乗祐養女、松平忠順室、本多忠昭室、桑原盛員養女 |
妻 | 松平資訓の養女 |
子 |
忠房、高木正剛、忠彊、横瀬貞征、 津田信久正室、曲淵景露室、曲淵景露室 |
経歴
編集寛保2年(1742年)12月26日、初代藩主・松平忠恒の長男として誕生。明和5年(1768年)、父の死去により跡を継ぐ。安永3年(1774年)12月に奏者番頭となり、天明5年(1785年)12月24日に西の丸若年寄となる。天明6年(1786年)10月に若年寄となった。
藩政においては、寛政3年(1791年)に藩校・小幡学校を創設する。また、藩財政の困窮化と領内の荒廃化が進み、寛政10年(1799年)に困窮農民救済の低利貸付金制度(恵民講)を制度化したが、効果はなかった。寛政11年(1799年)5月22日に死去した。享年58。世子とした長男の忠房、三男の忠彊がともに早世したため、跡を忠房の子・忠恵が継いだ。
系譜
編集父母
正室
子女