松平 忠恵(まつだいら ただしげ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名上野国小幡藩3代藩主。官位従五位下内膳正宮内少輔玄蕃頭。忠尚系奥平松平家5代。

 
松平忠恵
時代 江戸時代後期
生誕 天明4年8月5日1784年9月19日
死没 文久2年2月2日1862年3月2日
改名 初之助(幼名)、忠恵
別名 内膳(通称
戒名 実相院殿転心如幽大居士
墓所 東京都墨田区向島弘福寺
官位 従五位下内膳正宮内少輔玄蕃頭
幕府 江戸幕府奏者番若年寄
主君 徳川家斉家慶家定
上野小幡藩
氏族 奥平松平家
父母 松平忠房間部詮方八女・政姫
蜂須賀重喜七女・定姫
諏訪忠粛
忠孝忠恕、縄姫ら
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生涯

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天明4年(1784年)8月5日、松平忠房(2代藩主・松平忠福の嫡子)の長男として誕生。父の早世後は叔父・忠彊が嫡子となったが、忠彊も寛政10年(1798年)に早世したため、3月5日に祖父・忠福の嫡子となった。寛政11年(1799年)7月16日、祖父の死去により家督を継いだ。同年12月18日、従五位下・宮内少輔に叙任する。文化5年(1808年)7月12日、奏者番に就任する。

藩財政改革のため、緊縮財政政策を用いるが効果はなく、弘化元年(1844年)には収入に対して借金が10倍近くの7万4032両にまでなっていたと言われている。さらに農村の荒廃なども進んだ。天保9年(1838年)8月20日、若年寄に就任する。嘉永元年(1848年)10月18日、城主格となる。安政3年(1856年)6月27日、老齢を理由に五男・忠恕に家督を譲って隠居した。文久2年(1862年)2月2日に死去した。享年79。

鼠小僧捕獲

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天保3年5月4日1833年)夜、忠恵は浜町の江戸藩邸中屋敷において、当屋敷に盗みに入っていた鼠小僧と出くわし、家臣に捕獲させて幕府に引き渡した。これにより、鼠小僧は処刑されることとなった。

ちなみに、文政12年(1830年)の須原屋版武鑑には、浜町に所在する小幡藩江戸藩邸は存在していない[1]が、天保4年(1834年)の武鑑では浜町かきから丁に中屋敷があると記載されており、天保年間にそれまでの永田馬場から浜町に移転していた可能性が高い。

系譜

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父母

正室、継室

子女

脚注

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  1. ^ なお、文政12年の武鑑では上屋敷はつきち(築地)、中屋敷は永田馬場、下屋敷はせんだがや(千駄ヶ谷)にあったとある。

参考文献

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