松平忠恒
松平 忠恒(まつだいら ただつね)は、江戸時代中期の大名。陸奥国桑折藩3代藩主、上野国篠塚藩主、同上里見藩主、同小幡藩初代藩主。官位は従五位下・大蔵少輔、宮内少輔、摂津守。忠尚系奥平松平家3代。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保5年(1720年) |
死没 | 明和5年11月9日(1768年12月17日) |
改名 | 定太郎(幼名)、忠恒 |
戒名 | 徳翁義光大謙院 |
墓所 | 東京都墨田区向島の弘福寺 |
官位 | 従五位下、大蔵少輔、宮内少輔、摂津守 |
幕府 | 江戸幕府奏者番、寺社奉行 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
藩 | 陸奥桑折藩主→上野篠塚藩主→上野上里見藩主→上野小幡藩主 |
氏族 | 奥平松平家 |
父母 | 松平忠暁、黒田直邦の娘 |
兄弟 |
忠衙、忠恒、毛利高能正室、 稲垣定計正室、高木正恒正室 |
妻 | 津軽信興の娘 |
子 |
忠福、大久保忠恕、内藤信凭正室、 松平乗祐養女、松平忠順室、本多忠昭室、桑原盛員養女 |
生涯
編集享保5年(1720年)、桑折藩2代藩主・松平忠暁の次男として誕生。兄・忠衙が早世したため嫡子となる。享保19年(1734年)に叙任し、元文元年(1736年)の父の死去により跡を継いだ。
延享4年(1747年)3月に奏者番となり、同年7月に上野篠塚に移封となる。9月には寺社奉行を兼任することとなる。寛延元年(1748年)8月には上里見に移り、同年10月には若年寄にまで栄進した。
系譜
編集父母
正室
- 津軽信興の娘
子女