上里見藩
上里見藩(かみさとみはん)は、上野国碓氷郡上里見村(現在の群馬県高崎市上里見町)を居所として、江戸時代中期に存在した藩。1748年に松平忠恒が入封して成立した。石高は2万石。1767年に小幡藩に移封されて廃藩となった。
歴史
編集前史
編集延享4年(1747年)7月、陸奥桑折藩2万石の藩主・松平忠恒は、陸奥国伊達郡内の1万2550石を上野国邑楽・吾妻・利根・碓氷・緑野郡および伊豆国田方郡に移された[1]。この際に邑楽郡篠塚村に陣屋が置かれたとされ、篠塚藩が成立した[1]。忠恒は奏者番を務めていたが、同年に寺社奉行を兼任した[1][注釈 2]。
碓氷郡上里見村はこの延享4年(1747年)に松平忠恒領(篠塚藩領)となっている[2]。
立藩から廃藩まで
編集寛延元年(1748年)8月29日、陸奥国伊達郡内3650石の所領が上野国碓氷・群馬両郡に移された[1][3]。これに際して忠恒は上里見村に居所を移し[1][4][3]、上里見藩が立藩した[4]。
同年閏10月1日、忠恒は若年寄に就任[3]。以後、忠恒はその死去に至るまで、徳川吉宗・家重・家治の3代20年にわたって若年寄の任に在った。宝暦12年(1762年)12月9日には勝手掛となり[5][3]、勝手掛老中松平武元とともに幕府の財政政策を主導した[5]。
藩政面においては、春日堰・松原堰の整備、新田開発、神山宿の定期市開設などが行われた[4]。
明和4年(1767年)閏9月28日に上野国甘楽・多胡・碓氷3郡に所領を移され、甘楽郡小幡を居所とした[3]。これにより上里見藩は廃藩となり、小幡藩が成立した[6]。
後史
編集小幡藩に移った松平忠恒であるが、翌明和5年(1768年)11月9日に49歳で死去した[3]。忠恒の系統の奥平松平家は小幡藩に定着し、幕末・明治維新を迎えることとなった。
歴代藩主
編集- 松平(奥平)家
2万石。譜代。
- 忠恒(ただつね)
領地
編集明和2年(1765年)の領地
編集明和2年(1765年)時点の領地の分布は以下の通り[4]。
表高は2万石、実高は2万5203石であった[4]。
里見郷・神山宿
編集居所所在地周辺は古くは里見郷(現在の高崎市上里見町・中里見町・下里見町一帯)と呼ばれた地域であり、新田氏支流の里見氏発祥地として知られる[7][8]。里見家の始祖・里見義俊は平安時代末期に里見城(下里見町字
里見郷には信州街道(上州街道。大戸道[10]や大戸通り[11]、草津街道[11]、神山道[12]などとも呼ばれる)が通過していた。信州街道は中山道高崎宿を起点とし、下豊岡(現在の高崎市下豊岡町)で中山道と分岐し、神山宿・三ノ倉宿・大戸宿・大戸関所・須賀尾宿・狩宿宿・鎌原宿・大笹宿・大笹関所を経由して鳥居峠を越え、信濃国に至る道である[10]。上山城の根小屋(城周辺の集落)や集村的農村から街道集落として発展したのが神山(上里見町字神山)であり[13]、延享3年(1746年)に宿場町(神山宿)として定められた[13]。神山宿は下町・中町・本町の3つの町に分かれた[13]。上里見藩の陣屋は、上里見の神山宿南に置かれた[14]。神山宿と、烏川対岸に位置する室田宿(高崎市下室田町。信州街道の別経路である室田道の宿場)は利害が衝突する関係にあったために訴訟も引き起こされたが、宝暦10年(1760年)には神山宿に有利な判決が出た[13]。これには若年寄を務める松平忠恒の存在が影響したという[13]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e “篠塚藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年6月10日閲覧。
- ^ “上里見村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年6月10日閲覧。
- ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第五十一「松平」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.271。
- ^ a b c d e “上里見藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年6月10日閲覧。
- ^ a b “松平忠恒”. 朝日日本歴史人物事典. 2024年6月10日閲覧。
- ^ “小幡藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年6月10日閲覧。
- ^ a b c d “里見氏のふるさと紀行”. さとみ物語テキスト版. 館山市立博物館. 2024年6月9日閲覧。
- ^ “南北朝動乱のなかの里見氏”. さとみ物語テキスト版. 館山市立博物館. 2024年6月9日閲覧。
- ^ “里見城跡”. 高崎市文化財情報. 高崎市. 2024年6月9日閲覧。
- ^ a b 『歴史の道調査報告書 信州街道』, p. 3.
- ^ a b “大戸村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年6月10日閲覧。
- ^ 『歴史の道調査報告書 信州街道』, p. 10.
- ^ a b c d e 『歴史の道調査報告書 信州街道』, p. 28.
- ^ 『歴史の道調査報告書 信州街道』, p. 29.
参考文献
編集- 『信州街道』群馬県教育委員会〈群馬県歴史の道調査報告書 5〉、1980年。doi:10.24484/sitereports.101971。 NCID BN13717251。